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博士論文審査要旨

論文題目:近代朝鮮における塩需要と塩業政策
著者:田中 正敬 (TANAKA, Masataka)
論文審査委員:糟谷憲一、三谷孝、田崎宣義、渡辺尚志

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1.論文の構成

 本論文は、近代朝鮮(1876~1945)における塩需給の変化と塩業の展開過程とを考察した研究である。その構成は次のとおりである。

 序論
 第1章 朝鮮開港後の塩需給―1876年から大韓帝国期まで
  第1節 開港後から1890年代までの塩需給構造―日本塩輸入とその影響
  第2節 1890年代末の中国塩輸入増大と民間塩業の衰退
  第3節 統監府の塩業政策
 第2章 植民地期前期における朝鮮総督府の塩業政策―1910年から1920年代末まで
  第1節 植民地期朝鮮の専売制度と塩業
  第2節 1910~20年代における輸移入塩の動向
  第3節 官営天日塩生産の動向と総督府の塩業政策
 第3章 植民地期後期における朝鮮総督府の塩業政策―1930年代以降
  第1節 塩輸移入管理令施行とその意義
  第2節 日本における工業塩需要の拡大と朝鮮
       ―内外地塩務主任官会議・内外地塩務関係官会議を中心に
  第3節 塩輸移入管理令以後の塩田拡張と塩業政策―朝鮮における戦時増産体制とその破綻
  第4節 民間塩業の動向
 結論
 付録 本書に関わる法令
 参考文献

2.本論文の概要

 本論文は、近代朝鮮における塩需給の変化と塩業の展開過程を、3つの時期に区分して考察している。第1期は1876年の朝鮮開港から1900年代末における統監府の官営製塩方針の確定、官営塩田建設開始まで、第2期は「韓国併合」から1920年代まで、第3期は1930年代から1945年8月までである。第1期は第1章、第2期は第2章、第3期は第3章において考察されている。

 序論においては、朝鮮近代塩業史研究はいくつかの個別研究はあるものの、いまだ概説の枠内にとどまっていることを指摘した後、本論文の課題が述べられる。それは、(1)開港後から植民地期までを通した近代朝鮮塩業の展開過程を、塩業政策に即して長期的に把握すること、(2)朝鮮の民間生産者による塩生産(「民間塩業」)、初期に輸入された日本産塩と併合前から植民地期にかけて輸入された中国産塩、併合直前から植民地期にかけておこなわれた官営の塩田における塩生産(「官営塩業」)という三者の関係を究明し、塩業政策の展開過程を内的・外的要因と関わらせて位置づけること、(3)とくに第3期における朝鮮総督府の塩業政策が、東アジア諸地域との関連のもとでどのように位置づけられたかを考察すること、(4)植民地期に専売品とされた煙草などとの比較のもとで、植民地期朝鮮の塩専売政策の特質を明らかにすること、である。

 第1章第1節では、まず近代に先立つ李朝後期の製塩業の状況が述べられる。東アジアの海水採塩地域では三種の製塩方法、すなわち撒砂採鹹煎熬塩田法(本論文では煎熬法と略称。朝鮮・日本で一般的な製法)、天日塩田法(本論文では天日法と略称)、撒砂採鹹結晶塩田法(あるいは天日結晶塩田法)があることが説明されたのち、統監府による天日塩田建設以前の朝鮮では煎熬法が一般的であり、ことに全羅南道・慶尚南道や永興湾地域の生産性が高かったことなどが指摘される。ついで1876年の開港後における日本塩の輸入とその影響が検討される。この点に関する先行研究として、日清・日露戦間期に日本塩の輸入が急増し、朝鮮の農家副業的塩業経営が圧倒されたとする柴田一説、1890年代までは朝鮮の製塩業は成長し続け、日本塩の輸入によって打撃を受けたとは言えず、朝鮮製塩業の衰退をもたらしたのは20世紀初め以後の中国塩の輸入急増であるとする李永鶴説が示される。筆者は朝鮮における外国塩輸入量を開港場別に検討し、その結果、日本塩が輸入されたのは釜山・元山であり、1890年代に塩価格の低廉を武器に販路を拡大し、両港付近の製塩地に打撃を与えたが、1897年を境にして日本の塩価が騰貴すると、日本塩の輸入は減少し、朝鮮の塩業は復興すると分析する。

 第1章第2節では、1900年代~10年代前半に中国塩の輸入が急増し、日本塩の輸入量を凌駕したこと、中国塩は京畿道以北の西北沿岸地域に流入し、朝鮮煎熬塩を駆逐し、朝鮮塩業に重大な危機をもたらしたこと、中国塩輸入急増の要因は(1)中国塩が天日塩であり、煎熬塩に比して低廉であったこと、(2)中国塩輸入量のかなりの部分が密輸入であり、関税のかからない分、一層安価となったことが指摘される。

 第1章第3節では、 日露戦争を契機に朝鮮の植民地化を開始した日本が、朝鮮塩業への関与を開始し、統監府(1906年2月開庁)が官営製塩方針を確定するに至る過程を検討している。 その内容は次のとおりである。1904年に財務顧問として着任した目賀田種太郎による財政改革(「財政整理」)の一環として、中国塩輸入の増大に対応するための朝鮮塩業改革が課題とされた。統監府は1908年には官営製塩方針を、在来の煎熬法の保護・改良を進めていくべきであるとする部内の日本人塩田技師の反対を退けて確定した。それは統監府の関心が財源確保にあったためであった。こうして統監府は民間塩業の保護・育成策を切り捨てたが、1907年には「塩税規程」を制定して塩税の統一と収入確保を図った。しかし納税手続きの複雑化と税額の増大は生産者の脱税をひきおこし、税収額は少なく1920年に「塩税規程」は廃止されるに至った。こうして朝鮮総督府は民間塩業に対する統制を放棄したが、それは積極的な保護策をまったく講じないことでもあった。

 第2章第1節では、植民地期における朝鮮総督府の専売制度・専売政策全体の中に占めた塩業の位置を検討している。まず朝鮮総督府の専売政策担当部局の変遷を述べた後、塩は植民地期末期に至るまでは厳密な意味での専売制にはなっていなかったが、専売部局の所管になっていたことが指摘され、紅蔘・煙草・塩の専売制度の推移が述べられる。ついで財政面から見た専売の実績が検討され、塩業に関しては、(1)収支は不安定で、益金の割合は1920年代には1~2%台にとどまり、1923年には欠損を出す状態であり、「専売局の癌」と称されたこと、(2)1930年に「塩輸移入管理令」が施行されて中国からの輸入塩を統制できるようになって、益金がそれまでの2倍以上に増加したこと、(3)塩田築造費(専売局予算ではなく、事業公債に含まれる)を考慮するならば、朝鮮の官業製塩の収支は1924年まではすべて欠損を示し、1930年代の益金も低率であり、総督府財政に大きく寄与したとは言えないこと、などの点が指摘される。

 第2章第2節では、まず植民地期における朝鮮内の塩生産量および輸移入量の推移が分析される。官営天日塩(官塩)の生産量は1926年以降急増し、輸移入塩のシェアはしだいに低下していくこと、民間塩はシェアを低下させていくが1938年頃までは3万5千トンから4万トンの間で比較的安定した生産量を維持していたことなどが指摘される。ついで朝鮮への輸移入塩供給地における塩の生産、輸移出の様相が、山東半島、青島、遼東半島(関東州)、台湾の順で述べられる。

 第2章第3節では、官営天日塩の生産・流通の動向を中心にして、1920年代までの朝鮮総督府の塩業政策が検討される。そのなかで、(1)朝鮮総督府は統監府の方針を継承して官営天日塩田の拡大をはかるが、その第3期計画が関東大震災の影響で1925年に打ちきられたこと、(2)官塩の販売は当初は委託販売制によったが、1918年には販売を政府直営とし、塩卸売人を指定して特約販売人(1930年からは塩売捌人)とする制度に変わったことなどが指摘される。そして、1920年代までの時期においても、統監府時代以来目指されてきた塩製造専売制の施行はできなかったが、その理由は(1)事業公債打ち切りにより天日塩田築造が進まず、1920年代末に至っても官塩の生産高は需要の5割程度に過ぎなかったこと、(2)民間塩業が操業を続けており、廃業を強要できなかったこと、(3)輸移入塩は官塩の流通を脅かすものであったが、それなくしては朝鮮内の塩需給が成り立たなかったこと、であると論じている。

 第3章第1節では、1930年5月施行の「塩輸移入管理令」(正式には昭和5年制令第5号「塩ノ輸入又ハ移入ニ関スル件」)が朝鮮における塩の需給構造にどのような変化をもたらしたかを分析し、その意義を論じている。その内容は次のとおりである。1930年4月に内外地における関税制度統一の方針のもとに、塩の輸入関税が撤廃されることとなった。輸入天日塩が殺到して朝鮮内生産塩が打撃を受けるために制定されたのが、「塩輸移入管理令」である。塩は政府または政府の命を受けた者だけが輸移入でき、輸移入された塩は政府が買収することが定められ、朝鮮総督府は輸移入天日塩の数量と価格の両面にわたる統制権を確立し、朝鮮内塩流通の大半を占めるに至っていた天日塩への事実上の専売制を施行できるようになった。密輸入塩排除のために、専売局出張所に取締権限が付与され、取締官吏が増員された結果、大規模な密輸入はほぼ壊滅した。朝鮮総督府は、「塩輸移入管理令」の施行は民間塩業の救済のためであると謳ったが、第一義的な目的は官塩生産・流通の保護にあったと見なければならない。

 第3章第2節では、「塩輸移入管理令」施行以降の朝鮮総督府の塩業政策が、日本帝国全体としての塩需給調整策と関連づけられて展開するにいたったことに注目し、その具体的内容を1931年、1934年、1936年に開催された内外地塩務主任官会議についての検討を通じて考察している。まず考察の前提として、明治維新後の日本における塩需給の推移が考察され、第一に1920年代末までは国内産塩の需要低下と輸移入塩の増加とにより生じた余剰塩を解消し、需給を調整することが課題とされていたが、1930年代に入るとソーダ工業の発展に伴い需要が急増し、輸移入塩が増加することが指摘される。第二に日本への輸移入塩は、1920年代までは台湾塩・関東州塩などの「近海塩」がその大半を占めていたが、1930年代にアメリカ・メキシコ・インド・イラン・紅海沿岸・ヨーロッパなどから輸入される「遠海塩」が激増すること、「遠海塩」輸入の激増はソーダ工業の原料塩の増加によるものであったことが指摘される。

 ついで3回の内外地塩務主任官会議について検討される。その内容は次のとおりである。1931年9月に拓務省主催により開催された「第1回内外地塩務主任官会議」は日本帝国全体としての塩の需給調整を図ることを確認するが、塩供給側の台湾・関東州がその余剰塩を日本・朝鮮市場において消費してくれることを強く求めたのに対し、消費側、とくに日本の塩務行政管轄官庁である大蔵省専売局は消極的態度を示した。同会議の「付帯申合」において、朝鮮は台湾・関東州の余剰塩の消費先として期待されることとなり、朝鮮における塩需給の問題は帝国全体の塩需給体制と関連するものとされることになった。

 1934年10月に拓務省主催により開催された「第2回内外地塩務主任官会議」では、台湾・関東州の余剰塩を日本・朝鮮市場において消費してくれることを強く要求したこと、あらたに「満洲国」が加わり、「満洲国」における工業用塩の生産と日本への輸入を推進することを前提として、需給調整が図られた。このなかで朝鮮については一般用塩の自給自足を目標とした増産をはかること、目標達成の時期までにおける台湾・関東州塩の移入という方針が示された。ここに朝鮮における塩の増産=自給自足の完成は、日本帝国全体としての塩自給自足体制の確立という目標と密接に関連する課題として位置づけられることになった。

 1936年10月に大蔵省専売局主催により開催された「第1回内外地塩務関係官会議」は、ソーダ工業発展の情勢をふまえて、関東州・「満洲国」・中国華北などにおける工業用塩の増産目標(増産計画は「近海塩増産5ヶ年計画」と称された)を決めた。朝鮮については、「近海塩増産5ヶ年計画」の中には含まれなかったが、工業用塩をも含めた朝鮮内自給自足体制の完成という目標が示された。これは近海塩増産計画の成果を、最大の工業用塩消費先であった日本へ集中させる役割分担を求められたものであったといえる。

 第3章第3節では、「塩輸移入管理令」施行後における朝鮮総督府の塩業政策の展開過程を検討している。その内容は次のとおりである。

 朝鮮総督府は1929年に朝鮮内における塩自給自足体制を目指した新たな塩田建設計画を立てていたが、財政緊縮のために実現は遅れ、1933年~40年に2次にわたる建設計画が実施された。これに加えて1938年以降には第3次、第4次の建設計画が実施されたが、第4次計画は完成せず、第3次計画も所期の生産をあげることはできなかった。工業用塩については、日本窒素によるソーダ生産などの需要が興ったことを受けて、朝鮮内の工業用塩自給を目指して、1937年に朝鮮総督府は大日本塩業株式会社に工業用塩田の建設を許可した。しかし工業用塩田建設計画も完成したのは第1期計画だけであり、生産量も予定を大幅に下回るものであった。

 朝鮮への塩移入は1940年代に入って輸送手段の不足、とくに船舶の不足によって急速に減少した。このように塩生産量及び輸移入量の停滞は、塩不足を表面化させ、1941年の天日塩販売価格指定を嚆矢として、塩の価格統制が実施され、ついで1942年8月施行の「朝鮮塩専売令」によって配給統制が実施されるに至った。この「朝鮮塩専売令」によって、朝鮮総督府は民間塩業者と工業用塩田に対する統制を確立し、塩の専売制度を完成させた。1943年4月には「臨時製塩地等管理令」が施行され、塩の増産が図られたが、塩不足は解消されないまま、日本の敗戦を迎えたのであった。

 第3章第4節では、植民地期における民間塩業の動向を検討している。その内容は次のとおりである。天日塩の増大のもとで、民間塩業は生産量を減らしていったが、1920~30年代には全羅南道・慶尚南道などでは、民間塩生産がなお活発におこなわれていた。その理由は、(1)地域によっては価格面で天日塩(官塩・中国塩)に対抗することが可能であったこと、(2)天日塩との形状・品質の相違により、煎熬塩は「奢侈品」としての需要を得ることが可能であったことによると考えられる。民間塩業者の大部分は農民で、副業として塩業に関わる形態が一般的であった。塩の生産が現金収入を得る重要な機会であり、ここに強固な民間塩生産継続の基本的要因があった。1930年代末以降、生産費の増加によって民間塩業継続の条件は失われていき、解放後にはまったく姿を消すのであった。

 結論では、以上の要約を行ったのち、朝鮮総督府の塩業政策の特徴について論じている。その内容は次のとおりである。(1)統監府が打ち出した塩製造専売制度を引き継ぎ、そのための塩田拡張を一貫しておこなったこと。官営塩田建設は日本の他の植民地にも例を見ない特殊な制度であり、その根幹には財源確保策があった。民間塩業に対する保護策は講ぜられず、むしろ官塩生産が民間生産に対する圧力として作用した。ここに朝鮮総督府塩業政策の植民地的強圧的性格を見ることができる。(2)朝鮮総督府が塩自給自足を進めるに当たっての認識が1930年頃を境に変化を示していること。塩自給自足が打ち出された当初は中国塩輸入への対策と財源確保という朝鮮内の問題が前面に出ていたが、1930年代以後は中国塩輸入問題が「塩輸移入管理令」によって解消された代わりに、日本帝国全体としての塩需給問題という新たな課題が登場した。

 「付録・本書に関わる法令」には、1921年3月の「朝鮮総督府専売局官制」など21点の関係法令を収録している。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の第一の成果は、近代朝鮮塩業史の研究をその全時期を通じて本格的におこなった点にある。長年にわたってねばり強く関連史料の収集に努めた上で、3つの時期に区分して、それぞれの時期の塩需給構造及び塩業政策に焦点を当てて具体的な検討をおこなっており、実証の水準は高く、今後、近代朝鮮塩業史、専売政策史、財政史などの研究を進める上において必ず参照しなければならない論文となるであろう。

 第二に、本論文における第1期・第2期については、朝鮮の塩需給構造と塩業政策に関して、在来の民間塩、日本ついで中国からの輸入塩、統監府・朝鮮総督府が導入した官塩という三者の対抗関係の存在を示し、この時期の塩業の展開過程を動態的、発展的に把握することに成功していることである。

 第三に、第3期については、朝鮮の塩需給構造と塩業政策を日本帝国全体としての塩需給政策、塩増産政策のなかに位置づけて把握することを試み、そのような視角から検討することの重要性を示したことである。内外地塩務主任官会議、内外地塩務関係官会議の検討自体が、貴重な成果といえる。

 第四に、保護国期から植民地期にかけての統監府・朝鮮総督府の塩業政策が、官営塩田建設を中心とした特異な性格をもっていたこと、同時にそのことが財源確保を目指しながらも塩田建設自体が財政に制約されるという矛盾に直面させることになったことを、具体的に述べていることである。

 第五に、19世紀後半の民間塩業の動向について、日本塩の輸入動向を開港場別に検討することにより、1897年以降に復活する局面が現れたことを示したこと、また中国塩の大量輸入、官塩生産開始によって生産量は低下しつつも、地域によってはその後も民間塩生産が活発におこなわれていたことを示したことは、民間塩業の動向を一貫して検討する視角から生まれた貴重な成果といえる。

 本論文の問題点としては、第一に第1期の塩業政策に関して、保護国化される以前の朝鮮政府の塩業政策は、どのようなものであったのかについて検討がないことがあげられる。 第二に、民間塩業における生産構造、また官営塩田における労働者の存在形態については、なおいっそうの分析が必要である。

 しかし、以上の2点はいずれも、検討に必要な史料が著しく不足していて、現状では研究をさらに進めることには多くの困難が伴う。したがってこれらの点は、本論文の達成した多くの成果を損なうものではなく、今後のいっそうの研究に期待したい。

 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与する充分な成果をあげたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2001年2月14日

2001年2月1日、学位論文提出者田中正敬氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、提出論文「近代朝鮮における塩需給と塩業政策」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、田中正敬氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は田中正敬氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。
   

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