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博士論文審査要旨

論文題目:ビルマ農民大反乱(1930~1932年):反乱下の農民像
著者:伊野 憲治 (INO, Kenji)
論文審査委員:児玉谷史朗、内藤正典、中野聡

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 論文の構成

 1930年代初頭に当時英領植民地であったビルマで起きた「農民大反乱」はその指導者の名前をとって「サヤー・サン反乱」とも呼ばれ、多くの研究者の関心を引き、伝統主義的反乱、近代的民族主義運動等、様々な解釈、評価がなされてきた。伊野憲治氏の学位請求論文は、従来様々に描かれてきた反乱下の農民像を再検討し、反乱に参加した農民の論理を明らかにし、新たな農民像を提示しようとしたものである。本論文は、1998年に北九州大学法政叢書の1巻として信山社より刊行されている。

 本論文の構成は以下の通りである。


第1章 研究史と本書の課題
 第1節 研究史と論点
 第2節 従来の農民像と本書の課題
第2章 反乱の背景
 第1節 農民の経済的没落と世界恐慌
 第2節 農村社会の制度的解体
 第3節 民族主義運動の興隆
第3章 反乱像の再構成
 第1節 サヤー・サンの事前組織活動とその位置付け
 第2節 蜂起の発生と展開
 第3節 反乱の結末
第4章 反乱の諸特徴
 第1節 蜂起集団形成過程における諸特徴
 第2節 蜂起集団の編成方式における諸特徴
 第3節 反徒の行動様式における諸特徴
第5章 反乱下の農民像
 第1節 農民の世界観(意識構造)
 第2節 反乱下の農民像
おわりに

 論文の概要

 第1章は、研究史の整理と論点の提示を行った上で、先行研究の示す農民像をまとめ、本書の課題を示す。著者は、ビルマ現代史研究のみならず、さまざまな分野の研究者が研究対象としてきたこの農民大反乱について、ビルマ人による研究も含め、先行研究を整理し、そこから浮かび上がってくる論点を提示する。反乱の性格規定(民族主義団体との関係、サヤー・サンの指導者としての位置付け等)、反乱発生の社会経済史的背景、農民が蜂起に立ち上がる際のお守り(護符、入れ墨等)の果たした役割に関する議論等が主な論点として示される。著者は、先行研究の提示した農民像のうち、伝統志向型や近代的民族主義者という農民像を一面的なものとして斥け、千年王国主義者、スコットの農民像、伊東利勝の提示した「つまみ食い」的農民像を、農民の内面的世界を理解し、農民の論理を究明しようとするものとして評価する。このように研究史と論点を整理した上で、著者は以下のように本書の課題を提示する。まず、近年反乱自体の事実認識に疑問が呈せされている研究状況に鑑み、反乱自体の事実関係を再構成し、次に農民の論理を考える上で重要な反徒の行動様式の特徴を明らかにし、これらを、措定された農民の世界観(意識構造)で解釈することで農民の論理を浮かび上がらせる。

 第2章では、反乱の背景として、当時の農民を取り巻く社会経済状況が分析され、民族主義運動の興隆が説明される。著者はまず、反乱以前の20年間にビルマ人農民は、小作農の増加、小作農の負債の増加、農業労働者の雇用の不安定化など、経済的没落が進行し、世界恐慌がこれに追い打ちをかけたことを明らかにする。次いで、植民地支配下、地方行政の再編が行われ、農民の保護者的役割を果たしていた在地支配層が実権を奪われ、植民地行政の末端としての村長等が置かれたことで、植民地支配が農民の生活に直接的に影響するようになったことが示される。1910年頃からビルマ人の組織的な民族主義運動が始まり、1920年代にはいると「ビルマ人団体総評議会」(GCBA)、「サンガ総評議会」(GCSS)が民族主義運動の団体として結成されたが、著者によれば、これらの団体は内部で、方針や指導者間の確執によって、対立や分裂を繰り返していたため、農民の生活の窮乏化に対して有効な対策を講じることができなかったという。しかし、中央部でのこのような分裂をよそに、農村部では政治僧を中心として、ウンターヌ・アティンと呼ばれる団体の活動が活発化していた。著者は、ウンターヌ・アティンが民族主義的主張を広めていただけでなく、農民の具体的・現実的問題や仏教と密接に結びつき、農民の生活を守る互助組織としての性格を強く持っていたと分析している。またそこでは、農民たちは、組織全体というよりは、指導者の個人的資質と影響力を重視し、彼らの苦境を救ってくれるものとして頼りにしていたことが指摘される。

 第3章は農民像を考える前提として反乱自体の事実関係の再構成を行っている。この作業が重要なのは、著者によれば、従来の研究が反乱指導者であるサヤー・サンの事前組織化活動や彼が直接指導した蜂起を分析対象とし、サヤー・サンの蜂起崩壊後に各地で続いた蜂起にほとんど言及していないなど、反乱自体の事実認識に問題があるからである。第3章ではまず、サヤー・サンの経歴と事前組織活動を跡付け、その位置づけを行っている。それにより、サヤー・サンがビルマ中を渡り歩き広い人間関係を持っていたことが蜂起の組織化に重要な役割を果たしたこと、彼の組織化活動の対象は地方指導者であり、直接農民大衆に蜂起の呼びかけを行っていないことが明らかにされる。その上で、サヤー・サンの位置づけが次のようにされる。すなわち、彼は中央の民族主義運動での活動から判断すると、時代錯誤的、非合理的人物とは言えず、近代政治の文脈においても政治的に成熟した人物であった。しかし同時に彼はその生い立ちや占星術、仏教等の素養から、農民たちの心情をよく理解できた。この意味でサヤー・サンはビルマの伝統と西欧近代政治の狭間に位置した人物であったと評価される。第3章では続いて、8つの地方及びその他の地方の蜂起について、特別裁判法廷判決を主な資料として、具体的かつ詳細に、その組織化、発生、展開の過程が記述される。第3章の最後では、当時のビルマ語新聞の記事の分析から、この反乱が都市在住の知識人階層、エリート層にも大きな影響を与えたであろうことが説明される。

 第4章では、第3章での事実関係の再構成に基づき、蜂起集団の形成過程、編成方式、行動様式が分析される。これは第5章で農民像を明らかにする前段階と位置付けられる。まず、蜂起集団の形成過程について、従来、既存組織を母体とした組織的蜂起が次第に孤立化、匪賊化したととらえられていたのに対して、著者はこれを初期の蜂起とその後の蜂起で異なる二つのタイプの蜂起集団形成過程があったととらえ直す。また蜂起集団の形成にあたっては地方指導者が重要な役割を果たしたことが明らかにされ、その際農民に訴えられた内容などから、サヤー・サンのみを千年王国の救世主的存在ととらえる従来の見解は実態にそぐわないこと等が指摘される。次いで、蜂起集団の編成方式が分析され、ウンターヌ・アティンの組織がそのまま蜂起集団組織となったのではないこと、蜂起集団は村落共同体的基盤よりも個人の一対一の結合に基づいて編成されたこと、蜂起集団は単なる戦闘集団ではなく、政治的・社会的機能をも有する集団であったことが明らかにされる。最後に反徒の行動様式の特徴が析出される。農民が蜂起集団に加わる際、地方指導者等によって入れ墨、誓約式、お守りの配布等の儀式が行われたこと、蜂起下において、反徒の襲撃対象となったのは、政庁の末端役人として徴税等を行っていた村長、十戸長であったこと等が特徴として指摘される。

 第5章は、第4章までで明らかにした反乱の事実関係、蜂起の際の農民の行動の諸特徴等に基づき、大反乱を主体として担った農民の論理を明らかにし、一つのビルマ人農民像を提示することを課題としている。著者はまず、上座部仏教文化圏を対象とした、農民大衆の宗教、世界観に関する研究を参照して、反乱当時の農民の世界観(意識構造)を措定する。著者は、スパイロー(Spiro)の析出した仏教とアニミズムの「二体系併存・仏教優位説」を出発点としながら、タイ人の世界観を研究したムルダー(Mulder)の二元的世界観を援用し、当時のビルマ人の世界観を措定している。それによると、当時の農民の世界観は、「慈悲」の概念に代表されるような「道徳的善」の領域(内部世界)とアニミズム的な力に代表される「威力」の領域(外部世界)といった基本的に二つの領域から構成され、その間に「媒介」領域が存在する。媒介領域を象徴する「良き指導者」は、内部集団に対しては「道徳的善」をもって支配し、外部世界から加えられる「威力」に対しては、「威力」をもって対応できる資質を兼ね備えていなければならないとされ、このような指導者によって、ある集団の秩序、安定が維持できるとされる。著者は、以上のように当時の農民の世界観を措定した上で、蜂起集団の結集様式、蜂起が拡大したメカニズム、大反乱が農民の意識にもたらした変化を論じる。著者によれば、農民の抱いた不満は単に経済的なものではなく、安定した社会秩序崩壊、「無慈悲な」徴税方法に見られるような支配者の資質、正当性に対するものとして理解され、これが「良き指導者」到来への願望になったとする。各蜂起を指導した地方指導者が、一方では様々な呪術的手段を用いて自らの持つ「威力」を示すことによって、他方では自分に従えば、「税を減免する」等の「慈悲」を約束することによって、農民を糾合し蜂起集団を形成したのも、農民の世界観に対応したものであった。反徒団は村長を初めとする政庁協力者を主な襲撃対象としたが、それは反徒団・指導者のもつ「威力」を認めさせるものであった。また反徒団は、地域社会に入会金をはじめとする様々な要求を出したが、それは相手の状況を斟酌して行われたので、「慈悲」をもった支配者のあるべき徴収方法と受け取られた。こうして、指導者と反徒間、反徒団と地域社会との間に保護・被保護関係が成立し、反乱は拡大していったのである。

 本論文の成果と問題点

 本論文の第一の成果は、膨大な一次資料を丹念に読み解きながら、ビルマ農民大反乱についての事実認識を再検討することで、新たな実態を明らかにし、反乱像を書き換えたことである。ロンドンのIndia Office Librarry and Records所蔵の特別法廷判決資料、ビルマの国軍資料館資料、当時のビルマ語新聞といった、いずれもこれまでほとんど使われていなかったか、部分的にしか利用されてこなかった資料を本格的に利用し、体系的に分析して、新たな事実を再構成した意義は大きい。従来の研究では、「サヤー・サン反乱」とも呼ばれるように指導者であったサヤー・サンの行動が主に注目されてきたのに対して、本論文はサヤー・サンが直接指導した蜂起が鎮圧された後にも各地で蜂起が発生、継続したことに注目し、その過程を詳細に跡づけ、蜂起集団の行動の特徴を析出することで、反乱の全体像を再構成した。それにより、農民の糾合などにおいては、地方指導者が重要な役割を果たしていたこと、地方指導者自身が「王」であることを宣言していること等が明らかにされた。これにより、例えば、サヤー・サンのみを救世主的存在ととらえる従来の千年王国論的解釈の限界が明らかにされた。また反乱の後半期を組織的蜂起の孤立化、匪賊化ととらえる従来の一般的な認識に対して、そのような蜂起にも独自の組織原理や反徒の論理があるととらえ直し、反乱像をより多面的で豊かなものとすることに成功している。サヤー・サンが直接指導した蜂起以外の各地の蜂起については、これまで事実関係自体がほとんど紹介されてこなかった研究状況において、これらの蜂起の実態や反徒の行動の特徴を明らかにし、それによって反乱像を塗り替えた貢献は大きいと言えよう。

 本論文の第二の成果は、このような事実の再構成に基づき、反乱の際の農民の行動について新たな解釈を説得的に示したことである。反乱の指導者の言動は、著者の措定した農民の世界観と照らし合わせるとき、整合的に説明・解釈することができる。例えば、反乱指導者がさまざまな呪術的手段を用いたことは、植民地支配という外部世界からの「威力」による攻撃に対して、自らの「威力」を示すことであり、これは農民の世界観における「良き指導者」像と一致することが明らかにされている。また反徒が行った残虐行為や村長などの植民地支配の末端を攻撃対象としたことも、単なる逸脱した、矛盾のある行動や匪賊化、ゲリラ化として消極的に捉えるべきではなく、農民の世界からすると一貫した論理のある行動であったことが示された。

 以上のようなオリジナルな成果を初め、本論文は問題意識の明確さ、先行研究との関連での位置づけ、手堅い実証などの点でも水準の高い論文となっているが、問題点がないわけではない。その一つは、新たな農民像、特にその世界観(意識構造)を提示するに当たっての方法にやや違和感があることである。反乱当時のビルマ農民の世界観を措定するに当たって、同じ上座部仏教文化圏に属するとはいえ、地域も時代も異なるタイの農民の世界観を基盤にモデルを設定することは、ややもすると、ある外在的な枠組み自体を事前に設定して農民像、農民の内在的論理を描いているのではないかという印象を与える。ただ、この点については著者も意識しており、本論文で描く農民像はあくまで一つの解釈を示したにすぎないと断っている。第4章までの分析だけでもビルマ農民大反乱に関する研究として十分な貢献であると評価できるが、著者があえて当時の農民の世界観の分析にまで立ち入ったのは、蜂起に立ち上がった農民には一貫した論理があるはずであり、それを明らかにしたいという著者の問題関心から発したもので、研究進展のための積極的な試みとしてむしろ評価すべきだとも言えよう。

 これと関連するもう一つの問題点は、反乱という非日常的事件を理解するには農民の日常的な世界観と関連させて論じるべきだという著者の主張は理解できるとしても、そうだとすれば、その農民の世界観を裏付けるものとして、本論文で詳細に説明されている蜂起に際しての農民の行動だけでなく、当時の農民の日常生活や宗教、文化が具体的に記述されてしかるべきと思われるが、それがほとんどないことである。本論文で反乱の背景として描かれている、農民の経済的窮乏といった社会経済史的側面や民族主義運動の動向に加え、この点についての説明があれば、本論文の主張はより説得的なものになったと考えられる。

 しかし上記2つの問題点は、いずれも主として史料が著しく不足していることによるものであり、本論文の達成した成果を損なうものではない。

 以上のような評価に基づき、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大いに貢献したものと認め、伊野憲治氏に対して、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2001年2月14日

平成13(2001)年1月26日、学位請求論文提出者伊野憲治氏についての最終試験を行った。本試験においては、審査委員が提出論文「ビルマ農民大反乱(1930~32年)-反乱下の農民像-」について、審査委員から逐一疑問点について説明を求めたのに対して、伊野憲治氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語及び専攻学術に関する学力認定においても、伊野憲治氏は十分な学力を持つことを立証した。
 よって、審査委員一同は伊野憲治氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有するものと認定した。

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