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博士論文審査要旨

論文題目:義和団の起源とその運動:中国ナショナリズムの誕生
著者:佐藤 公彦 (SATO, Kimihiko)
論文審査委員:三谷孝、糟谷憲一、坂元ひろ子

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一、論文の構成

 本論文は、19世紀末から20世紀初頭にかけて中国の華北平原を中心に展開した義和団運動について、民間諸結社の歴史的系譜・村落社会と民衆文化の具体相・清朝と地方権力の対応・カトリック教会の布教と西欧列強等の同運動をめぐる諸関係を視野に入れて、その全体像の解明を意図した400字詰原稿用紙にして2000枚を越える長編論文であり、1979年から1997年にかけて発表された10本の論文をもとに新たに書き下ろされた4つの章(序章・第六章・七章・結章)を加えてまとめなおされたもので、1999年9月に研文出版より刊行されている。

 本論文の構成は、以下の通りである。

 序
 序章 近代中国の反キリスト教闘争と義和団の運動
 第一章 義和拳の起源
  第一節 義和団の起源は「白蓮教」か「団練」か
  第二節 義和拳の起源-八卦教と義和拳
 <付論> 乾隆三十九年王倫清水教叛乱小論-義和団論序説
  はじめに
  第一節 母体組織・系譜
  第二節 叛乱集団の形成と遍歴
  第三節 小結
 第二章 大刀会-山東西南部-
  第一節 山東西南部の大刀会
  第二節 山東のカトリックと郷村社会-ドイツ神言会-
  第三節 単・■山教案事件
  第四節 鉅野事件とドイツの膠州湾占領
  第五節 四川大足教案-『順清滅洋』-
 第三章 梅花拳-華北農村社会と義和拳運動・梨園屯村の反教会闘争-
  第一節 山東北部代牧区・直隷代牧区のカトリック
  第二節 梨園屯教案-一八六九年~一八九八年-
  第三節 十八魁・梅花拳会・義和拳
  第四節 一八九八年蜂起-『順清滅洋』-
 第四章 戊戌政変と沂州教案-山東東南部-
  第一節 教会問題と戊戌政変の影響
  第二節 日照事件-シュテンツ暴行事件-
  第三節 沂州教案-アメリカ長老会・神言会-
  第四節 神山教案
  第五節 ドイツ軍の日照県占領
  第六節 西南部の動き
  第七節 毓賢・戊戌政変・己亥立儲
 第五章 神拳-山東西北部における義和拳の形成-
  第一節 大刀会から神拳へ
  第二節 神拳=義和拳の形成過程
 第六章 直隷東南代牧区の義和団運動
  第一節 故城・景州・阜城の義和拳-王慶一と晤修-
  第二節 闘争の激化-『扶清滅洋』・『神助滅洋』-
 <補論一>大名府・広平府の状況
 <補論二>光緒二十六(一九○○)年の朱家河教会事件-大虐殺-
 第七章 直隷中部・北京南部の義和拳
  第一節 義和拳の拡大
  第二節 直隷北部代牧区-保定総鐸区の歴史と状況-
  第三節 浹水事件への序曲-高洛村と倉巨村-
  第四節 清苑事件-東閭教会・義和拳の源流-
  第五節 浹水事件-教民殺害・■官-
  第六節 転換-「剿」か「撫」か、義和拳の蔓延化-
 <補論>河間県范家■■教会攻防戦
 第八章 北京・天津の義和団
  第一節 列国外交団と清国政府-列国の出兵-
  第二節 北京・天津間の義和団-シーモア援軍との戦闘-
  第三節 天津の義和団運動-ナショナリズムの激発-
  第四節 清朝はなぜ「宣戦」に踏み切ったか-北京紫禁城・五月・満洲族国家主義の激昂
 結章 『掃清滅洋』への転回-景廷賓蜂起・袁世凱の抬頭-
   <付録>小林一美著『義和団戦争と明治国家』を評す-
 索引(地名・人名索引、事項索引)
 引用文献一覧

二、論文の概要

 「序章」において、著者は、義和団(義和拳)運動は、民衆の列強に対する民族主義運動と清朝国家主義の抵抗とが連動して展開したものとみるべきであり、義和拳の起源は、民間宗教(白蓮教)と結びついた拳教的武術に求められるべきである、という本論文全体を貫く基本的主張の背景にある中国伝統文化とキリスト教の非和解的構造について説明する。

 第一章は、義和拳の起源が白蓮教か団練かという研究史上の重要な論点への著者の回答にあてられている。オレゴン大学のエシェリック氏は、その著書 The Origins of the Boxer Uprising,1987 において、著者の白蓮教起源説を批判して白蓮教とは無関係の民間文化起源説を主張した。それに対する反批判として、本章では、著者の執拗にして丹念極まりない各種資料の分析に基づく次のような論証が展開される。清代の山東の義和拳は八卦教との深い関連の下に展開した。それは最初は乾隆中期に王倫の清水教の活動において現れ、それに続く時期の档案資料の各所には、八卦教(白蓮教)と結合した拳棒武術=義合拳・神拳の活動が見出される。つまり、八卦教が拳棒武術の伝習と対をなして布教されていく活動の中で、「義気を和合する拳」=義合拳が登場するが、この八卦教と結びついた義合拳等の拳棒活動には、清末の義和拳と極めて類似した呪術的宗教的性格が見られた。このように、八卦教の活動は、「真空家郷.・無生老母」の信仰、精・気・神を錬成する内丹法、外功としての拳棒武術が融合する形で展開されていた。この八卦教の拳棒武術活動は大衆性をもち、郷村社会に深く浸透し拡大した。こうした歴史的背景の下に初期義和団運動の中心に位置する大刀会・梅花拳が生まれることになる。

 清末の山東省西南部における大刀会の闘争を取り上げた第二章では、まず日清戦争期の社会秩序の崩壊・土匪の活動の激化に対応する自衛団体・大刀会の結成と拡大の状況が明らかにされる。「刀槍不入」の民間武術の教習を紐帯とする大刀会は八卦教の武場組織であった。同じ時期に、ドイツ帝国の庇護の下で山東南部教区ではドイツカトリック神言会が急速に教勢を拡大しており、大刀会とカトリック両勢力は在地社会の民事紛争を機に衝突するに至る(1896年、「曹・■山教案」)。大刀会は一時的に鎮圧されるが、キリスト教布教をめぐる問題は解決されないままであったため、1897年、大刀会員を中心とする民衆の憤懣はドイツ人宣教師2名の殺害事件(「鉅野事件」)として噴出した。ドイツ帝国はこれを好機として、膠州湾の軍事占領を強行し、総理衙門との間で「膠澳租借条約」を締結したが、これは山東社会に、強力な外国勢力に依存する人々とカトリック勢力の拡大、大刀会・梅花拳の「順清滅洋」をスローガンとする民衆の抵抗闘争、という相反する動きを惹起した。 第三章では、冠県梨園屯村の民教紛争=梨園屯教案と、そこでの梅花拳=義和拳の闘争が論じられる。梨園屯村では、村内の教民の増加によって村民共有地の玉皇廟の敷地が分配されて教会が建てられたことが、20数年にわたる紛争の引き金となった。この紛争の根底には、華北農村の農民の法意識・在地慣行に基づく正義感覚と、ヨーロッパ的な近代的法意識による所有観念との対立が潜在していた。裁判は、フランスの外交圧力によって教民側が勝利したため、村民側は暴力的手段によって抵抗したが、官権力の弾圧によって挫折した。村内の十八魁と呼ばれる過激派はさらに村外の梅花拳と結んで対抗した。梅花拳は義和拳と改称して、ドイツの膠州湾占領に憤る輿論を背景に、廟地の奪回と玉皇廟の再建を目指して反教会闘争に立ち上がった。当時、ドイツ軍の内地侵入の噂が広まり、山東当局による廟の破壊と教会の建設の動きに対して、1898年2月に義和拳が決起したのである。その後、9月になって駐留官軍の動きに危機を感じた義和拳側が蜂起し、「順清滅洋」の旗を掲げて教会と教民に対する攻撃に出たが(義和拳蜂起)、官軍によって鎮圧された。

 第四章は、山東東南部で発生した沂州教案を考察する。ドイツ軍による占領後に勃発したドイツ人神父暴行事件をきっかけに、数十の騒擾が起きた。その背景には、清廷における戊戌政変での保守派の勝利があり、「北京が外国人を逐い出した」と認識した民衆は、「西太后の密旨」に基づく公認の行動として、外国人・教民に対する排斥行動に出た。騒擾に危機感を募らせたドイツカトリックは膠州駐留軍を内地に入れることを要請し、アメリカ長老会も外国軍の導入を求めた。ドイツ軍は日照県城を占領し、蘭山県の村落を焼いた。新任巡撫毓賢は、保守的な満州人官僚として清廷で主導権を握った満洲族種族主義勢力と繋がる人脈にいたこともあり、事件解決の交渉でドイツ側から加えられた圧力に強く反発し、反外国的姿勢を強めた。そして民衆の反外国的動きを、「民心用う可し」として容認した。西南部でも紅拳=大刀会に活動が活発化したが、毓賢は鎮圧策をとらなかった。

 第五章では、西北部の神拳=義和拳の形成の問題が検討される。長清県で起きた大刀会の練拳活動は「神拳」と呼ばれるようになり、多くの小グループが生まれ、教会・教民に対する攻撃を開始した。そのリーダーの一人朱紅灯が1899年春に神拳グループに迎えられて、黄河の水害で打撃を受けていた 平県に入ったことを契機として、練拳風潮は 平県全県に拡大した。この動きはさらに北上して、平原県では「義和拳」と呼ばれるようになった。そして、この地域での民教対立を背景に、恩県のアメリカンボードの教会・教民への攻撃がおこなわれ、その鎮圧に派遣されてきた清朝地方軍との戦闘=「平原事件」が起こった。しかし、拳民の活動を容認する巡撫毓賢は、事件を拡大した官員を処分したため、拳民の活動は一層激しさを増した。米仏公使館からの外交圧力によって、山東当局はようやく鎮圧に動き、朱紅灯らを捕らえたが、西北部全域が混乱に巻き込こまれた。米公使は総理衙門に圧力をかけて毓賢を更迭し、袁世凱を巡撫代理に就任させた。この巡撫の交替期の神拳の闘争の過程でイギリス人宣教師ブルックス殺害事件が起こり、冠県梨園屯でも闘争が再燃した。

 第六章で対象とされる直隷東南部の義和拳運動では、王慶一の「五祖神拳」の活動を中心に明らかにされる。この地区の義和拳は「乾」字・「坎」字、「文的」・「武的」という組織分化を示していた。もう一つの集団は武邑・阜城県の晴修和尚を中心とする義和拳集団であるが、これらは村落の有力者・名望家を基盤として展開していたため、地域社会における公的な組織としての性格を有しており、一連の大衆的な仇教闘争の母体となった。彼らの意識は、中国社会の文化習俗に愛惜感情をもつ中華的意識というべきものであり、「興清滅洋」の旗を掲げていた。王慶一らが山東西北の朱紅灯の神拳の系列下にあったこと、「乾」字・「坎」字、「文的」・「武的」という組織理念に則っていたことから、ここの組織も八卦教に起源をもつものと推定できる。しかし、その運動は清軍の阻止によって不発に終わり、1899年末までに沈静化した。

 第七章では、上記の直隷南部の騒擾を受けて、新城県東南郷を震源地として1900年初めから四方に拡大した直隷中部・北京南部の義和拳の運動の諸相が考察される。まず、新城県から東進した覇州・文安県・大城県の各地での組織の展開の状況が明らかにされる。続いて北方の固安県・良郷・房山・廬溝橋近くの村々に広まった具体的様相が、大師兄の証言を通じて明らかにされ、さらに、南方の任邱県への拡大、西方の定興・浹水・易州などへの拡大の実情が述べられる。この動きのなかで「 水事件」が起きる。この地区は、フランスラザリスト担当の直隷北部代牧区だったが、キリスト教布教がどのように展開してきたのか、教区構造とともに保定府下に焦点を当てて、1870年以後の具体的様相が概観される。事件の焦点になった浹水県高洛村等での民教紛争に基づく反キリスト教の怨念が、山東・直隷南部からこの地域に伝播してきた義和拳練拳風潮の受容を容易にした。同じ頃、保定南部の清苑県東閭村教会付近で仇教の動きが起きた。この地域の組織にも八卦教的特徴を見いだすことができる。ここ東閭村教会の攻防戦は3か月に及んだが、北京が連合軍によって占領されると、義和団員の多くがカトリックに転向し、後年東閭村はカトリックの中心地の一つになった。このように在地有力者が各地域で競って義和拳を村々に導入したことから、義和団運動は飛躍的な拡大の様相を見せ、その仇教意識は天津へ向けられた。そうした中で、高洛村で多数の教民と弾圧に赴いた清軍将校が殺害され、掲帖が撤かれ、流言が飛び交った。それらは外国人絶滅を訴え、教民と康有為・光緒帝を結びつけて非難する者もあった。しかし、浹水事件後も清朝攻府は明確な鎮圧政策をとらなかったため、「奉旨練団」を掲げた義和団の行動は一層エスカレートし、清廷では、義和団の掃討は困難なので利用すべきだという意見が大勢を占め、「五月初七日上論」を発して、拳民活動に許容的な姿勢を明らかにした。こうした清廷の方針転換に乗じて義和団の北京入城が始まった。

 第八章では、運動のクライマックスとしての天津・北京地区での状況と戦闘の経緯が明らかにされる。相次ぐ仇教事件の勃発に対して列国外交団は総理衙門に運動の禁圧を求めたが、清廷の反応は鈍かったため、列国は大沽沖に各国の軍艦を集結させた。そうした緊張の中で「三月十八日上論」が発せられて、清廷は拳民に許容的姿勢を示した。こうして北京城内外での拳民の動きが活発化したため、外交団は公使館護衛兵を入城させ、大沽沖からシーモア軍を上陸させた。同軍は北京を目指して進軍したが、18日に廊坊で義和団・清軍と衝突した。北京では入城した義和団によって教会攻撃が行われるようになった。シーモア軍と廊坊で戦った義和団は、村落内の既存組織を母体にしたものであった。この時期の焦点となった天津では、1900年初頭から練拳の動きが見られ周囲の郷鎮には壇が設立されはじめたが、総督裕祿は取り締まりに消極的な姿勢をとっていた。天津東南郷でのコサック騎兵と義和団との衝突を機に活動は激化したが、「五月初七日上諭」がそれに拍車をかけることとなった。天津は周辺から流入した義和団数万によって大混乱に陥り、城内の義和団は18日に教会を焼き打ちし、19日には租界を攻撃した。義和団によって制圧された天津城内では、20日に裕祿が武器を義和団に給与し、清軍も租界攻撃に加わった。この対列国戦争のさなかに義和団は公認され、約4万人の義和団と清軍とによって「天津戦争」が戦われることになった。天津の運動は、反外国の民族主義闘争として義和団の民衆ナショナリズムを最もよく顕現したもので、その「扶清滅洋」のスローガンは、現存する「清」が、天の下における人倫的秩序の現実態として扶持さるべき国家として認知されていたことを表すものであった。清廷による宣戦は4度の御前会議における激論を経て決断されたものであったが、その背後には、1840年のアヘン戦争以来60年にわたる外国からの圧迫に対する清国支配者満洲族の憤怒に基づく満洲族国家主義の台頭があったとされる。

 結章では、連合軍による北京占領後、1901年に締結せられた「議定書」に基づく地方賠償金をめぐって、民衆運動は「掃清滅洋」へと転回するが、その状況が、広宗県における景廷賓蜂起を実例として分析される。地方賠償金の賦課が決定されると、各地で反対の動きが起こり、その中心となったのが武挙人の景廷賓だった。納入拒否の行動は在地有力者と村の自衛組織聯荘会によって支えられており、あくまで徴収を強行しようとする県署・清軍との間で「民変」が発生し、景廷賓らは「官逼民反」「掃清滅洋」を掲げて蜂起したが、袁世凱麾下の武衛右軍によって鎮圧され、首謀者は処刑された。こうした「掃清滅洋」の動きは広宗県のみならず、安平県・文安県・雄県・大名県等の「掃清滅洋」の闘争と呼応するものであり、義和団に加わった民衆が外国に屈服した清朝に背を向けたこと、民衆ナショナリズム=人心が清朝から大きく離れたことを示している。このような意味で、義和団事件・景廷賓蜂起は袁世凱勢力の台頭と旧政治勢力の弱体化、半植民地化の一層の深化という中国近代史の転換点を示すものとされる。

三、成果と問題点

 著者は大学院生時代から現在まで30年近くにわたって義和団の研究に専念してきており、本論文はその研究成果の集大成といえる。

 本論文で主として用いられている資料は、公刊されている義和団関係の文献資料だけでなく、北京の第一歴史档案館・台北の故宮博物院・中央研究院近代史研究所所蔵の未公刊の档案資料並びに著者も参加した5年間に及ぶ華北9か村の日中共同現地調査資料であり、著者は関連資料を広く渉猟してそれらを相互に比較しながら検討するという作業を通して、実態を明らかにすることに努めている。 日本における義和団研究は、1960年代後半から70年代前半にかけて一つのピークを迎え、村松祐次・里井彦七郎・堀川哲男・佐々木正哉・小林一美等の諸氏による研究が発表されている。その後、1980年の義和団運動80周年を契機とする中国での新資料の発掘・公開の進展、地方史研究の活発化、外国人による現地調査の認可等の有利な条件に恵まれたこともあって、本論文は民衆運動史として、上記の諸研究のレベルをはるかに凌駕する水準を示している。その成果を概括して示せば以下のようになる。

 第一に、これまで研究史の重要な論点となってきた義和拳の起源について、労を惜しまない膨大な資料の収集と解読・分析の作業を通して、それが白蓮教系の八卦教にあることを実証的に明らかにしたことである。著者が批判の対象としたエシェリック氏は、あまりに煩瑣な作業を伴うために義和団の源流への遡及を断念して「民間文化」という曖昧な領域に問題の「解決」を託したのであるが、起源論に関する限り氏の見解は、論理・実証の両面において完全に論破されたといえる。

 第二に、広範囲にわたる義和団運動を構成する諸事件についても従来の水準を越える詳細な経緯が明らかにされている。また、梨園屯教案については民衆運動だけでなく裁判の過程をドイツ教会側の資料も用いて詳細に検討することで、司法紛争という新たな視点を導入して問題を解明しており、問題を多面的に分析する努力もなされている。

 第三に、清朝と義和団との関係は従来、公認か、弾圧かという視点だけで論じられてきたが、本論文では、戊戌政変が華北農村社会に及ぼした具体的影響を明らかにするとともに、清朝はなぜ列国への宣戦に踏み切ったのか、清廷における議論・権力闘争の過程が詳細に分析され、満州族国家主義派が主導権を掌握するに至る要因が解明されている。

 第四に、列国との関係では、当時のカトリック教の華北における布教や教徒の分布状況が明らかにされ、また従来関心が向けられることの少なかった義和団の攻撃の対象となった教民(中国人キリスト教徒)の側の状況も論じられている。

 第五に、これまで実証的研究が遅れていた直隷省の運動を詳細に検討したこと、そして、「議定書」以後の義和団運動を継承する景廷賓の蜂起の終息までを視野に入れて検討したことにより、義和団運動の全過程が実証的に明らかにされている。

 義和団の全体像の構築を目指したという意図から、個々の細部については議論の余地のある問題も存在する。たとえば、北京・天津地区でシーモア軍との戦闘に参加するために移動した義和団員と、山東の農村で村の教会を攻撃していた義和団員の行動の分岐はどのような要因によるのか、弾圧で解体した後の運動の系譜はいかにその後に受け継がれたのか、中国史の節目にしばしば現れる民衆の野放図とも見える暴力の噴出はどのように解釈すべきか等の問題は今後の課題として残されている。しかし、本論文が達成した成果の大きさから見れば、それらの問題点は細部の瑕疵に類するものであり、将来著者によって一層細密な研究が行われることを期待したい。

 このように、本論文は、義和団運動の研究として現段階における世界の最高水準を示すレベルに達しており、著者が批判の対象とし、また定評のある研究書とされていたエシェリック氏の著書に代わって、今後義和団運動や近代中国の宗教結社・武術結社の研究を志す者にとって越えなければならない一つの目標を築いたものと評価できる。

四、結論

 審査員一同は、上記のような評価と、11月28日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2000年12月13日

 平成12年11月28日、学位論文提出者佐藤公彦の試験及び学力認定を行った。試験においては、提出論文「義和団の起源とその運動-中国ナショナリズムの誕生-」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、佐藤公彦氏はいずれも十分な説明を与えた。よって審査員一同は佐藤公彦氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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