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博士論文審査要旨

論文題目:焼跡世界と政治的なもの ―第二次世界大戦直後の日本列島諸都市を対象とする社会史的考察―
著者:黒岩 漠 (KUROIWA, Baku)
論文審査委員:貴堂 嘉之、中野 聡、石居 人也、吉田 裕

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1 本論文の概要
 本論文は、第二次世界大戦直後の日本列島の諸都市に現れた焼跡の時代を舞台に、国家の没落という特有の状態に焦点をあて、その最も際立った特徴を帯びた諸形象—浮浪児、闇市、パンパン、第三国人、死者、敗残兵、カミネス—を社会史的に活写しつつ、焼跡世界の歴史的・理論的な認識を得ようと試み、その<政治的なもの>のありかた、可能性を論じた意欲作である。カール・シュミットやハンナ・アーレントらの仕事の影響の下に哲学や政治学等の分野で近年盛んに論じられてきた<政治的なもの>が、本論文ではホッブズ的自然状態の歴史化や、焼跡世界特有の<剥き出しの生>という視点から解き明かされていく。
 1945年の空襲後から焼跡が消えていく1950年代初頭を舞台にしているものの、本論文はその時代の全体像を論じるものではない。「占領」や「復興」といった趨勢とは区別されるところの、国家の没落という趨勢に焦点をあて、そこでの経験と記憶が論じられる。全体は7章構成で、上述の「浮浪児」(第1章)、「闇市」(第2章)、「パンパン」(第3章)、「第三国人」(第4章)、「死者」(第5章)、「敗残兵」(第6章)、「カミネス」(第7章)が考察の対象となっている。序章では、「戦後」概念の再検討と、焼跡世界を論じるための歴史論(歴史叙述と構成の可能性)が提示され、最後に藤田省三のテキストを起点に、ホッブズ的自然状態としての焼跡世界の理論的考察の枠組みが提示され、終章でその<政治的なもの>の整理と獣性表象などが分析される構成となっている。

2 本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、焼跡世界論を展開するために、従来の歴史学の手法を批判し、歴史学そのものの認識論的・歴史哲学的な検討に真正面から取り組んだことに加え、本論部分においては史料にもとづく歴史分析を丁寧に行い、その両者を接合させながら統一的に把握しようと試みた点に求めることができる。例えば、本論で引用された「タカノマサオ/本当のことは誰も知らない/一九三九(昭和一四)年一二月二五日生?/父の名も、母の名も、オレは知らない/日本人なのか、中国人なのか、朝鮮人なのか、/オレは知らない」のように、ナショナルなカテゴリーを寄せつけない、焼跡世界における自然状態やある種の〈剥き出しの生〉の諸形象を論じることは、ナショナル・ヒストリーを克服する射程を持ち、そもそも国家とは何か、<政治的なるもの><社会的なるもの>とは何かという根源的な問いに読者を誘うものとなっている。
 第二に、本論文は、焼跡世界を論じるにあたって、第二次世界大戦直後の日本列島都市部の状況における複数の趨勢のうち、「復興」や「占領」といった趨勢とは便宜的に区別されるような、国家的秩序の没落と社会構造の崩壊を基調とする一連の要素に焦点を当てている。この一時的に出現した焼跡世界は現在では消えてしまっており、複数の趨勢のなかで、戦後日本を定義することにはつながらなかったものといえる。そのような意味で、戦後思想にならなかった未発の契機をサルベージするような意図・意義を持つ研究としても、本論文は位置づけられるだろう。
 第三に、本論部分で取りあげられた焼跡世界の諸形象についての考察もまた、先行研究との違いを示しつつ、オリジナルな分析がなされており、高く評価することができる。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより残された課題がないわけではない。
 本論文は国家の没落の趨勢に着眼点を置くものであったが、「占領」や「復興」の趨勢との境界はどこにあり、複数の趨勢間での衝突や対立、連帯や癒着のさまを描くことで、さらに可視化できる位相も多かったのではないか。そうした他の趨勢との関わりでは、日系人やGIなどに注目することもできたのではないか。また、焼跡世界を本論文では東京、大阪、神戸などを中心に列島諸都市で語るのだが、各都市における微妙な差異が後景に退いてしまった感があるとの指摘、非都市・地域的周縁を視野に入れ考察すべきだったのではとの指摘もあった。
 これらの点は、最終試験(口頭試問)のなかで著者自身が認めているところであり、本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、将来の研究において克服されていくことが充分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2021年2月10日

 2020年12月24日、学位請求論文提出者、黒岩漠氏の論文についての最終試験を行なった。
 本試験において、審査委員が、提出論文「焼跡世界と政治的なもの—第二次世界大戦直後の日本列島諸都市を対象とする社会史的考察—」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、黒岩氏はいずれも充分な説明を与えた。よって、審査委員一同は、黒岩漠氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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