博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:障害者と健常者の関係形成に関する社会学的考察 ―東京都多摩地域における障害をめぐる教育、福祉、地域社会の再編成―
著者:加藤 旭人 (KATO, Akihito)
論文審査委員:町村 敬志、小林 多寿子、白瀬 由美香、中田 康彦

→論文要旨へ

1. 本論文の概要
 本論文は、1990年代以降、障害者をめぐる教育政策と福祉政策が新自由主義的な行財政改革を背景に大きな転換を迎えるなか、障害者運動の側が状況の連続的変化に対して対抗と現実的対応の両面を並行させながら独自の組織的展開を遂げるとともに、地域社会を基盤に障害者と健常者の間に相互的で厚みのある社会関係を自生的に生成させてきた過程を、東京都多摩地域を事例とし、長期のフィールドワークと独自の理論的枠組みをもとに、明らかにした作品である。
 1980年代を境に新自由主義的な動きが政治的に強まり、それはやがて行財政改革という形でさまざまな政策領域に影響を及ぼしていった。なかでも教育と福祉は人びとの生活にもっとも密接に関わる分野として、政策の変化が大きな影響を及ぼすと同時に、対抗的な社会運動が展開することの多い領域であった。障害者をめぐる運動はこうした動向の中心にあり、その活動をどのように理解するかをめぐって多くの研究が展開してきた。論争的ともいえるこの領域をあえて選ぶことにより、本論文は、新自由主義下における政策と運動の関係について、「対抗か動員か」といった図式的理解を乗り越える新しい視点と分析の可能性を提示した。

2.本論文の成果と問題点
 本論文の第一の貢献は、新自由主義下における社会政策と社会運動の相互関係に関し、独自の理論的視点と丁寧な実証を通じ、「対抗か動員か」といった平板な理解を超えるより力動的な関係の可能性を明らかにした点である。学校週五日制の導入に対し養護学校の保護者たちは、土曜日の障害者支援のため社会教育団体としての活動に新たに取り組んだ。この団体は福祉制度改革に後押しされ、福祉事業を担う新たな団体を派生させていく。その結果、活動の制度化は進んだものの、共同性創発を重視する母体団体との間には活動上のジレンマが生じた。しかし本事例では、障害者と健常者がともに参加する音楽活動に取り組むことで、「構造化の力学」に歯止めをかける実践が活動のなかに組み込まれていく。ここに大きな特色があった。本論文は、社会運動が新自由主義的な制度改革に強く対抗する図式を描くわけではない。他方で運動が政策に飲み込まれ動員される構図を主張するわけでもない。しかし同時に、そうした図式や構図の存在を否定するわけでもない。新自由主義は確かに逃れがたい。だが多様な主体の相互連関の下では、運動と政策の関係が構造的に決定されてしまうことはなく、独特の偶有性が現実を多元化していく。本論文はこうした過程を実に丁寧に描き出す。本論文で著者は、ひとつの理論的なブレイクスルーの可能性を提示しており、この点は高い評価に値する。
 第二に、本論文は、障害者を含む多様なアクターが関わる即興的な音楽活動に着目し、「できる/できない」の非対称性を伴う関係性が個人に帰属させられることなく、場面に応じて流動化させられていく過程を、緻密な実証分析を通じて明らかにする。たとえば、打楽器を用いた即興演奏に障害者・健常者を含む参加者全員が参加する「セッション」の分析は、本論文のもっとも魅力的な箇所のひとつである。音楽形式によるコミュニケーションがもたらす時空間の再編についての分析は、ミクロ過程研究として大きな理論的意義をもつとともに、調査者としての著者のすぐれた力量を示している。
 第三に、本論文において著者は、社会運動と社会政策の多元的な関係性、マクロ・メゾ・ミクロの社会過程の連続性といった、社会分析上の課題を正確に認識したうえで、そうした難問を乗り越えていくためのさまざまな可能性について、正面から取り組む努力を惜しまない。たとえば、対抗的相補性論に端を発する舩橋晴俊の「社会制御システム」の考え方を取り入れながら、それを分析の指針として活用しているのはその一例である。理論的整合性という点でなお課題は残すものの、社会学や社会理論の基本テーマへと自身の研究を接続させていく道筋を 忘れない著者の姿勢は、今後の研究においても大きな支えとなるものと考えられる。
 以上のように、本論文は、学術的に見て大きな成果を挙げたと認められる。しかしなおいくつかの問題点を指摘することができる。
 第一に、本論文は、新自由主義の下における社会運動側の実践について、懐の深い対応が展開していく様子を詳細に明らかにした。この点はすぐれた達成点といえる。だが、社会運動がさまざまな壁にぶつかり、ある臨界点を超えたとき現実的な対応をとるというのは、社会運動にとって一般的な戦略ともいえる。本論文は、情況の構造的非決定性を重視し、社会政策と社会運動の関係性について固定的な表現を避ける分析上の戦略をとる。この方針は理解できるものの、事例に即したもう一段踏み込んだ説明と特性記述があってもよかったと考えられる。
 第二に、本論文は、障害者と健常者の間の関係形成を主題として掲げており、音楽活動など中心に独自の視点から多くの新しい発見を行っている。この点は評価できるものの、論文全体の構成をみたとき、「障害者と健常者の関係」よりも「障害者をめぐる健常者間の関係」に多くの分析が当てられている。本論文として、既存の「障害者と健常者の関係」研究に何を付け加えたのか。たとえば本研究は、「自立」などに焦点を絞る近年の障害研究ではときに見落とされてきた、障害者の多様性という課題に取り組んでいる。この点などを軸に、論文の意義をさらに明確化することが期待される。
 第三に、即興的な音楽活動の場面において、障害者と健常者の創発的コミュニケーションの過程を精密に描き出す箇所は、本論文のもっともすぐれた成果の一つと言える。これは、著者が長年対象と関わりながらフィールドワークを重ねてきたことによって初めて可能となった。しかし論文のなかでその成果が十分に生かされたかといえば、なお疑問が残る。論旨をより明確にし論文の意義を増すためにも、この面でのさらなる展開が大いに期待される。
 ただし以上の問題点や限界は、本論文の学位論文としての価値を大きく損なうものではなく、加藤旭人氏自身もその問題点を充分に自覚しており、将来の研究において克服されていくことが充分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2021年2月10日

 2020年12月23日、学位請求論文提出者、加藤旭人氏の論文について、最終試験を行った。
 本試験において、審査委員が提出論文「障害者と健常者の関係形成に関する社会学的考察――東京都多摩地域における障害をめぐる教育、福祉、地域社会の再編成――」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対して、加藤氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、加藤旭人氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により、一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

このページの一番上へ