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博士論文審査要旨

論文題目:婦選獲得同盟による地域の婦選運動 ―支部運動の変遷と誌友会の形成をめぐって―
著者:井上 直子 (INOUE, Naoko)
論文審査委員:坂上 康博、石居 人也、佐藤 文香、吉田 裕

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1.本論文の概要
 本論文は、1925 年に成立(婦人参政権獲得期成同盟会から改称)した婦選獲得同盟が展
開した婦選運動の実相を、先行研究が注目してきた同盟の本部や幹部(市川房枝など)の動
きからではなく、各地の支部の動向から、明らかにしたものである。また、支部の運動から
派生した誌友会と呼ばれる機関誌の読者ネットワークに着目して、それが運動に果たした
役割を考察する。以上をとおして、①満洲事変以降の運動のあり方、②支部ごとの運動の特
質、③本部と各支部との関係、にせまることで、1930 年代に支部の運動さえも困難になり、
後退を余儀なくされるなか、婦選獲得同盟の活動がどのように続けられたのかを解明した。
本論文で明らかになった満洲事変前後の婦選運動像は、以下のようなものである。
 男子普通選挙の実現を見越してはじまった婦選運動は、いうまでもなく女性の参政権獲
得を最大の目標とした。しかしながら、運動が展開された現場である地域社会に目をむける
と、じつに多様なとり組みがなされていたことがわかる。それはまた、地域を生きる女性を
とりまく環境の反映でもあった。たとえば、旧城下町であり、19 世紀末には師団が置かれ
た「軍都」金沢では、正面から男女平等や婦選を主張するのは難しく、家族制度や神話を媒
介とした婉曲的なアプローチが採られた。また、満洲事変以降になると、銃後支援や災害対
応をおこないながら、女性が国民としての「信念」をもつために婦選が必要だと主張するな
ど、時局に応じてとり組みは変化していった。
 こうした支部の多様なとり組みを把握するうえで、本論文は、①政治運動優位、②地域運
動優位という分析指標を用いる。すなわち、①女性の公民権・参政権獲得をめざす性格、②
地域の政治・行政の課題とむきあう性格、のいずれが前面にあらわれているかに着目して、
支部の運動の見取図を描こうというのである。そして、満洲事変をひとつの画期として、多
くの支部が運動を継続するために、①から②へ移行すると指摘する。また、同盟本部は当初、
支部があくまでも①を維持することに期待をよせたが、1930 年代なかばには、支部独自の
とり組み、すなわち②を評価する方向へと転換したという。そうしたなかで、②を積極的に
実践し、都市問題や市政問題へと展開した東京支部のとり組みが、都市運動というかたちで
兵庫や京都にもひろがった。ただ、その柱のひとつとなったごみ問題は、一方で国防を男性
の問題、ごみを女性の問題とするジェンダー規範を印象づけることともなった。
 東京支部ではまた、時局対応の一環で、支部内のより小規模な集まりが重視されるように
なり、そのなかから機関誌『女性展望』(『婦選』の後身)の購読者(誌友)が感想を話しあ
う誌友会が立ちあがった。誌友会はやがて、国策を地方レベルでどのように扱うかなどを議
論する場となり、女性運動の関係者などをひろく誌友にとりこんで、婦選運動の担い手を広
げていった。これが後継の婦人時局研究会につながっていったと、本論文は見通している。

2.本論文の意義と課題
 本論文の重要な意義として、以下の3点が認められる。
 第一に、婦選獲得同盟の各支部に関する史料を博捜し、丁寧に読みとくことによって、満
洲事変前後の婦選運動を、各支部の多様なとり組みに即して明らかにした点である。井上直
子氏は、婦選運動の実相にせまるため、公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センターに
所蔵されている史料を徹底的に読みこんできた。それによって、各支部がどのような地域の
現実的な課題に直面し、どのように試行錯誤をくりかえしてきたのかを、具体的かつ子細に
明らかにすることに成功している。すなわち、運動の輪を広げるためには、女性の公民権や
参政権を正面から論じるだけでは充分でなく、各支部がとり組む課題や論の示し方に工夫
をこらす必要があったのである。そうした具体相に着目した本論文が、支部ごとの運動の個
性を明らかにしたことは、特筆すべき意義である。
 第二に、各支部間および同盟本部との相互関係という、縦横の座標軸のなかに支部の運動
を位置づけ、婦選運動像を更新した点である。これは、第一の意義と連動することで、意味
を増すことになる。つまり、各支部の個性を個別に把握するにとどまらず、支部同士の相互
関係をふまえつつ運動をとらえている点が重要である。これによって、金沢支部の運動が秋
田支部の結成につながり、東京支部のとり組みが兵庫支部や京都支部のとり組みに影響を
与えたといった具合に、俯瞰的かつ具体的に運動をとらえることに成功している。また、こ
うした相互関係を演出する役割を担った同盟本部は、各支部のとり組みのなかからモデル
とすべきものをピックアップし、発信することで、支部同士の影響関係の方向づけをおこな
っていた。もちろん、本部が提示するモデルも、時局や運動の趨勢に応じて変化していった。
こうした縦横の関係をふまえて、婦選運動像を描きだしたことは、重要な成果である。
 第三に、既存の研究では顧みられなかった誌友会というミクロなネットワークの存在に
着目し、それが結果的に運動の担い手、ひいては裾野をひろげ、後継組織につながったこと
を、実証的に明らかにした点である。誌友会の活動を詳細に跡づけることで申請者が示した
のは、婦選同盟の運動は、本部-支部という関係のなかだけでみるのではなく、時として支
部のみならず同盟の枠組みをも超えてゆくネットワークを視野にいれて考えることの重要
性だといえよう。それはまた、婦選運動が総力戦体制下に、どのようなかたちで、どのよう
に命脈を保つのかを考察する重要な手がかりを示したという点で、大きな意味がある。
 上記以外にも本論文の成果は少なくないが、もとより残された課題がないわけではない。
 ひとつは、政治運動優位・地域運動優位という類型化をめぐる課題である。本論文からみ
えてきたことは、支部ごとの運動の個性や、それを生みだすことになった一筋縄ではゆかな
い地域社会の実状である。そうした多様性は、それぞれをそのままに受けとめることによっ
て、当該期における婦選運動の可能性や、支部が時局に巧みに利用する側面、かえって制約
を受ける側面、戦争協力と評されるものの内実など、婦選運動を等身大でとらえることを可
能にする。類型化によってみえることがある一方、みえなくなることをどのようにふまえて
議論を組みたてるのかは、支部にフォーカスして運動像を再構成しようとする申請者の問
題関心に照らせば、念頭においておくべき課題だといえよう。
 ふたつめは、本論文の成果のひとつに、同盟本部・支部が直面した運動遂行の困難性を明
らかにした点があるが、その先に井上氏が何を構想するのかという課題である。つまり、か
かる困難性とそれへの対処が、運動や地域にどのような意味をもったのかを、時代性をふま
えつつ論ずることは、本論文をより積極的な意味のあるものにするうえで重要だろう。
 さいごは、婦選運動における満洲事変の画期性をめぐる課題である。申請者が描きだした
運動像をふまえるならば、その画期はもうすこし遅い 1930 年代なかばとみることもできる
ようにおもう。いずれにせよ、それを見極めるには、何をメルクマールとして画期を位置づ
けるかの問いなおしが不可欠である。そうした、メルクマールをみなおす手がかりも、本論
文には散見され、そこに踏みこむことも可能だと考える。1940 年代以降をも展望しようと
するのであれば、そうした画期とメルクマールについても問いなおす構えが必要だろう。
 ただ、こうした課題は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、また井上氏
も自覚しているところであり、近い将来において克服されていくことが充分に期待できる。

最終試験の結果の要旨

2020年11月11日

 2020 年 9 月 30 日、学位請求論文提出者・井上直子氏の論文についての最終試験をおこ
なった。試験において、審査委員が、提出論文「婦選獲得同盟による地域の婦選運動―支部
運動の変遷と誌友会の形成をめぐって―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに
対し、氏はいずれにも的確に応答し、充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、井上直子氏が一橋大学学位規則第 5 条第 1 項の規定により一
橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに値するものと判断する。

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