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博士論文審査要旨

論文題目:高齢者雇用政策における労働市場のメカニズムに関する研究
著者:鄭 景文 (CHENG CHINGWEN)
論文審査委員:林 大樹、町村敬志、石倉雅男

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1.本論文の概要
 本論文は次の二つの論点を柱に構成されている。まず、第一の論点は高齢化が急速に進む日本で年金支給開始年齢引き上げによる賃金収入と年金収入の空白期間を埋めるために導入された高齢者の雇用延長施策(具体的には、2006年4月施行の改正高年齢者雇用安定法による65歳までの雇用確保措置の企業への義務づけ)が、高齢者の労働市場にどのような影響を及ぼしたかという論点である。次に、第二の論点は高齢者の雇用政策がターゲットとなる高齢層の雇用に与えた影響だけでなく、企業の労働需要構造に与える効果を通じて他の年齢層の労働者にどのような影響を与えるかという論点である。

 本論文の構成は次の通りである。
 まず、序章では現代日本の高齢者の就労の状況、高齢者の労働市場の状況、高齢者雇用政策の状況が統計データを示しながら簡明に描かれ、企業における60歳以上雇用確保措置の多くが「定年制の廃止」や「定年の引き上げ」ではなく、「継続雇用制度導入」であることが示される。

 第一章「日本の高齢者雇用対策」では、高齢者の雇用政策が年金財政および年金による労働者の生活保障と密接に関係していることから、まず第一節「年金制度の創設と改正」で年金制度と高齢者雇用政策両者の変遷の対応関係が検討される。1942年施行の労働者年金保険法を前身として、1944年に発足した厚生年金保険法において、年金支給開始年齢は55歳であった。当時の大企業の定年年齢は55歳が一般的であったため、賃金と年金の所得の空白期間の問題は浮上していなかったが、その後、1954年に厚生省は老齢年金の男子の支給開始年齢を55歳から60歳に段階的に引き上げる内容の新厚生年金保険法案を国会に提出し、それ以降、年金制度の改定と定年延長を要求する労働組合の運動と高齢者雇用政策が絡み合う状況が続いたのであるが、鄭氏はその展開を「中高年齢者の雇用促進への取り組み始まる」第1期(1960年代~1980年代)から、「60歳定年延長立法化実現への取り組み」の第2期(1980年代~1990年代)を経て、「65歳までの高年齢者雇用確保措置を目指す時期」である」第3期(1990年代~)まで丁寧に追っている。
 第二章「大企業高齢者の企業規模間移動」は、上述の第一の論点を扱っている。大企業の本雇い労働者における年功制や大企業と中小企業の間に存在する賃金等の労働条件の格差など労働市場の二重構造という特徴を有するわが国産業界において、2006年4月施行の改正高年齢者雇用安定法による65歳までの雇用確保措置の企業への義務づけが高齢者の労働市場にどのような影響を及ぼしたかを、大企業労働者の企業規模間移動の実態分析を通して分析するのが本章の中心的内容である。分析の対象としたデータは主に厚生労働省『雇用動向調査』であり、事業所に関する調査にもとづくこの統計は、従業員の転職過程と、その従業員の就職先や離職元の企業の特性との関係を分析することが可能である。分析の結果、改正高年齢者雇用安定法が実施された後には、大企業において高年齢者の継続雇用が大きく進展した一方で、大企業60~64歳層労働者の中小企業への下向移動が大幅に減少して、中小企業の人手不足感が強まっていることを明らかにしている。

 第三章「高齢者継続雇用と若年者失業の因果関係」では、上述の第二の論点を検討している。鄭氏はバブル崩壊後の長期経済低迷のなかで、若年層の失業率が上昇し、若年層の雇用問題に注目が集まるようになってきた一方で、2006年4月施行の改正高年齢者雇用安定法により、60~64歳層の失業率が他の年齢層の労働者に比べて大きく低下しているとし、高齢者雇用政策が若年層の雇用機会の変動とどのように関連しているかを探る必要があると考える。そして、データとしては総務省統計局『労働力調査』を用いて、高齢者雇用政策がどの程度若年者失業に影響を与えたかを分析した。分析の結果、改正高年齢者雇用安定法の実施の有無に関わらず、若年層雇用率の変化と60~64歳層の雇用率の変化の相関関係に明らかなマイナスの関係を観察することができ、企業内の「置き換え効果」が存在すること、そして高齢者の雇用確保と若年層の雇用のトレードオフ関係は大企業において強くみられるが、中小企業は全体的な人手不足感の強まりがあるためか、トレードオフ関係は明らかでないと指摘する。
 最後に終章「結論」では、すでに第二章と第三において、分析の結果として紹介した結論を整理した上で、政策的含意が述べられる。それを要約すると、定年と年金支給を切れ目なく接続させることは(社会政策として)合理的な面があるものの、過度の高齢者雇用促進は必ずしも高齢者を活用できない場合がありうるし、あるいは若年層の雇用機会を減少させる場合もあることから、雇用政策として望ましくないというのが鄭氏の判断である。

2.本論文の成果と問題点
 本論文の成果として大きく三点を挙げることができる。
 第一に、改正高年齢者雇用安定法が高齢者の労働市場にどのような影響を与えたかという論点に関し、その実態を高齢労働者層の企業規模間移動の雇用統計データの分析を通じて実証的に明らかにしたことである。この点についての鄭氏の貢献は、日本における労働市場の二重構造について多くの研究者が関心を寄せていたにも関わらず、研究テーマとされることがなかった大企業と中小企業の間の高齢者の労働移動(転職)について、データにもとづき実態を明らかにし、政策的に大企業における60歳代前半層労働者の継続雇用が促進された一方、大企業から中小企業への高齢労働者の移動が抑制され、中小企業の人手不足が悪化したことをマクロ統計データによる分析として初めて明らかにしたことである。
 第二に、高齢者の雇用政策がターゲットとなる高齢層の雇用に与えた影響だけでなく、他の年齢層の労働者にどのような影響を与えるかという論点に関し、すでに本審査報告では
 第三章の概要の紹介の中で述べた大企業における高齢者の雇用確保と若年層の雇用のトレードオフ関係などの発見の前段で、鄭氏は総務省統計局『労働力調査』を用いて、企業規模別に雇用戦略がどのように異なるのかという視点から、年齢階級別労働者の雇用実数、構成比率及び構成比率の変化について、2000年から2017年までの時系列の推移を企業規模別に5枚のクロス表として作成している。同クロス表は形式としてはシンプルなものだが、この時期における日本企業の雇用戦略の推移が反映されていると考えられ、今後の研究において多くの人々によって検討されるべき重要な分析結果として評価することができる。こうした含蓄のあるデータを平明な形で提示しうる点に、著者のすぐれた力量が示されている。
 第三に、上で述べた第一の成果と第二の成果は絞り込まれた研究テーマと対象について、特定の方法で研究した成果であるが、その前提として、本論文の序章では「高齢者雇用と若年者の置き換え効果に関する先行研究」を多角的にレビューし、同テーマに関する14組の研究者の研究内容を総括している。また、第二章と第三章の主たる研究テーマは本審査報告でも再三言及している2006年4月施行の改正高年齢者雇用安定法の影響に焦点が絞り込まれているが、そうしたポイントに絞り込む前段で1942年施行の労働者年金保険法(のちの厚生年金保険法)以降近年までの年金制度と高齢者雇用政策の変遷をレビューしている。これらからうかがえるように、鄭氏の研究スタイルは経済分析のみが一人歩きするのではなく、多角的視点をもった社会科学的研究であると評価できる。

 以上のように、本論文は全体として大きな成果をあげる一方で、若干の課題も残している。
 たとえば、本論文の第三章第二節では、「5、高齢者雇用比率の変化と若年層雇用比率の変化の相関関係」のデータ分析が研究のゴールとなっているためであろうか、本審査報告の成果の第二で指摘した企業規模別の企業の雇用戦略の推移を読み解くのに有益と思われるクロス表はなお表面的な説明にとどまり、その含意が十分にはくみ取られていないように思われる。
 ただし、以上の課題は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、著者自身も十分に自覚している。近い将来の研究において、これらの諸点が克服されていくものと十分に期待できる。

最終試験の結果の要旨

2020年3月11日

試験の結果の要旨


2020年2月25日、学位請求論文提出者鄭景文氏の論文について、試験を実施した。試験において審査委員が、提出論文「高齢者雇用政策における労働市場のメカニズムに関する研究」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、鄭氏はいずれに対しても的確に応答し、充分な説明を与えた。なお、学位論文の審査が終わった後に、一橋大学学位規則第5条第3項及び第8条第1項の規定による外国語及び専攻学術に関する試問を行い、鄭
氏について本学大学院博士課程を修了した者と同等以上の学力があると認定した。
よって、審査員一同は、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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