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博士論文審査要旨

論文題目:米国移民管理レジーム下でのトランスナショナルな社会空間の再編―メキシコ村落出身移民の包摂と排除をめぐる「道徳的秩序」に着目して―
著者:飯尾 真貴子 (IIO, Makiko)
論文審査委員:小井土,彰宏、貴堂,嘉之、伊藤 るり、森 千香子

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【論文の概要】
 本論文は、オバマ政権下で年間40万人にも上った非正規移民の大量強制送還政策が主要送還先であるメキシコ側と米国側のコミュニティに与えた影響とそれへの反応を、多地点フィールドワークmulti-sited fieldworkの手法を用いて実証的に分析した画期的な研究である。理論面においても、著者は、90年代より発展してきたトランスナショナル研究をポスト強制送還研究と接合することで、米墨間の越境的な空間が再編成される過程を分析することに成功している。大きな構図を捉える視座と、コミュニティレベルの「道徳的秩序」をめぐる行為者の主観的な世界の解明から、米国の強力な政策が生み出す衝撃がいかに構成員に受け取られ、彼らの関係を規定し、変化させていくかを各水準の当事者の肉声をもとに描き出しており、現代の移民研究の最先端を切り開く力作であると評価できる。
【論文の成果と問題点】
1. 国際移民の理論的・実証的先行研究の広範な検討を行うことで、近年のポスト強制送還研究を1990年代以来発展してきたトランスナショナル研究に接合する可能性を切り開いた意義は大きい。ポスト強制送還研究を厳格な移民規制政策の社会的影響の一分野としてとらえ、単に強制送還を切り離された故郷の送り出しコミュニティへの再適応や影響を分析する視点を乗り越え、これを強制されたトランスナショナルな移動として捉えなおす一方、既存のトランスナショナル空間が切断されるだけでなく、それが国家の強制力との相互作用により再編成される過程を解明した点は理論的にも大きな革新と評価できる。
2. 故郷のコミュニティは、しばしば強制送還者にとって、その保護機能や再適応の媒介者として想定されがちであるが、本論文では、詳細なフィールドワークによってこの安易な理解を覆した。むしろ故郷の村落コミュニティやそこから広がるトランスナショナルな社会空間の中で、強制送還の対象となった移民たちが、アメリカ国家の押し付けたスティグマによる偏見の対象となるだけでなく、共同体に確立した「道徳的秩序」を満たさないものとして、差別や排除の対象になりうるという逆説的な事実を発見した。このような媒介的な社会関係の機能の多義性にまで踏み込んで強制送還をトランスナショナルな視野のもとに分析したことは、本論文の独創的貢献といえる。さらに、この規範的秩序の分析にジェンダー論的な視点を導入し、越境活動と絡みあった様々なジェンダーの機能とその転換を浮き彫りにした点もこの論文の大きな成果と評価できよう。
3. 本研究は、メキシコ南部オアハカ州の山村とカリフォルニア州フレズノの農業地帯の2地点に広がる移民コミュニティ、さらにロサンゼルス市の若者運動体、メキシコシティの周辺大衆住宅地帯での帰還者、また国境都市における強制送還直後の移民たちという複数地点での多様な対象に対して行った聞き取り調査に基き、トランスナショナル研究の中で提起された多地点フィールドワークmulti-sited fieldworkの手法を徹底して実践したものといえる。この大きな調査設計の枠組みの下で、参入の難しい山間部村落に入り込んだ上で、強制送還体験者とそれを取り巻くコミュニティの住人たちというアクセスするのが困難な人々に対して、多数のインタビューを実施し、彼らのライフヒストリー、特に送還後の体験についてその内面にまで分け入った聞き取りを実施した。このような調査手法により、彼らのおかれた複雑な状況と内的な世界を提示しえたことは、大きな価値があると評価できる。
4. 本論文は米国移民規制レジームの法体系や行政制度としての変質について法社会学的考察を行い、オバマ政権下で正当化の論理として打ち出された「過重的重罪」者の大量送還策が、刑法と移民法という独立した法体系の連動構造の帰結であることを解明した。この結果、「移民の犯罪者化」と呼ばれる現象を生み出す社会的メカニズムを、社会システム論でいう自己言及性の作用として捉えなおした。実証的成果を基に、諸アクターを巻き込みながら自己展開をしていく移民規制体系の基軸的論理に迫る視点を提供したことの意義は大きい。
 以上のような大きな成果とともに下記のような研究上の限界も指摘できる。
1. 本論文では、現代的な移民現象と移民政策の分析に加え、移民規制の差別的システムについて歴史的検証がなされている。だが、そのためにはメキシコ系などラティーノ差別のみならず、合衆国史における移民規制の歴史的淵源をアジア系などより多様な移民集団のケースにまで溯って検証する必要があったのではないか。
2. 多地点フィールドワークによる大きな視野をもった研究であるが、1)国家機能におけるメキシコ政府の対応、2)コミュニティの立脚点としての都市の分析、については十分なバランスはとれておらず、今後の拡充が求められる。
3. メキシコ南部対象地であるエスペランサ村側の「道徳的秩序」の核心にあるカルゴ・システムに関して、その移住者と強制送還者への期待・規制に関しての分析は手厚くなされているものの、コミュニティの互酬制の構造、規範の在り方について、当該村落とメキシコ社会一般での機能や制度的全容についての説明が足りない。また、この村落での経済的基盤・人口動態の推移についての考察が薄く、拡充が必要であろう。
 以上、主な問題点を記したが、これらについては口述試験の質疑応答において、筆者自身の見解が説明され、今後の課題としても認識が得られた。近い将来の研究においてこれらが克服されていくものと十分に期待できる。また、これらの課題にもかかわらず、本論文が達成した成果を損なうものではない。

最終試験の結果の要旨

2020年6月10日

 2020年4月27日、学位請求論文提出者、飯尾真紀子氏の論文について最終試験を行った。本試験において、審査委員が提出論文「米国移民管理レジーム下でのトランスナショナルな社会空間の再編――メキシコ村落部出身移民と家族の包摂と排除をめぐる「道徳的秩序」に着目して――」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、飯尾真紀子氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、飯尾真紀子氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により、一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定する。

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