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博士論文審査要旨

論文題目:植民地期朝鮮における土地改良事業と農村
著者:洪 昌極 (HONG, Changguek)
論文審査委員:加藤圭木、高柳友彦、吉田 裕、佐藤仁史

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1 本論文の概要

 本論文は、植民地期の朝鮮において水利灌漑事業を中心とした土地改良事業がどのようにおこなわれたのか、それによって農村社会がいかに再編されていったのかを、特に植民地権力の役割に注目して考察したものである。水利権をめぐる紛争や土地改良事業などに関する丹念な分析を通じて、数多くの新たな事実を発掘しつつ、植民地権力が土地利用権者の権利を抑圧していった様相を具体的に明らかにしている。序章・終章を除くと七章構成であり、本文・参考文献目録をあわせて、400字詰原稿用紙換算にして約800枚に及ぶ力作である。

2 本論文の成果と問題点

 本論文の第一の成果は、朝鮮農村・農民の視点から水利権・引水権や耕作権などの土地利用権の重要性を明確にし、日本の植民地支配によるこれらの権利の侵害と、朝鮮側の抵抗の様相を実証的に解明したことである。ことに、これまでに研究が存在しなかった朝鮮植民地化過程における堤堰国有化をめぐる紛争(南大池紛争)や、植民地期における農業用水をめぐる争議(水戦)に着目することで、朝鮮農民側の土地利用権に対する主体的な対応のあり方と、それを侵害する植民地権力の特質を浮かび上がらせることに成功している。なお、南大池紛争に関して、朝鮮王朝時代からの歴史的経緯を考察することで、農民の土地利用権へのかかわりを跡づけていることは特筆すべき点である。
 第二に、植民地期朝鮮に関する経済史と政治史研究を接合する方法を具体的に示し、土地改良事業における日本の植民地権力の規定性を明確にしている点である。まず、南大池国有化の主導勢力や水利組合の組合長などの人物がどのような政治的役割を果たしたのか詳細に検討することにより、植民地支配を下支えした勢力について、立体的に把握されている。また、「産米増殖計画」の「更新計画」期における植民地権力の役割を、日本の国策会社の土地改良事業への介入を考察することによって浮かび上がらせている。さらに、土地利用権をめぐる紛争に対して警察・軍隊および地方行政機構が果たした役割を、数多くの事例を集めることによって明らかにしている。植民地期朝鮮に関する歴史研究においては、政治史・経済史の研究が分離する傾向が見られるが、こうした中で本論文は貴重な成果として高く評価できる。
 第三に、実証研究が不足していた領域において丹念な分析をおこなったことで、従来提示されてきた歴史像の修正に成功していることである。まず、「産米増殖計画」の時期(1920〜1934年)において朝鮮人が水利組合事業に参与したという点をめぐっては、従来統計分析が中心だったためにその歴史的意義については十分に解明されていなかった。これに対して、本論文は朝鮮北部に存在した数多くの水利組合の事例を一つ一つ徹底して分析することで、植民地権力による主導性が極めて強かったことを説得的に論証している。また、これまでの研究で未解明であった「産米増殖計画」の「更新計画」期(1926〜1934年)の水利組合事業区域内における土地所有構造の変動について、本論文は新たに発掘した史料を分析することを通じて、日本資本である法人による土地の集積が進行していたことを明らかにしている。加えて、1930年代前半の朝鮮総督府による人口移動政策についてはこれまで主に労働者斡旋政策に関する研究が存在するだけだったが、本論文は干拓事業地への農業移民をはじめて本格的にとりあげている。
 第四に、以上の貴重な成果を生んだ基礎として、現在利用可能な史料を博捜し、実証の水準を高めていることである。ことに、南大池紛争の研究にあたっては、韓国の国家記録院所蔵の関連文書を精密に活用している。この文書群には日本側の文書はもちろんのこと、運動側が作成した文書も含まれており、植民地化過程の時期における史料としては極めて貴重なものである。また、1934年時点での水利組合の民族別構成の統計が確認できる国家記録院所蔵史料を発掘し、丁寧に読み解いたことも先駆的な成果である。さらに、国立公文書館つくば分館に所蔵されている東洋拓殖株式会社の内部文書を利用し、江西干拓事業について緻密な実証をおこなったことも重要な貢献である。
 以上の四点の他にも多くの成果があるが、もとより残された課題がないわけではない。
 第一に、「産米増殖計画」については土地改良事業を中心に検討をおこなっているが、さらに考察の対象を拡げる必要がある。農事改良事業や河川改修事業に関する検討に加え、工業化政策との関係についても考察を深めるべきである。なお、水利組合事業を分析する際には、それが実施された土地の地形や生産性についても議論に組み込んだほうがより説得的である。
 第二に、朝鮮農民側の主体的営為については、第二章(南大池紛争)や第三章(水戦)では積極的に提示されているが、それ以降の章では政策や経済構造の分析が中心となるため、やや後景に退いている。朝鮮農民が置かれていた政治・経済構造のより詳細な分析とあわせて、考察を深める必要がある。また、これに関連して紛争時以外の農家経営のあり方などについて、本格的に検討することが求められる。
 第三に、農民の土地利用権の内実や、農民側が土地利用権を主張する論理については、さらなる分析が求められることである。たとえば、南大池紛争の際に農民側は「万国公法」に依拠して堤堰国有化に反対したことが本論文では指摘されているが、その際の農民側の論理をより緻密に明らかにすることが必要である。また、土地利用権をめぐる「慣習」について、日本の植民地権力によって切り捨てられていったものは何だったのかについて、考察を深めることが課題である。
しかし、以上の点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2020年2月12日

 2020年1月8日、学位請求論文提出者・洪昌極氏の論文についての最終試験を行なった。本試験において、審査委員が、提出論文「植民地期朝鮮における土地改良事業と農村」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、洪昌極氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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