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博士論文審査要旨

論文題目:HIVとともに生きる—傷つきとレジリエンスのライフヒストリー—
著者:大島 岳 (OSHIMA, Gaku)
論文審査委員:小林 多寿子、町村 敬志、太田 美幸、好井 裕明

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1.本論文の要旨
 本論文は、現代日本におけるHIV陽性者の個別具体的な生存・人生・生活の語りに着目し、「HIVとともに生きること」とはどういうことなのか、その苦悩や問題経験とともに、生きていくための戦術や智慧も含めたライフへの主体的かかわりをあきらかにすることをめざして、つぎの三つの問いのもとに探求を進めている。第一に、HIV陽性者当事者のライフヒストリー・インタビューをとおして生きづらさだけでなく生きる力をいかに培ってきたのか、その諸相をとらえること、第二に、HIVがスティグマ化されていた時代に陽性者たちの協働によっていかに社会に働きかけライフを切り拓いていったのか、その実態をあきらかにすること、第三に、医療やケアの専門職化の進展のなかで陽性者がむしろ苦しみを増大させているのではないか、その現状を検討すること、これらの問いを基点として性感染HIV陽性者のライフヒストリー研究に取り組んだものである。
 本論文の特徴は、長年にわたるインタビュー調査および史資料収集を中心とする丹念な調査によって得られた、インタビュー・データ、ゲイ雑誌の内容分析、関連医療情報誌とサポートグループの冊子や手記の分析等、豊富な第一次資料をもとに質的にていねいに論述されているところにある。また、そのような質的調査にもとづいた性感染HIV陽性者の社会学的研究としては先駆的であることも本論文のもう一つの特徴として指摘しなければならない。HIVが確認されて40年にわたり、性感染HIV陽性者は、薬害エイズと対照的に「悪い」エイズとされ、苛酷なスティグマを受け、スティグマのためにサポートを得られず、傷つき、生活全般に厳しい負の影響を受けてきたのであるが、社会学的な研究によるその実態の詳細な解明はいまだ十分でなかった。とくに性感染HIV陽性者のうち、ゲイ男性を中心としたライフ全体についての本格的な質的研究として日本でも初めての試みとして高いオリジナリティを有している。

2.本論文の成果と問題点
 本論文の成果としてつぎの三つの点をあげることができる。
 第一には、HIV陽性者の個別具体的なライフを豊富な質的データをもとに多角的に描出した点において、HIVの社会学的研究の最先端を新たに切り拓いたことがあげられる。1990年代半ばにARTといわれる多剤併用療法による抗HIV療法が開発され生命予後が飛躍的に伸びて、HIV/エイズは、それまでの「死にいたる病」から慢性疾患へと劇的に変容した。しかしながら、この変容のなかにあっても、陽性者はいまだ厳しいスティグマ下にあり、その苦難の実態がいかにあるのか、その逆境的状況を生きていくなかで困難にいかに立ち向かってきたのかを問うている。本論文は、アーサー・クライマンのいう「病いは経験である」という視点に立ち、語りによって痛みや苦しみ、患うことの経験をとらえていくという立場をとり、筆者が協働して経験の意味を探り洞察を深めていく方途によって、HIV陽性者のライフを分厚い記述によってていねいに描きだした点においてこれまでにない成果を得ている。
 第二に、HIV陽性者研究の方法論的意義をあげることができる。性感染HIV陽性者22名へのライフヒストリー・インタビューは、調査協力者を得ることさえ難しい状況のもとで当事者団体のニュースレターで経験の語り手を募るという画期的な工夫によって実現されており、その方途によって得られた半構造化インタビューによる陽性者たちの経験の語りは本論文の論述の根幹を構成している。さらに手記と雑誌記事分析は40年にわたるHIVをめぐる歴史の諸相を多次元的にあきらかにしている。
それらの作業を通じ、危険な病いとして公的支援の期待できない時代から一貫してゲイ雑誌の出版活動を通して取り組まれてきた主体的な実践や、陽性者の手記をもとに医療情報誌を通じたヘルスリテラシー向上実践の実際をとらえることに本論文は成功している。ピアサポートの実態にも着目し、メディア分析と当事者の語りをもとに、HIVの慢性疾患への変化によってむしろ生きづらさを分かち合える場としてのピアサポートが求められたこと、さらにセクシャルマイノリティやジェンダー、メンタルヘルスなどほかのスティグマと複合的に結びついてスティグマの重層化が進むなかで生存を志向する語りの場としてのピアサポートが意義をはたしてきたことを浮かびあがらせた。
 従来の病いの社会学的研究でもライフストーリー法は主流であったが、本研究では複数の質的調査データを巧みに組み合わせることによって40年にわたるHIVをとりまく状況の変遷と陽性者自身の経験に照準したスティグマとレジリエンスの実際、とくに今まであまり知られていなかったHIVをめぐるアクティヴィズムやヘルスリテラシー、ピアサポートをめぐる実態をも描き出すことができた点は大きな成果である。
 第三に、HIV陽性者をとらえる視点における理論的に新規な試みをあげることができる。それは、スティグマ論の再考と、レジリエンス論の導入、リヴィング・ポリティクス論への着目である。HIVスティグマの現状および低減にむけた社会運動の変遷を考察し、スティグマ概念の再検討をおこなうこと、さらに、スティグマ論をレジリエンス論と接合させたことで、HIVを生きる人たちの経験を論じる新たな視点がとりこめたことは意義あることと認められる。複数の重層的スティグマを生きる陽性者がスティグマの重圧で打ちのめされるに留まるのではなく、生きる希望を拓いていく実際をとらえる視点は、たんなるスティグマ論をのりこえて、苦難への立ち向かい方、乗り越え方もあわせてみるスティグマ-レジリエンス論の研究展開として評価できる。従来のスティグマ論を超えて、ヴァルネラビリティから物語とともに生きるあるいは物語を紡ごうとする希望がレジリエンスの顕現となることを実際の豊かな語りによって説得的に描出すること、そしてリヴィング・ポリティクス論の展開可能性を示すことに成功している。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、残された課題がないわけではない。以下に二つの点をあげたい。
 第一は、調査協力者の幅広い吟味の問題である。調査協力者の属性の偏りと調査者が研究成果に及ぼす影響についてさらに積極的検討が必要であろう。性感染HIV陽性者という得難い調査協力者へのインタビュー機会を創意工夫によって得ることができたのは貴重であったが、とくにセクシャリティや性自認、ジェンダーをめぐる偏りをふまえた一層細やかな考察が求められる。偏りへの自覚とそれにもとづく本研究で得られた知見への繊細な認識は、むしろ本課題の今後の展開可能性を広げることにつながるであろう。
 第二は、論述のゆらぎの問題である。本論文は、具体的な個別の陽性者の語りにもとづいてHIVとともに生きる人びとの経験をていねいに描き出したことが評価され、アーサー・フランクが『傷ついた物語の語り手』でだした三つの語りの類型、すなわち「回復の語り」「混沌の語り」「探求の語り」のうち、とくに「混沌の語り」に着目したことは「病いの語り」論の深化のうえでも意義がある。陽性者自身の「混沌」への気づきは、「混沌」をライフヒストリーのなかで位置づけ直すこと、そして「混沌の語り」がつながりや連帯を可能にする一つの磁場になることをあきらかにした。そこに、新たな「病いの語り」論の展開可能性が示されている。しかしながら、「混沌の語り」を「語りえなさ」とむすびつけて論じようとするとき「混沌」をめぐるあいまいさが浮上している。さらに論述においてもぶれとゆらぎが生じた個所が散見され、さらなる議論の精錬が求められる
 これらの点は、本論文でもっとも評価される豊かな経験の語りを存分に活かすためにもなお一層の検討が求められるところである。ただ、これらの点は、本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、筆者自身も重々自覚しており、今後のさらなる研究において克服されていくことが十分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2020年2月12日

 2020年1月27日、学位請求論文提出者・大島岳氏の論文についての最終試験をおこなった。本試験において、審査委員が、提出論文「HIVとともに生きる―傷つきとレジリエンスのライフヒストリー―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。よって、審査委員一同は、大島岳氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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