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博士論文審査要旨

論文題目:冷戦期東アジア情勢の変動と戦後日本の出入国管理-境界管理のはざま-
著者:李 英美 (RI, Yongmi)
論文審査委員:中野 聡、石居人也、貴堂嘉之、加藤圭木

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1. 本論文の概要
 本論文は、第二次世界大戦後の冷戦と脱植民地化という国際環境のもとで形成された戦後日本の出入国管理政策が、とりわけ地域社会においてどのようなかたちで執行され、国民・国籍・人の移動をめぐる「境界」を立ち上げてきたのかを、とくに旧植民地(朝鮮半島)出身者をめぐる国籍と出入国管理の実務の現場に焦点をあてて考察するものである。

2. 本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、戦後日本の出入国管理政策史の領域において、制度が実践されていくさまざまの現場における歴史経験に注目することにより、新たな視点と方法を開拓した点に求めることができる。1947年に制定・公布された外国人登録令に関しては、大沼保昭、鄭栄桓らが、主として制度・政治・運動史的な研究を展開してきた。これらの先行研究は、戦後日本に居住する旧植民地出身者を外国人として再構築したうえで管理しようとした出入国管理政策の政策・政治的意図に注目し、また政策と対峙した在日朝鮮人団体の運動史に注目することにより、境界の構築をナショナルな局面で明らかにするものであった。これらに対して本研究は、第一章では外国人登録行政を実施した地域行政の現場、第二章では「仮放免」・「在留特別許可」措置に協力した旧植民地支配と連なる民間諸団体の業務の現場、そして第三章では入国者収容所を抱えた長崎県大村市の地域社会という現場に注目することによって、ローカルな局面において境界構築事業の担い手たちが直面した境界の曖昧さ・ゆらぎや、境界の構築が地域社会の人々の生活のなかにどのように文脈化されていったのかを明らかにした。そこで明らかにされた内容は先行研究の結論を揺るがすものでは必ずしもないが、先行研究が自明視してきた前提としての境界が構築された過程そのものに注目する必要があることを明らかにした点は高く評価することができる。
 本論文の第二の成果は、上述の論点を明らかにするために、出入国管理政策の現場を検討するための多様な史料と方法を積極的に開拓した点に求めることができる。まず第1章に関しては、地方行政の末端の吏員が直面した外国人登録事務の現場の実像を解明するために、各県地方公文書館等において各県市町村行政文書を渉猟することにより、成績優良の登録事務者に対する法務省表彰をめぐる行政文書などの興味深い史料群などから、1950年代初頭においては曖昧であった「外国人」という境界が現場の業務によって行政的に構築されていく有様を検討することが可能となった。また第2章に関しては、旧在朝日本人を中心に戦後日朝・日韓関係のなかで活動を展開した親和団体の機関誌・回想録などこれまでに利用されていなかった史料群に注目することによって、植民地期の保護事業が戦後の出入国管理における外国人管理事業に連続したが明らかとなり、また政策の運用を多面的・重層的に捉えることが可能になった。そして第3章に関しては、大村収容所をめぐる地域史料を収集し、とりわけ地域の小学校で書かれた児童作文の記録、さらにはそれらの児童作文がきっかけとなって日教組によって制作された映画『日本の子どもたち』に注目し、同映画に出演した地元住民に対する聞き取り調査も行うことによって、「外国人」という境界が地域社会のなかで空間的・視覚的にどのように表象され理解され、また記憶されてきたのかという問題に迫ることができた。これらのアプローチを通じて、本論文が「出入国管理政策の社会史」に向けた豊かな可能性を提示することができた点は高く評価することができる。
 以上のような成果が認められるものの、その一方で本論文にはいくつかの問題点も指摘できる。
 第一に、先行研究の前提そのものの構築過程に注目した意義が高く評価できる一方で、本研究が明らかにしてきた境界構築過程における曖昧さ、ゆらぎ、などが、出入国管理政策や在日朝鮮人運動に対していかなる問題としてどの程度のインパクトを与えたのかなど、本論文が検討した中間領域論としての意義について、もう一段の議論が行われることが望まれる。
 第二に、出入国管理事務の現場の担い手に注目したなかでしばしば見いだされるある種の善意や良心をどのように解釈するかについて、善意が入り込む制度的欠陥やすきまが存在したという点から論じるのか、善意がクッションとなって柔らかな排除や差別構造につながるのかなど、もう少し踏み込んだ検討が行われることが望まれる。
 第三に、本論文では,その大半の検討を、境界を構築し、管理し、表象する日本人の側からの視点に限定していて、管理された側の人々については筆者も認めるように「痕跡」を拾い上げるにとどまっている。境界のゆらぎや曖昧さを論じるという点では、管理された側の人々を本格的に組み込んだ視点・史料・方法の拡充が望まれる。また近年めざましい展開を見せている人の移動史研究、戦後引揚・残留・追放史研究などとの関係で本論文をどのように位置づけるかについても、よりいっそう踏み込んだ議論が行われることも望まれる。
 もちろん、これらの諸点は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、李英美氏自身が十分に自覚しており、近い将来の研究において補われ克服されていくことが十分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2020年2月12日

 2019年12月19日、学位請求論文提出者・李英美氏の論文について、最終試験を行った。 本試験において、審査委員が、提出論文「冷戦期東アジア情勢の変動と戦後⽇本の出⼊国管理――境界管理のはざま」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、李英美氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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