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博士論文審査要旨

論文題目:近世中後期の百姓の土地所持意識と村落共同体の変容
著者:菅原 一 (SUGAHARA,Hajime)
論文審査委員:渡辺尚志、若尾政希、石居人也、高柳友彦

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1 本論文の概要
 本論文は、近世中後期(一八世紀半ばから一九世紀前半)における農村社会の実態を、村落共同体・地主・小前百姓(地主ではない一般の百姓)の三者の関係性を考察の中心に据えて解明したものである。そして、この三者の関係を解明する際のキーワードとして、直上納制・無年季的質地請戻し慣行・村方騒動(百姓同士の争い・訴訟)の三つを設定している。
 直上納制とは、地主が領主への献金などの功績によって、村を通さず、直接領主に年貢を上納することができる特権である。村請制を年貢納入原則とした近世社会において、直上納制は異例のあり方であった。
また、無年季的質地請戻し慣行とは、金銭貸借の際に借り手側が担保として差し出した土地が質流れになっても、その後において最初に借りた元金だけを返済すれば、質流れになった土地を請け戻すことができるという慣行であり、近世に特徴的なものであった。
 そして、直上納制と無年季的質地請戻し慣行はともに百姓の土地所持に深く関わっており、それらをめぐって起こった村方騒動も土地所持のあり方を争点としていた。
 本論文は序章・終章を除いて七章構成で、第一章から第四章において主に直上納制を扱い、第五章から第七章において主に無年季的質地請戻し慣行と村方騒動について検討している。
 近世中後期においては、地主が、元の土地所持者(小前百姓が多い)からの質流れ地請戻し要求を拒否して、自らの土地所持権を確固としたものにするための方策として直上納制の実現を目指したのに対して、質流れによって所持地を失った小前百姓は、無年季的質地請戻し慣行に依拠することで、いったんは手放した所持地を再び地主から取り戻そうとした。そうした土地所持をめぐる地主・小前百姓間のせめぎ合いは、村方騒動として顕在化した。小前百姓は、村方騒動を通じて、自らの意見や要求を村政に反映させていき、それが村落共同体一丸となっての質地請戻しを実現する力となった。また、小前百姓は、村落共同体に依拠することで、小作騒動においても地主に対抗することが可能となった。
 本論文は、このような近世中後期における農村社会のダイナミックな変容過程を、信濃国の村々を事例に詳細に解明し、さらに近代への移行過程をも展望したものである。

2 本論文の意義と課題
 本論文には、以下の三点において大きな意義が認められる。
 第一は、近世の百姓にとってもっとも重要な資産である土地(田畑・屋敷地)の所持権の維持・回復をめぐって、地主と小前百姓のそれぞれが有した意識とそれに基づいてとった行動とを具体的に明らかにしたことである。
 従来の地主経営研究では、近世後期に地主の所持地は拡大傾向にあるものの、地主は元の土地所持者からの請戻し要求を拒否する有効な論理と対策を確立しておらず、そのため地主の土地所持は不安定さを免れなかったとされてきた。それに対して、著者は、地主が直上納制を領主と村落共同体・小前百姓に認めさせることによって、自らの土地所持を確固としたものにした事例を多数発掘・提示し、地主側の対抗策が存在したことを示した。
 また、従来の研究では、小前百姓側の質流れ地請戻しの手段として無年季的質地請戻し慣行が存在すること自体は指摘されてきたが、この慣行が近世のどの時期に主に発動されたかという時期的な問題については明らかにされていなかった。それに対して、著者は、この慣行が一八世紀においては実際に発動されることがほとんどなかったのに対して、一九世紀前半になると、地主の所持地の拡大に対抗して頻繁に発動されるようになることを明らかにした。このように、近世に特徴的な慣行とされる無年季的質地請戻し慣行も近世を通じて常に発動されていたわけではなく、近世後期に至って小前百姓が所持地回復の手段として積極的に用いるようになったことを示した意義は大きい。
 第二の意義は、近世中後期における農村社会の変容過程を、村方騒動を通じてダイナミックに描き出した点である。村方騒動を通じて、小前百姓たちは、自らの意見や要求を村政に反映させるようになった。こうした動向は、従来の研究では「村政民主化」とか「村内民主主義の実現」などとよばれて、近代につながる動向として積極的に評価されてきた。著者は、そうした側面を認めつつも、一方では「村政民主化」的動向を基礎として、きわめて近世的な慣行である無年季的質地請戻し慣行が発動されていくという事実を発見した。著者は、ここにみられるような、近代につながる側面をもつ動向が、それによって同時に近世的な慣行を活性化させるという、近世から近代への転換期に固有のあり方を重視している。このように、近世社会のなかに生まれた近代的なものがしだいに成長していくという直線的な変化だけではない、伝統的なものと近代的なものとの複雑な相互関係を解明した点は重要な成果である。
 第三の意義として、特定の村を対象として、その村に残る史料を長期的なスパンで分析することによって、いくつもの新事実を発見したことがあげられる。たとえば、著者は、信濃国水内郡栗田村という一つの村に残る約一二〇年分の土地帳簿を詳細に分析することによって、先述したような無年季的質地請戻し慣行発動の時期的変化を明らかにした。また、同じく栗田村を対象に、村方騒動の当事者たる小前百姓たちの家がいかなる来歴をもつ家であったかを、村方騒動の五〇年以上前まで遡って追究し、それによって彼らの家が以前は村において政治的・経済的に有力な地位にあり、そうした彼らの過去に由来する矜持が村方騒動において重要な役割を果たしたことを発見した。このように、長期的なスパンでの大量の史料分析という根気と労力を要する作業を通じて多くの新事実を発掘したことも特筆しておきたい。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより残された課題がないわけではない。
 その一つは、地域性の問題である。本論文の対象地域は信濃国の北部と東部だが、そこにおいて見出された事例が、他の各地域にどの程度一般化できるかは今後の研究に俟つところが大きい。直上納制についても、信濃国以外にどの程度の拡がりをもつのかはいまだ未知数なのである。
 今一つは、対象時期の問題である。著者は本論文で近世中後期を対象としているが、分析の中心はおおよそ一八四〇年代までであり、それ以降の最幕末期の分析は比較的手薄になっている。よって、最幕末期の分析を充実させ、さらには近代の分析へとつなげていくことが今後の課題となろう。
 ただ、こうした課題は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、また著者もすでに自覚しているところであり、近い将来の研究において克服されていくことが充分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2020年2月12日

2020年1月8日、学位請求論文提出者・菅原 一氏の論文についての最終試験を行なった。本試験において、審査委員が、提出論文「近世中後期の百姓の土地所持意識と村落共同体の変容」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれに対しても的確に応答し、充分な説明を与えた。
よって、審査委員一同は、菅原 一氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに値するものと判断する。

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