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博士論文審査要旨

論文題目:受肉と交わり―チャールズ・テイラーの宗教論―
著者:坪光 生雄 (TSUBOKO, Ikuo)
論文審査委員:深澤英隆、菊谷和宏、平子友長、伊達聖伸

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1. 本論文の要旨
 本論文は、現代カナダを代表する哲学者とも言えるチャールズ・テイラー(1931-)の思想を、その代表作でもある『世俗の時代』(2007)を主な手がかりとして、とりわけテイラーの宗教理解を中心に据えつつ解明する試みである。テイラーの思想内容は多岐にわたり、またその影響力も極めて大きいが、とりわけ日本においてはこれまでその政治思想がもっぱら注目を浴びてきた。しかしテイラーは自身のカトリック信仰を明示し、またそうした宗教的性格はテイラー思想の理解に決して欠くことのできない要素でもある。著者はこれまで看過されがちであったこのテイラーの宗教的コミットメントを念頭におきつつ、テイラーの多面的な思想を解読する。タイトルにある「受肉と交わり」は、単なるキリスト教的表象というのみでなく、著者のテイラー読解を導く形象=概念である。これを導きの糸としつつ、著者はテイラーの宗教史論、認識論、政治論、言語論などを有機的に結びつけつつ検討するとともに、とりわけ「ポスト世俗」時代とも言われる今日の状況に照らしてテイラーの思想を位置づけ、そのアクチュアリティーを探っている。

2. 本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、著者がテイラーの思想的挑戦を正面から受けとめ、テイラーのテクストの内在的読解を貫きつつ、その徹底的解明を図った点にある。「内在的枠組み」「減算説」「排他的ヒューマニズム」等々の独創的な概念を用いつつテイラーが描き出す歴史的・哲学的ヴィジョンの批判的含意は、近代主義的枠組みにとどまりがちなこれまでの社会科学や社会思想からは、割り引いて考えられがちであった。これに対し本論文の著者は、テイラーの所説のもつ射程と深度を十分に見極め、テイラーの挑戦に真っ向から応じている。またそのためには、テイラー固有のカトリシズムに由来する世界観と人間観の解明が不可避であったが、著者はこの課題に果敢に取り組み、テイラーの多面的な思想テーマに深く浸透しているキリスト教的要素を逐一明るみに出し、テイラー思想の全体像に迫っている。今日テイラーに関わる海外の研究書は数多いが、それらと比べてもテイラーの宗教理解を中核に据えた著者の論考はほとんど類例を見ないものである。
 第二の成果は、社会学におけるもっとも重要な論争的テーマのひとつである世俗化論との関わりで、テイラー思想を位置づけた点にある。世俗化論は、近現代社会学や社会思想の中心的パラダイムであるとともに、20世紀末以降の世界の宗教状況の変化のなかでその議論が再燃しているテーマでもある。テイラーは大著『世俗の時代』などにおいて西洋近代の世俗化の成立過程を克明に描くとともに、固有の宗教理解にもとづく独自の世俗化論を提唱する。著者は今日の宗教社会学および社会・政治哲学における世俗化論および「ポスト世俗(化)」をめぐる錯綜した論争を的確に整理しつつ、テイラーの世俗(化)理解を跡づけている。テイラーの世俗(化)論は、近代の世俗主義的学問動向の批判的再検討をも促すラディカルなものであるが、著者はテイラーの宗教論の総体を背景にテイラーの世俗(化)論を検討しており、従来のテイラー理解を超えた根底的な地点から、テイラー解釈を提示していると言える。
 第三の成果は、著者が多岐にわたるテイラー思想の主題群を、テイラーの宗教理解を準拠点にしつつ広汎に、また有機的に関連づけつつ論じている点にある。カトリック神学は言うに及ばず、独自の実在論を中核とする認識論、多元主義の政治哲学、表現的な詩論・言語論、解釈学的テクスト・思想理解の方法論など、テイラーの思想は多彩な主題群をカバーするが、そのそれぞれに対し著者は、それぞれの主題に関わる他の哲学者の所説とも対置させつつ、専門的な議論を展開している。しかもそれらの主題が個々に論じられるのみでなく、相互に緊密に関係づけられている点も特筆に価する。そうしたことが可能となったのは、著者がテイラーの受肉と交わりという宗教的・哲学的ヴィジョンを根底的に把握し、それをテイラーの全体的理解の鍵としたことによると思われる。
 さて、以上のような成果が認められるものの、その一方で本論文にはいくつかの問題点も指摘できる。
 第一に、本論文はテイラーの思想に肉薄することを目指すものであることから、テイラーの思想内容に徹底的に内在しつつ論を進めている。その作業は同時に、地平融合と真理請求の解釈学的すり合わせを旨とするテイラー自身の解釈学方法論の実践的遂行でもあり、十分に意識的なものであった。とはいえ、テイラーの思想遍歴や政治的実践、あるいはケベックにおける英語話者の思想家であることなど、思想内容に外在的な諸要因もテイラー思想の理解には不可欠なはずであり、こうした諸問題についてより以上の言及があってもよかった。
 第二に、本論文が上述のようにテイラー思想の多岐にわたる主題群をひろくカバーしている点は、大きな長所であるが、しかしそれと同時に世俗(化)以外の諸テーマについては十分に論じ切れていない部分があることも否定できない。たとえば実在論をめぐる諸問題は、今日の哲学でもっとも活発に議論されているテーマであり、より広汎に論争状況を把握しつつ、テイラーの宗教的基礎づけの限界についての立ち入った指摘がなされてもよかった。
 とはいえ、もちろんこれらの諸点は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、坪光生雄氏自身も十分に自覚するところでもあり、近い将来の研究において補われ克服されていくことが十分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2020年2月12日

 2020年1月23日、学位請求論文提出者坪光生雄氏の論文について、最終試験を実施した。試験において審査委員が、提出論文「受肉と交わり—チャールズ・テイラーの宗教論—」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、坪光氏はいずれに対しても的確に応答し、充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、本論文著者が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により 一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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