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博士論文審査要旨

論文題目:ズールー・ナショナリズムと人種隔離政策―創られた「伝統」の変容・浸透・放棄の過程―
著者:上林 朋広 (KAMBAYASHI, Tomohiro)
論文審査委員:貴堂嘉之、児玉谷史朗、中野聡、上田元

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1 本論文の概要
 本論文は、20世紀前半の南アフリカ、とりわけナタール州のアフリカ人統治体制と結びついた、「伝統」の諸相——その創造・変容・浸透・放棄——の分析に力点を置きつつ、南アフリカの人種隔離体制がいかに形成され、その統治にアフリカ人エリートが組みこまれていったのか、そして最終的にその協力関係が抵抗運動において放棄されていったのかを描く。
 全体は6章構成で、第1章と第6章がナタール州と連邦全体の議論をつなぐ役割を果たし、本論文の骨格をなす。第1章では、先行研究で人種隔離政策のモデルとされ、アパルトヘイト体制を含めたその後の統治政策に多大な影響を与えたとみなされてきたシェップストンの政策を批判的に検討し、エヴァンズの「原住民」統治論などの考察から、19世紀半ばのナタール植民地統治から統治の技法が継承されたのではなく、20世紀になってから考察されるようになったことが指摘される。第6章では、人種間協調の幻想がくずれ、暴力を伴う解放運動が認知されていく過程を明らかにし、終章では、アパルトヘイト終焉から四半世紀経った、現在の南アフリカ社会が論じられる。
 第2章から第5章までは、人種隔離体制においていかにアフリカ人の「伝統」が規範的なものとして教えられ浸透していったかが考察される。具体的には、第2章では、南アフリカで受容されたアメリカ南部黒人教育(タスキーギ学院の教育)が論じられ、第3章では、郷土史家キリー・キャンベルによる史料収集に焦点があてられる。第4章では、1930年代から50年代の学校教育で用いられたズールー語の教科書を史料にして、ズールー・ナショナリズムの形成が明らかにされ、続く第5章では、ズールー部族歴史エッセイ・コンテストの検証を通じて、部族を単位とした統治という創られた伝統が浸透していく過程を描く。
2 本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、日本ではまだ歴史研究の蓄積の少ない、南アフリカにおける植民地主義の歴史を詳細に跡づけ検証した点にある。ポストコロニアリズム研究では、植民地主義の歴史的展開が捨象され、抽象的な形で議論される傾向にあるが、本論文は20世紀前半の南アフリカにおける植民地支配のあり方の変容とアフリカ人へのその浸透を丹念に描き、「植民地化すること」や「脱植民地化すること」を新たな視点から考察する視点と方法を提示している点に求めることができる。
 第二に、本論文では「創られた伝統」(レンジャー)論で提示された「伝統」の継承としての植民地支配という視点を超えて、その「伝統」がいかに正当性を認められて浸透し、あるいは拒否されたのか、そのダイナミズムを分析枠組みにおいて検証することに成功している点である。とりわけアフリカ人教育を対象とした分析は秀逸であり、アメリカ南部の黒人教育の黒人・白人双方の受容を描くなど、教育理念や思想のトランスナショナル・ヒストリーとしても興味深い指摘がなされている。
 第三に、本論文が、日本ではまだ用いられることの少ないズールー語の史料を用いて分析した点があげられる。具体的には、ナタール州の教育改革の柱であったズールー語教育とズールー文化学習を分析することで、人種隔離政策下におけるアフリカ人の民族意識の浸透過程を明らかにした。日本のアフリカ研究では、旧宗主国の言語やスワヒリ語、アラビア語などの史料分析が中心で、ズールー語史料を用いた研究は南アフリカにおいてもいまだ少数の研究があるのみである。南アフリカ留学中に渉猟したズールー語書籍や史料を用いることで、言語政策と人種隔離政策が密接不可分に結びついていたことを明らかにした点も特筆に値する。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより残された課題がないわけではない。日本ではアフリカ史研究がいまだ発展途上であり、先行研究が少ない中で、南アフリカの歴史学の最新動向を踏まえ、序章と各章冒頭に豊富な先行研究のまとめを配置したのは評価できる。ただ、論文全体としてはそのような構成にすることで、全体の統一性を欠く印象を与えてしまっている。「創られた伝統」論が各章をつなぐ役割を果たしているが、その具体的な形成・浸透・放棄の過程の分析も、各章の関係性が論じられればより説得力を増したのではないか。これらの点は、最終試験(口頭試問)のなかで著者自身が認めているところであり、本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、将来の研究において克服されていくことが充分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2020年2月12日

 2019年12月26日、学位請求論文提出者・上林朋広氏の論文についての最終試験を行なった。
 本試験において、審査委員が、提出論文「ズールー・ナショナリズムと人種隔離政策——創られた「伝統」の変容・浸透・放棄の過程」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、上林氏はいずれも充分な説明を与えた。よって、審査委員一同は、上林朋広氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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