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博士論文審査要旨

論文題目:1945年マニラ戦スペイン総領事館襲撃事件を生きのびて―6歳スペイン少女のライフストーリー
著者:荒沢 千賀子 (ARASAWA, Chikako)
論文審査委員:宮地尚子、中野 聡、赤嶺 淳、貴堂嘉之

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1. 本論文の概要
 本論文は、アジア太平洋戦争・マニラ戦(1945年2月)の中で日本軍によって在マニラ・スペイン総領事館が襲撃された事件における唯一の生存者、アナ・アギレリャ=リョンクさん(以下、対象者)のライフストーリーを描く試みである。事件によって記憶を無くした対象者がいかに生きてきたのかを聞き取り、日本とスペイン間の戦後の賠償・国交回復などの政治過程の考察、対象者と筆者の関係の変化などを多層的に重ね、日本による戦争被害者の歴史経験に向き合う姿勢、方法などを考えるものである。

2. 本論文の成果と問題点
 本論文の成果は以下のとおりである。
 第一に、対象者のライフストーリーと戦時賠償交渉などに関する外交文書、そして聞き手である「わたし(筆者)」の研究動機や対象者との信頼関係の構築過程などを重ね合わせたオリジナルの枠組みでの叙述を、一篇の研究として完成させたことである。このような実験的な手法は、歴史学研究の方法革新を唱えるイヴァン・シャブロンカの問題提起(真野倫平訳『歴史は現代文学である』名古屋大学出版会、2018年)を彷彿とさせるものがあり、それに取り組んだ意欲は高く評価できる。
 第二に、戦争被害者の研究としての意義である。トラウマを抱えた生存者が高齢を迎えてその体験・経験を個人的・集合的に発話しはじめ、それを聞き取る研究が近年盛んになっている。その中で、加害国側の研究者が被害者と出会い、聞き取る過程で関係が変化していくという研究もあり、その流れに位置付けることもできる。筆者は、対象者と長期にわたって関わる中で、こころの深いところで交流を進め、普通では聞き取ることのできないようなその後の人生について、聞き取りを行なっている。トラウマに関する研究は、出来事とその被害に焦点が当たりやすいが、被害当事者がその後の長い人生をいかに生きてきたかを記録したこと、また、それを対象者とシリュルニックのレジリエンス論との出会いをベースに考察したことも、評価したい。さらにそれは、筆者本人が歴史教育に関わっていることから、生徒にいかに歴史に関心を持たせるかという課題の実践ともなっている。
 第三に、日本の歴史研究では未開拓領域であったマニラ戦の犠牲者の研究、日本・スペイン戦時賠償外交交渉研究としての意義がある。とくに後者に関して、日本語やスペイン語の外交文書を新たに発掘し、翻訳、整理した労力も高く評価できる。
 第四に、本論文が地球規模の問題群をとらえており、学際的なアプローチを志向している点である。問題の渦中に生きる人々の声に耳を傾け、従来の社会科学の分野を越境し、課題解決の方途を模索しようとする地球社会研究専攻の博士論文として、ライフストーリー(歴史学)、心理学、精神医学、歴史教育学、国際政治学、戦争研究など多様な分野にわたった研究であるだけでなく、スタイル(構成)や叙述(文体)など表現についてもチャレンジングな姿勢が評価に値する。また、言語について、スペイン語で行ったインタビューを的確な日本語に置き換える作業も、並大抵の労力とは思えず、その作業も評価したい。

 以上のような成果を得ているものの、本論文にはいくつかの問題点が挙げられる。
 第一に、「わたし」(筆者)を入れる記述は、長期の深い相互交流の中で聞き取りができた事実などがわかったのだが、思い入れが強すぎるところもある。もう一度、対象者と筆者の関係を突き放して見つめ、相対化できると良かったのではないか。
これは、本論文の結論として最終的に何を主張しているのかが、少し読み取りにくいこととも関連している。筆者からは研究課題として、対象者が戦災のトラウマからいかに生を切り拓いていったか、その対象者との対面は歴史教育に携わってきた「わたし」(著者)にとって歴史実践としてどのような意味をもっていたか、という二点が挙げられていた。だが、そうした課題に対する著者なりの答えの提示は不十分である。それは今後、本論文を出版などしていく際に、筆者が本の読者に期待していくことでもあるため、深めておくべきである。
 第二に、学際的な手法をとったことの一方、ライフストーリーと外交史などでそれぞれ異なる叙述方法の関係づけが不足しており、全体的な叙述スタイルに統一性を欠く点である。研究目的やオリジナルな実験的手法を読者にも説得力をもって提示するためには、とくに叙述の歴史的背景に関して、より豊かな情報が提供されるべきであった。とりわけ、スペインやバルセロナに精通していない読者に対して、本論文の主要テーマである「被調査者がバルセロナに生きてきた意義」が十分に伝わるように工夫されていたとは思えない。論文の目的を達するための、地図などテキスト以外の工夫がさらに求められる。
 第三に、本論文が、日本とスペインの議論に終始している点である。本論文の射程外であることは理解できるが、日本とスペインの戦後の賠償交渉を、他国との交渉と比較したり、サンフランシスコ講和条約など日本の国際社会への復帰の過程に位置付けるなど、本論文の扱っている出来事をより大きな歴史的文脈に位置づけることも可能であった。また、本論文の舞台のひとつでもあるフィリピンについては言及が少ない。対象者とその家族がフィリピンに滞在していた背景には、当時フィリピンがスペインの中で疎開先とみなされていたこと、対象者の父がタバコ産業で働いていたこと、タバコはスペインが新大陸からフィリピンに持ち込んだもので、砂糖とならび重要な産品であったことなどがある。スペインによるタバコ産業について掘り下げることによって、対象者の個人史に関しても、スペイン・フィリピン関係史についても、別の視座から議論を展開することもできたであろう。手持ちの史料から十分に分析可能と思うので、今後の深化に期待したい。
とはいえ、これらの問題点は本論文の学術的価値をいささかも損なうものではないし、筆者自身が、その問題点を明確に自覚し、今後の課題としているところである。筆者の研究のさらなる進展に期待したい。

最終試験の結果の要旨

2020年3月11日

 2020年2月3日、学位請求論文提出者・荒沢千賀子氏の論文について最終試験を行なった。本試験において、審査委員が、提出論文「1945年マニラ戦スペイン総領事館襲撃事件を生きのびて 6歳スペイン少女のライフストーリー」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、荒沢千賀子氏が一橋大学学位規則第 5 条第1項の規定 により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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