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博士論文審査要旨

論文題目:近世都市下層社会の形成と雇傭労働の展開
著者:市川 寛明 (ICHIKAWA, Hiroaki)
論文審査委員:渡辺尚志、田崎宣義、町村敬志、若尾政希

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【本論文の構成】

 本論文は、日本近世の武家奉公人についての研究である。武家奉公人とは、足軽・中間など、武士に仕えて、大名行列の際に槍や荷物を運んだり、城や江戸屋敷における諸雑用をこなしたりする、武士身分の最末端に位置する者たちのことである。

 本論文の構成は、以下の通りである。

 第一章
  第一節 研究史の整理と課題の設定
  第二節 研究視角

 第一編 武家奉公人の出替化と都市下層社会の形成
 第二章 武家奉公人における「譜代制」の変質過程
  第一節 研究史の整理と課題の設定
  第二節 近世前期における家中奉公人の譜代的性格
  第三節 「出替奉公人の論理」の展開
  第四節 章 括
 第三章 寛文期における武家奉公人確保政策の展開
  第一節 方法としての政策~経済的確保政策の意義~
  第二節 固定的給米公定政策の登場
  第三節 固定的給米公定政策の破綻
  第四節 変動的給米公定政策の登場
 第四章 近世前期における下層社会の流動性について
  第一節 近世前期における「下層社会的生存条件」
  第二節 サイクル型と放浪型
  第三節 流動の広域性
  第四節 移動の媒介
  第五節 『日用』の生業形態
  第六節 章括と展望
 第五章 都市下層社会の形成と家族の成立
  第一節 寛文期における都市下層社会
  第二節 都市下層社会における小家族の成立

 第二編 人宿経営の生成と展開~米屋久右衛門家文書を例として~
 第六章 米屋久右衛門家の歴史
  第一節 創業期の経営形態と出入関係
  第二節 二代目久右衛門
  第三節 家訓にみる経営理念
  第四節 章 括
 第七章 米屋の家業構成
  第一節 「諸家公諸御用帳歳々記」
  第二節 長期的推移
  第三節 「家別請負」
  第四節 非「家別請負」
  第五節 幕末維新期における家業構成
  第六節 章 括
 第八章 参 交代の分析
  第一節 安政六年桑名藩の江戸参府
  第二節 参府行列の過程
  第三節 客観的に積算された収入
  第四節 利益構造
  第五節 章 括
 第九章 門番の分析~江戸城本丸大手門番の事例から~
  第一節 江戸城本丸大手門の勤役
  第二節 勤役形態
  第三節 収支構造
  第四節 高率収益のシステム
  第五節 章 括

 終章 「近世都市下層社会の形成と雇傭労働の展開」結論
  第一節 総 括
  第二節 搾取はなぜおきるのか

【本論文の概要】

 第一章では、従来の研究史を批判しつつ、次の二点の課題が設定される。第一は、一七世紀(江戸時代前期)における武家奉公人の存在形態の変化を解明することであり、第二は、一八世紀以降において大名に奉公人を斡旋した人材派遣業者である人宿の経営分析を通じて、大名・人宿・奉公人三者の関係のあり方を探ることである。

 第一編では、一七世紀の岡山藩を事例に、武家奉公人の存在形態の変化と、城下町における下層社会の内実を解明しようとしている。

 第二章では、一七世紀において、武家奉公人の存在形態に次のような大きな変化がみられたことが論証されている。一六世紀から一七世紀初期においては、武家奉公人は一生主人に仕えるのが原則で(譜代制)、年季を限って奉公する場合でも、主人と奉公人との間には強固な人格的支配従属関係が存在していた。それが、一七世紀の間に、次第に年季を限っての奉公が主流となり、それにともない、主人と奉公人との関係は経済的な契約関係へと変化していく(出替制)。その結果、奉公人は主人に一命を捧げるような存在ではなくなり、いやな仕事はやらないといった自己主張を行うようになった。筆者は、この変化を譜代制から出替制への移行であると評価し、移行の画期は寛文期(1660~70年代)であるとする。

 第三章では、寛文期の岡山藩における武家奉公人確保政策が検討されている。第一章でみたように、寛文期は譜代制から出替制への移行の画期であり、出替制においては奉公人が一定の年季で交替するため、藩として何らかの奉公人確保政策を実施しないと、家臣の中に必要な奉公人を確保できない者が発生したり、奉公人の給米が高騰したりしてしまうのであった。はじめ岡山藩は、奉公人の給米を一定額に固定することで高騰を防ごうとしたが(固定的給米公定政策)、この方法は現実に日々変動する米相場との間に乖離が生じてうまく機能しなかったため、その年の年貢率(すなわち家臣の収入)に比例して給米を増減するという変動的給米公定政策に転換した。このいずれの政策も、給米のコントロールによって奉公人を確保しようとする経済政策であって、こうした政策の採用は、武士(大名の家臣)と武家奉公人との関係が物化しつつあったことの現れであり、寛文期が出替制への移行の画期であったことの証明でもあると評価される。

 第四章では、武家奉公人の供給源であった都市・農村の下層民に焦点を当てて、一切の生産手段の所有から疎外された一個の人間が都市下層社会において生存しうる条件(「下層社会的生存条件」)とその変化を考察している。そして、一七世紀後半には、藩の領域を越えて広域的に移動する下層民の存在が確認できることから、当該期に「下層社会的生存条件」が不安定ながらも形成されていたとする。しかも、小商い(小規模の商業)や日用(日雇い)によって生計を維持することが可能になってきたことと、下層民に武家奉公の口を斡旋する人宿が成立しつつあったことにより、「下層社会的生存条件」は次第に安定化していったと主張する。

 第五章では、寛文期の岡山城下における都市下層社会のありようが、下層民の婚姻形態を中心に検討される。当時の岡山城下における借屋数の増加は、都市下層社会が形成されはじめていたことの現れである。当時、下層民は武家奉公人から小商いや日用へと転業する傾向にあり、武家奉公人は払底していた。転業した下層民は、城下の町人居住地の、表通りに面していない裏手の長屋を借りて住む「裏店層」を形成した。また、武家奉公人は、婚姻形態からみると、独身か「夜這婚」(別居婚)であるのに対して、裏店層は、相互の合意に基づいて結婚し(「相対」婚)、同居小家族を形成していた。そこから筆者は、下層民内部における武家奉公人から裏店層への比重の移動は、夜這婚から相対による同居婚へという婚姻形態の変化を随伴しており、寛文期は都市下層社会における家族の成立という意味でも画期的な時期であったと述べる。

 第二編では、近世中後期に江戸において人宿を営んだ米屋久右衛門家の経営分析から、大名・人宿・武家奉公人三者の関係のありようを明らかにし、近世における雇傭労働の特質に迫ろうとしている。

 第六章では、草創期以来の米屋の家の歴史を概観している。初代米屋久右衛門は丹後国(現京都府)に生まれ、一七世紀後半に丹後田辺藩出入りの米商人として家業の基礎を築いた。二代久右衛門の代には人宿を主要な家業とするようになり、一八世紀前半に次々と新たな大名家に出入りするようになった。二代久右衛門が新規に出入り先を開拓できたのは、その人間的魅力と学問的教養とによって、藩主との間に人格的信頼関係を構築しえたからであったとする。

 第七章では、幕末期における米屋の家業の全体像が、分厚い経営帳簿の詳細な分析によって明らかにされる。米屋の家業は、1)奉公人差配、2)賄、3)借屋経営、4)醤油販売、に大別できる。1)奉公人差配とは、米屋のもとに寄留する寄子を管理して、大名の求めに応じて寄子を武家奉公人として派遣することによって、大名から報酬を受け取るものである。武家奉公人の主な仕事は、江戸における諸種の労働と、参勤交代時の運搬労働とであった。米屋は、特定の大名と出入り関係を結んで恒常的に仕事を確保していた。2)賄とは、大名の家臣や、米屋が派遣した奉公人に、勤務中の食事を提供するものである。そして、経営全体の中では、1)が圧倒的比重を占めていたという。

 第八章では、安政六年(1859)の桑名藩江戸参府を事例に、米屋の参勤交代業務請負の実態が解明される。米屋は、桑名の商人米屋覚左衛門と共同で業務を請け負い、利益を折半した。大名と米屋との契約は、あらかじめ業務内容ごとに一人一日いくらというかたちで人件費単価を定め、参勤交代終了後、米屋が人件費単価に人数や日数を乗じて金額を確定し、大名に請求するというものであった(単価契約方式)。大名と米屋との契約における人件費単価と、米屋が実際に寄子に支払う人件費単価との間にはかなりの差があり(後者の方が安い)、また大名との契約人数と実働人数との間にも開きがあったため(後者が少ない)、米屋は一回の参勤交代請負によって莫大な収益をあげることができたとする。

 第九章では、参勤交代と並んで奉公人差配の主要内容のひとつである、江戸における諸種の労働について検討される。事例としては、安政四年(1857)における桑名藩からの江戸城本丸大手門番の請負が取り上げられている。江戸における諸種の労働の中核には、大名が幕府から命じられた江戸城各門の門番の仕事があった。米屋は、自らの寄子を足軽・中間などの武家奉公人として桑名藩に派遣し、門番業務に従事させることによって、半年間で五五四両余という多額の純益をあげることができた。高収益の原因は、桑名藩から米屋への支払い代金と米屋から寄子への支払い代金とに大きな格差があったことに求められる。米屋の寄子への支払いは、客観的に数量化された労働の対価というよりも、従属者に対して恩恵的に下賜する褒美という性格が強く、したがって低額に抑えられる傾向があったのであり、こうした構造は参勤交代の場合と基本的に共通であったとされる。

 終章では、それまでの行論を要約し、とりわけ人宿が寄子を搾取するメカニズムについて理論的な整理がなされている。大名と米屋との間においては、一見人件費単価設定に基づく客観的な契約関係が取り結ばれていたようにみえるが、その実、大名は雇った寄子を使って武士の体面を飾ることしか考えておらず、体面を飾るという点で主観的満足が得られさえすれば、米屋の請求通りに高額の対価を支払った。一方、米屋と寄子との間には人格的な支配従属関係が存在し、米屋の寄子への支払いが低く抑えられたため、そこに米屋の莫大な中間搾取が実現したのであると主張されている。

【本論文の成果と問題点】

 本論文の成果は、以下の通りである。

 第一に、第一編において、従来ほとんど手つかずであった一七世紀における武家奉公人と都市下層社会の実態を解明したことがあげられる。寛文期における「譜代制」から「出替制」への武家奉公人の性格変化、「下層社会的生存条件」の形成、都市下層民における家族の成立、といった諸論点は、いずれも筆者によってはじめて本格的に提起されたものである。

 第二に、第二編において、近世中後期における江戸の人宿の経営を詳細に分析した点があげられる。近世中後期の武家奉公人を考えるに際しては、武士・人宿・奉公人三者の相互関係を分析する必要があるが、従来の研究は、このうちのいずれか二者の分析にとどまっていた。人宿の経営史料を初めて丹念に分析して、三者の関係をトータルに明らかにし、人宿の寄子搾取のメカニズムにメスを入れた点は筆者の大きな貢献である。

 第三。筆者は、第一編では、関連史料の絶対的な少なさを補うために、藩の法令から思想家の言説までを幅広く渉猟して論理を組み立て、第二編では、逆に厖大な経営帳簿の記載内容を明快に整理して、そこから人宿経営の特質を抽出している。第一、二編それぞれにおいて、課題の解明に最適の史料と方法とが選択されているといえる。このように、各編で対照的な方法を用いていずれも重要な成果を上げている点は、筆者のすぐれた研究力量を示していよう。

 以上を総合して、本論文は、近世の都市下層社会と雇傭労働の実態と変容過程について新たに重要な知見を付け加えたものと評価できる。

 しかし、本論文には次のような問題点があることも指摘しておきたい。

 第一に、第一編では寛文期を武家奉公人の性格変化の画期としているが、それに先立つ一七世紀前期の実態が、史料的制約によって十分明らかにされていないために、寛文期の画期性が今一つ説得的に論証されていない。

 第二に、第二編の人宿の経営分析において、人宿が仕事のない寄子を給養するための経費や人宿の生活費が問題とされていないため、人宿の寄子搾取の量と質がどのようなものであったのかが最終的に確定しきれていない。ただ、これも史料的制約によってやむを得ないところだとはいえよう。

 第三に、第一編が近世前期岡山の家中奉公人(大名家臣に仕える奉公人)、第二編が近世中後期江戸の大名直属奉公人と、各編の分析対象や時期が微妙にずれているため、論文全体を貫く一貫した論理がやや見えにくくなっている。ただ、この点は成果の第三と裏腹の関係にあり、各編においてそれぞれ最適の対象・方法を選択した結果生じたものであって、やむを得ない面もあろう。

 以上のような問題点にもかかわらず、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに充分な成果を上げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するにふさわしい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2000年6月30日

 2000年6月23日、学位請求論文提出者市川寛明氏についての最終試験を行った。
 本試験においては、審査委員が提出論文『近世都市下層社会の形成と雇傭労働の展開』に関する疑問点について逐一説明を求め、あわせて関連分野についても説明を求めたのに対し、市川寛明氏はいずれも十分な説明を行った。
 よって、審査委員一同は市川寛明氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定し、合格と判断した。

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