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博士論文審査要旨

論文題目:精神医療実践の社会学的記述―エスノメソドロジーからのアプローチ―
著者:河村 裕樹 (KAWAMURA, Yuki)
論文審査委員:小林 多寿子、町村 敬志、安川 一、前田 泰樹

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1.本論文の要旨
 本論文は、これまでの精神医療や精神疾患におけるさまざまな問題に対してとくに社会学的研究の展開を志して、現代日本における精神医療の実態をもとに精神医療に関わる参与者の志向に即して社会学的に実践を記述する試みに取り組んだ研究成果であり、長期にわたるフィールドワークにもとづき、多様なデータをもちいて研究をすすめるエスノメソドロジーである。
 本論は、(1)理論的学説史的検討と(2)フィールドワークによるフィールドノートにもとづく分析と考察という、大きく二つの部から構成されている。(1)の理論的学説史的検討では、精神医療の展開過程と社会学的な理論的研究視点の推移、それらの諸問題の検討をおこない、精神医療における拘禁から薬物療法へという転換のなかでのラディカルな反精神医学の思想やラベリング論からナラティヴ・アプローチ、2000年代以降の当事者研究へという研究の展開をあとづけ、今日の精神医療研究が抱える諸問題をあきらかにした。そのうえでエスノメソドロジーのなかに精神医療実践の研究を新たに基礎づけていく可能性をみいだし、エスノメソドロジーによる精神医療実践の研究の前提となる視座を整えている。
 (2)のフィールドワークにもとづく分析では、足掛け5年近くにわたりおこなった二つの医療機関での調査のフィールド・データにもとづいて、デイケアの一日の記述によってデイケアという場の秩序の成立をあきらかにし、デイケアでの参与者のカテゴリー化実践を描きだした。また診療場面での会話分析により医師と患者の非対称性をめぐる問題をみいだし、さらに精神疾患患者へのインタビュー分析をとおして疾患カテゴリーや規範の取り込みのなかに専門知と日常知の関係性をとらえている。
 長期にわたる精神医療実践をめぐる調査研究を遂行するなかで、フィールドワークによるフィールドノートにもとづく分析に加え、インタビューの相互行為的分析、診療場面の会話分析など、さまざまなデータを、それぞれの分析に必要な議論をフォローし、それぞれの資料に必要な精度で、かつ一貫した方法論的態度で分析しており、新たな貢献をなしえている。本論文は、精神医療の実践に参加する参与者が実際に直面する問いから問い自体を引き受け、参与者の志向にもとづきながら、その実践を記述した研究として、十分に意義のある研究成果に到達していると評価される。

2.本論文の成果と問題点
 本論文の成果としてつぎの三つの点をあげることができる。
第一の成果は、現代日本における精神医療の実際を長期にわたるフィールドワークにもとづき、多様なデータをもちいて研究をすすめたエスノメソドロジーであることにある。とくにデイケア活動の場の記述、診療場面における医師と患者の会話分析、患者とおこなったインタビュー分析による疾患認識をとらえた点から、精神医療をめぐる状況におけるエスノメソドロジー・会話分析の意義を示すことに成功している。具体的な医療現場での実践活動をもとにした分析により、実践の場における秩序形成やカテゴリー化実践、診療場面での医師と患者の非対称性、精神疾患概念の日常的取り込みによる当事者の疾患理解の実際等をあきらかにできたことは長期の調査活動の大きな成果として特筆される。
 第二の成果は、精神医療研究への社会学的貢献である。とりわけ医療社会学における精神医療をめぐる理論的議論の展開過程を跡づけ、エスノメソドロジー・会話分析の意義を示した点にある。本題に関わる社会学的研究の系譜をラベリング論からはじまり、構築主義を経て、2000年代に入って当事者研究に結びつく流れとしておさえ、そのうえで、シェフの批判的ラベリング論やベッカーの逸脱行動論への批判から構築主義へ向かいながらもそこに孕まれる問題をあきらかにした。トラブルの自然史や社会問題のワーク論を精査し、ドロシー・スミスやリンチの研究を検討することで「参与者の実践に即した記述」をめざすエスノメソドロジーの意義をあきらかにしている。近年、保険医療社会学においてエスノメソドロジー・会話分析研究は、確立された方法論にもとづくものとして一定の位置を示すものとなっているが、本研究はその研究群のなかに新たな知見を積み上げるものとなっており、とくに精神医療実践における分析成果という点において意義あるものとして評価される。
第三の成果は、精神医療の現代的課題への貢献である。現代の精神医療が「施設から地域へ」という医療政策のもと病棟内から地域へと移行過程にある転換点をむかえているなかで、本研究は、実際に精神科クリニックと病床を持つ精神科病院とのフィールドワークを通じて、診療場面だけでなくデイケア活動の実態もまたあきらかにした。デイケア・システムを病院と地域との中間に再定義し、その実態と役割を丹念な経験的調査を通じて顕在化させた本研究は、今後の研究展開と社会学的議論の起点となるものと評価できる。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、残された課題がないわけではない。以下に二つの点をあげたい。
 第一は、医療社会学における批判への対応と乗り越える方途の課題である。精神医療研究への社会学的貢献をめざして1960年代からの先行研究をていねいに吟味し、臨床と理論の両方の側面での成果と問題をあきらかにしてきた点は高く評価されるものの、そうした作業の結果として本研究が採用したエスノメソドロジー的精神医療研究に対する批判への対応には非生産的なところがある。すなわち、医療社会学においては、エスノメソドロジー的研究において一時期、精神医療実践が権力作用の現れに集約/還元して論じられていたことが批判されたのであるが、本論文には、四半世紀前のこのような批判に対する対応に拘泥しすぎたところがあり、そうした批判自体への批判的・否定的考察を十分に展開できないでいる。その一方で、本論文自体もまた精神医療実践が権力作用の現われか否かという議論に力を注ぎすぎたところがあったといえる。本論文は、多彩なフィールド・データを用いた精神医療実践の社会学的記述という主題に即した分析・考察作業の展開とさらなる展開可能性への開示に価値をもつものであり、権力作用をめぐる問題を視野に残しておくにしても、そのような価値を自覚した議論展開がさらになされたなら一層生産的であっただろう。
 第二は、エスノメソドロジー研究のジレンマの問題である。本研究は,フィールドワークを重視するエスノメソドロジー研究として豊かな社会学的記述に成功しているのであるが、その一方で一般化をめざさないというエスノメソドロジーの立場を堅持することによって地域と時代に限定された本調査データを超えた精神医療をめぐる医療社会学における一般化への議論にいかに応じるのかということが課題として指摘されうる。この点は、エスノメソドロジー的視座の徹底化を図ることで直面する一般化圧力との相克というジレンマであり、筆者自身が今後の課題としても述べている。本論文では、エスノメソドロジー研究が場に埋め込まれた経験の固有性をとらえる方針をもつという立場は十全に活かされて、実践の記述で得られた知見の有効性が評価されるので、精神医療の多様性に対していかに取り組んでいくのか、エスノメソドロジーの視座と方法をより徹底させながらいかにこのジレンマを乗り越えていくか今後のさらなる課題となるであろう。
 これらの点は、本論文でもっとも評価される綿密なフィールドワークにもとづいた豊かな調査データを存分に活かすためにもなお一層の検討が期待されるところである。ただ、これらの点は、本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、筆者自身も重々自覚しており、今後のさらなる研究において克服されていくことが十分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2019年2月13日

 2019年1月24日、学位請求論文提出者・河村裕樹氏の論文についての最終試験をおこなった。
 本試験において、審査委員が、提出論文「精神医療実践の社会学的記述―エスノメソドロジーからのアプローチ―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、河村裕樹氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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