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博士論文審査要旨

論文題目:アメリカにおける難民の保護とセクシュアリティ―性的マイノリティの難民と庇護希望者の包摂と排除―
著者:工藤 晴子 (KUDO, Haruko)
論文審査委員:小井土彰宏、小林多寿子、森千香子、伊藤るり

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1.論文概要
 本論文は、強制移動研究とクィア移住研究の二つの視角から、アメリカ合衆国における難民及び庇護申請者の審査受入れ政策において性的マイノリティが、いかに包摂されまた排除されるかに関して、政策の歴史的展開を検討したうえで、2008年-12年に西海岸のベイエリア地域と東海岸のニューヨーク地域においてマイノリティ当事者から聞き取りを行い、彼/彼女らの視点からこの政策がいかなる作用を持つかを分析したものである。近年展開してきたクィア・スタディーズの視点、また法学の視点からのS. Katyalのセクシュアリティ理論を参照しつつ、これらマイノリティが体験する支配的な性的マイノリティの把握の在り方との葛藤の中で、自己規定がたえず再編されることを動態的に分析した。アメリカ合衆国の移民・難民政策は、21世紀に入り厳格化し、国境を通過する人をますます細分化し、分類classifyすることで管理し、「望ましくない」対象を排除する政策を強めているが、本論文は難民審査や庇護権申請という具体的政策プロセスの中で、このようなヘゲモニックな分類規定とそのような定義を拒み、そこからはみ出し続けるクィアな主体の間の葛藤の動態を活写した。単なる記述的な記録、法制度的な分析、人権論的な思弁を超えた、生きられた主体により体験された難民・庇護権政策の本格的分析であり、この新たな分野の先駆的な研究となるものと評価しうる。

2.論文の成果と問題点
 本論文の重要な成果は、以下の5点にまとめることができる。
 第1に、本研究は、日本における難民・庇護研究の多くが、内外の紛争、民族/人種差別、大規模な自然災害等に起因する強いられた集合的移動に焦点を当ててきたのに対して、性的マイノリティへの抑圧に起因する移動とその受入国での排除と包摂という視点を本格的に導入した点で、日本における新たな難民・庇護申請者研究の展開に貢献をしたということができる。だが、本研究は、それに留まらず、法学者Katyalが明らかにしてきたセクシュアリティ理解における「置換モデル(substitutive model)」を参照し、ホモセクシュアリティが2000年代初頭アメリカで「公的で普遍的なアイデンティティ」として捉えられるようになったという知見を取り入れることで、研究視角自体の革新に寄与している。即ち、性的マイノリティに対して「寛容な先進リベラル社会」として自己表象するアメリカ社会において、性的アイデンティティ・性的指向・性的行為の3つの要素が置換可能な人格としての(ホモ)セクシュアル・アイデンティティという見方が支配的になったことを批判的に捉え、多様な文化圏の「性規範の逸脱者」として移住してきた人々の間に存在する大きなズレを認識し、どこまでも世界の各地から到来するクィアな存在が持つ捉えがたい多様性を意識し続けることを要求している点に独自性がある。
 第2に、本研究は、一方でアメリカ合衆国の難民認定・庇護申請システムを法的制度としてそれ自体を十分に把握したうえで、法学的・制度論的な分析を超えて、質的調査法、特にライフ・ストーリー分析に基づく調査技法により、このような政策の直接の対象である強制移動体験者に聞き取り調査を行うことで、その生の声を拾い上げて、そのナラティブを内在的に理解し、再構成することで、難民・庇護申請者が体験した司法的・行政的施策を生きられた経験としてヴィヴィッドに描き出すことに成功したと評価できる。このような方法をとることにより、性的マイノリティで強制移動をした人々が、難民審査・庇護権申請のプロセスを通じてマジョリティ社会が性的マイノリティに対して持つ固定観念との間の差異に苦しむ体験を描き出した。また、差別・抑圧と被害の体験を自ら立証せねばならないという困難な重荷を他の難民以上に抱えている性的マイノリティが、ヘゲモニック的な性的マイノリティ・イメージの中で、それに対応して自らの体験を首尾一貫した物語へと構成していく長い努力の過程(支援者の協力を得ながら、時に1年にも及ぶという)の中で、自己認識自体を徐々に変容させ成長させていくストーリーを聞き出すことに成功した。これらの調査による発見とその分析は、まさに1で示したクィア研究に基づく性的マイノリティの多様性と個々人の動態的な自己規定という研究視点のもつ研究上の強みが最大限に生かされた成果と言いうるだろう。
 第3に、このような方法論に基づいた調査を、アメリカ合衆国の中でもニューヨーク州ニューヨーク市周辺とサンフランシスコ市を中心とするカリフォルニア州ベイエリア地域で実施することで、片やニューヨークでは多様なロシア・東欧、アジアからカリブ地域に至る多様な諸国出身者を対象とし(33人)、一方サンフランシスコではメキシコ系を中心とする人々をサンプルとして集めることに成功した(23人)。この地域的なコンテキストを異にし、かつサンプルとしての出身地域を異にするだけでなく、その多様性においても対照的な調査地点を設定したことにより、単一の出身国、集団だけを対象とした研究に比べて合衆国に難民・庇護申請者として到来してきた人々の多様性と受入れ地域の文脈特性を把握することに成功している。そして、何よりこのような傷つきやすいvulnerable人々に対してこのような数と深さの聞き取りに成功したことは、調査者としての問題意識の鮮明さ、弱者への共感、そして調査対象との信頼構築の慎重な努力があったといえ、これらも高い評価に値すると考える。
 第4に、アメリカにおける移民難民の歴史社会学的な研究として、入国管理におけるセクシュアリティの問題を独自の観点で検討したことにある。このことは、国際的な人権論においてしばしば性的マイノリティに対して寛容な開かれた社会として自己表象を見せる合衆国が、実は19世紀以来の歴史的な規制の実態を見た場合、20世紀、それも1960年代に至るまで差別的な概念でこれらの人々に対処してきたこと、これらの差別的な法概念が、実は現在に至るまで完全にはなくならず、特にキューバからの「マリエル・ボートリフト」といわれるカストロ政権にレイベリングされて排除された人々や、ハイチからをはじめとするHIV陽性者に対する差別的な処遇やナラティブの中に生き続けてきたことを、歴史的資料を検討しつつ明らかにした。このような長期的・歴史的な検討を行ったこと自体に学問的意義があるが、同時にそのことによって性的被抑圧者の擁護者であり「人権先進国としてのアメリカ合衆国」という視点を相対化し、先に述べたナラティブ分析、ライフ・ストーリー分析の中に析出されている傷ついた主体たちとアメリカの難民認定・庇護申請などにおける支配的な眼差しとの葛藤を抉り出すことを可能とする独自の視座を基礎づけることになったと評価しうる。
 第5に、難民レジームと一括して論じられることも多い、一時避難国経由の「第三国定住難民」と直接国境の通過や国内において保護を申請する「庇護権希望者」を明確にレジームとして分けて、アメリカ合衆国において歴史的に一貫して前者が非常に大きな比重を占めることを示したうえで、前者が受入国アメリカとしては相対的に選別しやすいものであり、後者は直接本土に接触するものであることによって、管理の困難なものであることを指摘する。そのうえで、LGBTに対する国際的な人権外交を唱道する合衆国としては前者における性的マイノリティ保護は強調されながらも、実はメキシコ国境越えや国内にいる庇護権希望者に関してはこれを対内的な脅威としてその配慮の対象とはしない、という著しい対照を見せていることを示し、2つのレジームが境界管理における対照的な機能を持ちうる点を明らかにした点も重要な貢献といえよう。
 以上の諸点から、工藤氏の学位請求論文が、その理論的な革新性、調査方法の適切性とデータ分析における繊細さ、調査における適切なデザインとその慎重な実施、そして歴史的な視点と現代的視点の創造的な結合、の諸点により国際社会学領域に貴重で独創的な貢献をなしたと評価しうる。
 一方、以下のような問題点や今後の課題も指摘しうる。
 第1に、第三国定住と庇護申請・難民認定という難民政策の2つの位相が、性的マイノリティの人々の保護という点でどのような相互関係にあるか、どのような違いをもたらすのかが庇護申請・難民認定の位相でのナラティブ分析で明らかとなったが、同様の手法による分析を第三国定住の位相においても行うことで、2つの位相の関係をより精密かつ総合的につかむことができるであろう。
 第2に、セキュリタイゼーションsecuritizationという近年移民・難民研究で重視されている概念に関して、その難民認定・庇護権請求プロセスへの影響を検討していることは意義があるが、その際securityの含意の変容を、1)冷戦の影響の強い時期、2)冷戦後、3)2001年以降で慎重に分けて語るべきであっただろう。時として国内治安という含意と干渉しあっているが、それが2001年以降では確かに相互浸透もあるが、必ずしも自覚的に相互関係の変動がとらえられているとは言えない。
 第3に、ニューヨーク地区とベイエリア地区における対象者のナラティブには差異が見受けられるが、その理由についての考察はいまだ不十分であり、メキシコ系が大多数を占めるベイエリアにおける非正規性を重視していると推察される。しかし、メキシコ系の越境者一般に投げかけられる社会的なステレオタイプは、単なる非正規性だけではなく、19世紀以来の米墨関係の中で形成されてきた人種主義的に構築された多層的なイメージ、すなわち暴力性、男性優位、犯罪性、など多様なものが歴史的に結びついて構築されたものであり、国境管理・入国管理当局もこれをむしろ再生産してきたものであることに関してより慎重に検討すべきであったと思われる。
 以上、主な問題点を記したが、これらについては口述試験の質疑応答において、筆者自身の見解が説明され、今後の課題としても認識が得られた。近い将来の研究においてこれらが克服されていくものと十分に期待できる。また、これらの課題にもかかわらず、本論文が達成した成果を損なうものではない。

最終試験の結果の要旨

2019年3月13日

 2019年1月18日、学位請求論文提出者、工藤晴子氏の論文について最終試験を行った。
 本試験において、審査委員が提出論文「アメリカにおける難民の保護とセクシュアリティ─―性的マイノリティの難民と庇護希望者の包摂と排除」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、工藤晴子氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、工藤晴子氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により、一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定する。

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