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博士論文審査要旨

論文題目:労働争議に関する中国工会の立場と役割:改革開放期の外資企業を中心に
著者:高 玲娜 (GAO, Ling Na)
論文審査委員:林大樹、依光正哲、濱谷正晴、三谷孝

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I.論文の構成

 本論文は、改革開放政策下、経済の市場化と外資系企業の急増に伴い、労働関係の社会摩擦が急増している中国において、労働関係の紛争の防止や解決への関与が期待されている工会がそうした期待に応えるに至っていない原因を究明している。

 本論文の構成は以下の通りである。

 第一章 改革開放期の労働争議の多発状況
  第1節 労働争議の多発状況の概観
  第2節 労働争議内容とそのプロセス
 第二章 外資系企業の労働争議の多発原因
  第1節 労働争議の多発原因の整理
  第2節 労働争議を多発させた主な直接原因
  第3節 労働争議を多発させた主な環境原因
  第4節 労働争議を多発させた主な間接原因
 第三章 労働争議への対応と工会の立場・役割
  第1節 労働争議処理制度と工会の立場・役割
  第2節 労働争議処理制度の実施概況
  第3節 労働争議の防止策と工会の立場・役割
 第四章 外資系企業工会の組織と機能状況
  第1節 外資系企業の工会組織率
  第2節 近年における工会組織率上昇の原因
  第3節 工会の労働者代表機能不全の状況
 第五章 工会の労働者代表機能不全の要因と背景
  第1節 工会の労働者代表機能不全の要因
  第2節 社会体制に規定された工会の性質
  第3節 市場経済に適応していない工会の性質
 第六章 工会の自己改革の論議・動き・限界
  第1節 工会の自己改革をめぐる論議
  第2節 工会の自己改革の動き
  第3節 工会の自己改革の限界とその原因
 第七章 社会主義市場経済に適応する工会の改革案
  第1節 「主人」から「国民」への意識変革
  第2節 工会の権利と法的保障の強化
  第3節 「上部構造」から「生産関係」への属性変換
 総括
 付録1 統計表
 付録2 アンケート調査結果の集計(日系企業の人事労務管理~賃金を中心とする~)
 付録3 実地調査インタビュー記録(日中合弁企業)
 付録4 ある日中合弁企業の労働契約書
 付録5 参考文献

II.本論文の概要

 中国は1978年に改革開放方針を打ち出し、92年には社会主義計画経済体制を社会主義市場経済体制に転換することを明言した。改革開放政策は中国経済に著しい発展をもたらしたが、一方、経済の市場化と外資系企業の急増に伴い、労働関係の社会摩擦が増大し、雇用、賃金、労働時間、人権などの問題に関わる労働争議が多発していること、とりわけ外資系企業において労働争議が多発していることに著者は注目する。

 なお、本論文で著者が用いている「労働争議」の概念は中国で定義され、使用されているものである。すなわち、「労働関係双方が労働に関する権利を実行し、労働に関する義務を履行することから発生した紛争」を労働争議ととらえている。このため、日本で労働争議という概念を使用する場合に通常想定する集団的労使紛争のみならず、労働者個人と使用者の間に発生した個別労働紛争も含んでいるし、また、ストライキやロックアウトなどの争議行為を伴わない紛争も労働争議の概念の中に含めているのである。たとえば、職場での上司と部下の口論にとどまるものであっても、労働争議に該当するものがあるとしている。

 さて、こうした労働争議の多発に対応し、中国政府は労働争議処理制度を復活・整備したが、その際、労働争議処理における工会の立場と役割を規定した。すなわち、労働者個人、あるいは複数の労働者と使用者との紛争が発生した場合、企業工会は労使双方の中間に立ち、調停の役割を担当する。地方工会組織は労働管理行政部門および企業管理行政部門と共同して争議の仲裁に参加することとなったのである。

 なお、工会とは現在の中華全国総工会とその傘下の全国の各産業総工会、地方総工会と企業工会を指している。中国の工会は日本で労働組合と翻訳されている。しかし、著者は中国の工会の組織、性質、役割は、以下の内容要約で述べるように、市場経済の諸国における労働組合のそれらとは大きく異なっていると指摘している。

 以下、本論文の構成にしたがって内容を要約する。

 第一章では、労働争議処理情況に関する中国労働部(日本の労働省にあたる)、国家統計局、中華全国総工会などの統計資料の検討に、著者自身がおこなった実地調査による知見も加味して、外資系企業で労働争議が多発する状況を概観し、労働争議の主な内容と労働争議の発生プロセスを紹介している。

 第二章では、まず、改革開放時期に外資系企業で労働争議が多発した原因が使用者側による労働者の法律に定められた権益の侵害にあるという通説が紹介されるが、著者はこうした指摘は問題状況を部分的にしか見ていないと批判し、労使の当事者に政府の機関を加えた広義の労使関係とそれら当事者たちを取り巻く外部環境の作用を含む全体状況を把握しうる構図を設定し、外資系企業における労働争議多発の原因を直接原因、間接原因、外部環境原因に分類することで考察を深め、政府の労使関係への介入策と外資誘致策に潜む原因を浮き彫りにしている。

 すなわち、中国政府は、改革開放政策下で資本主義的性格をもつ外資系企業を導入することは、資本主義生産関係における投資者・経営者の絶対的な意思決定権の存在を承認しなければならないと考え、使用者側に対して労働者側の権利を弱く規定し、さらには一部の地方政府の事例ではあるが、外資誘致のために労働者の人件費を低く抑える政策が採用されたことが述べられる。

 第三章では、労働争議の多発に対応して整備された労働争議処理制度と労働争議防止策における工会の立場と役割が述べられる。1992年以後、政府はすべての工会を労使の中間に置き、労働争議の調停と仲裁の役割を担当させた。しかし、調停員や仲裁員の人数不足と経験の不足、労働争議処理基準の不明確さ、処理における不公正、巨額な処理費用など労働争議処理機構の限界が見られた。また、地方工会組織は準政府機関として、地方労働仲裁委員会に参与したが、外資系企業ではそもそも工会の組織率が低く、かりに工会が組織されていたとしても、労働争議調停の役割を充分に果たしてはいなかった。

 一方、政府は使用者による労働者権益の侵害の深刻さを重くみて、労働契約締結における労働者代表としての工会の立場を強調し、さらに労働者代表としての工会幹部に取締役員会(董事会)への列席権を与え、通常時の生産管理における経営管理側に対する工会の発言権と監督権を強化した。しかし、工会は単純に労働者側を代表する組織として存在しているのではなく、労使関係調整を行う準政府機関でもあり、また、すべての企業工会には経営側に協力し、生産性を向上させるため、労働者を組織・教育する役割も課せられている。工会組織率がきわめて低い外資系企業では、こうした工会の多面的かつ重要な役割も果たされていなかった。

 第四章では、外資系企業の工会組織率が低い原因が検討される。中華全国総工会の見解によれば、その原因は、一部の外国人経営者が工会を労働組合と認識してその結成に強く抵抗したこと、一部の中国人経営者も経営に対する発言権と監督権をもつ工会の結成に反対したこと、一部の党幹部と政府官僚は外国資本家にとって投資しやすい環境を整備することを配慮して工会の結成に冷淡な態度をとったこと、一部の農村出身の労働者は工会を組織して労働者権益を守る意識が希薄であったことなどが挙げられている。著者は、こうした通説的な公式見解に追加すべき点があることを指摘している。すなわち、工会組織率を低くさせた原因が中華全国総工会自身にあるとして、改革開放期の始めから90年代まで、中華全国総工会が外資系企業における工会の結成促進活動を本格的に行わなかったことを指摘している。

 なお、外資系企業では、94年から、中華全国総工会の半強制的促進措置、経営者の工会に対する認識と態度の変化、労働者の組織意識の高まりなどから工会の組織率が上昇した。しかし、既存の工会も、新規結成された工会も、企業への協力が期待され、経営側と対立して労働者権益を守ることが困難となっている。つまり、工会組織率の上昇により、工会の労働者代表機能不全の問題が顕在化することになったのである。

 第五章では、前章で問題の焦点となった工会の労働者代表機能不全の原因を究明するため、歴史的にさかのぼり、建国後の中国の政治、経済、社会体制との関連、世界の労働運動の潮流との関連で、中国工会の体質を明らかにしている。中国労働部の関係団体の研究者である王愛文氏は「建国後の中国工会は政治に頼って自身の居場所を正しく認識せず、党と政府に近づきすぎて労働者大衆から離れてしまったので、労働者代表機能をすでに喪失した」と指摘したが、著者はそれだけでなく、中国工会の属性・役割が中国社会の政治・経済体制に制約されていること、それゆえ従来の工会の性質を保持し、その慣習を続行している中華全国総工会は市場経済のメカニズムで運営している外資系企業で労働者組織として機能しえない点を指摘している。

 第六章では、工会の自己改革をめぐる論議と実際の自己改革の動向を考察し、これまで提起されてきている改革措置の限界を指摘している。著者は中国共産党の助手として準政府機関になった工会の体質を抜本的に改革する鍵となるのが、工会と党の関係の改革であるが、その改革が進んでいないことを指摘している。

 最終章である第七章では、今後の研究課題として、工会が市場経済に適応し、完全に労働者の組織に転換するための抜本的な改革案が試論として提示されている。すなわち、市場経済に適応するための工会の改革は、まず、「国家の主人としての労働者階級」、あるいは「企業の主人としての国営企業の労働者」といったイデオロギーにもとづく「主人の権利」を「国民の権益」に転換させる意識改革から出発し、国民権益としての合法的かつ合理的労働者権益を擁護し、労働者を代表する工会の権限を法制化し、労働者および工会のスト権を確立すべきこと、そして工会を党から切り離し、労働者組織として自立させ、工会幹部の地位と待遇を労働者たちの選挙と会費で保障させなければならないと著者は述べている。

III.本論文の成果と問題点

 改革開放政策以降、労働争議の多発に示されるように、中国で労働問題が鋭く社会問題化しており、それらの実態の報告、分析、解決策の提示など少なくない文献資料が公表されてきている。しかし、それらの調査研究の多くは問題の掘り下げにおいて表面的であったり、研究視角の点で部分的、断片的なものが少なくないように思われる。本論文はそうしたこれまでの研究蓄積に対して、より本質的かつ全体的な問題状況の掘り下げと追究を強く意識している。そうした著者の問題意識が強烈であるだけに、本論文が達成しようとした課題は困難で多大の努力を必要としたと思われる。著者は長期間を費やして粘り強く課題の追究を行い、相当の成果を挙げている。

 とくに第三章「労働争議への対応と工会の立場・役割」および第四章「外資系企業工会の組織と機能状況」等の本論文の中核的な章は、根底的な考察が行われた力作であり、工会を中心として改革開放期の外資系企業の労働争議を分析した研究としては他に見られない先駆的研究であり、学界においても高い評価を受けるものと考えられる。

 著者は、現実に展開している複雑な状況を把握するために、公表されている文献資料の収集に加えて、上海を中心にした関係者へのインタビューとアンケート調査を通じて最新の事実把握に努めており、実証面での努力が評価される。

 また、第五章「工会の労働者代表機能不全の要因と背景」に見られるように、現在直面する問題の本質を探って、歴史をさかのぼり、工会の立場と役割の歴史的経緯を明らかにしようとした研究スタイルも評価に値する。

 一方、本論文の問題点としては、まず、研究史の整理が不十分なことが指摘できる。著者の研究課題に関わる先行研究がたとえきわめて少数だとしても、先行研究の成果を尊重し、それへの適切な評価・批判にもとづいて自身の研究を展開することを期待する観点からすると、やや自説の主張に性急すぎる傾向がみられる。また、論文中に使用、引用した資料文献の出所が明記されていない事例があったり、統計資料の性格についての説明が欠けている例も散見された。本論文を先行研究として、その成果に学ぼうとする研究者にとり、不親切であるし、本論文の客観性証明の点で問題を残していると感じられた。

 また、著者は1992年以降、繰り返し中国と日本で実地調査を行っている。経営者、労働者、研究者など各層へのインタビュー調査の他、中国における中日合弁企業の日本人経営者や管理者へのアンケート調査など多大の労力を傾けて、独力で調査を続けてきている。そうした調査結果の一部が本論文中にも引用されているが、実地調査そのものの目的や方法、実施時期などの基本的事項が紹介されておらず、引用された発言やエピソードの解釈が適切かどうか迷う箇所もあった。

 しかし、これらの問題点は、本人も自覚するところであり、今後、著者本人が研究者として、あるいは教師として研鑽を積む過程で克服されるものと期待したい。

 本論文は、社会主義の政治経済システムに資本主義の政治経済システムの要素が入ってきたことで生ずる社会摩擦の具体的実証的分析を通じて問題点を明らかにし、さらに、歴史的および理論的考察を加えて、より問題の本質を突いた根本的な解決策を提示しようとする雄大な構想の下に叙述されており、上で述べたいくつかの問題点を上回る魅力を有していると考える。

 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに充分な成果を上げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2000年6月15日

 2000年6月16日、学位請求論文提出者高玲娜氏の論文について最終試験を行った。本試験において、審査委員は、提出論文『労働争議に関する中国工会の立場と役割-改革開放期の外資系企業を中心に-』に関する疑問点について逐一説明を求め、あわせて関連する事項についても説明を求めたのに対し、高玲娜氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は、高玲娜氏が博士の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定し、合格と判断した。

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