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博士論文審査要旨

論文題目:現状維持からの脱却:予期的後悔が現状維持傾向の低減に及ぼす影響
著者:木村(道家) 瑠見子 (KIMURA,(DOHKE) Rumiko)
論文審査委員:村田光二、稲葉哲郎、阿久津聡

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1.本論文の概要
 私たちは、例えば、新しい便利な連絡手段や高性能の新商品が開発されたとしても、これまで慣れ親しんだ連絡手段、使い慣れた商品を使い続ける傾向がある。こういった現状維持バイアスが強いと、テクノロジーの発展から取り残され、私たちに不利益がもたらされかねない。しかし、心理学や行動経済学の研究は、意思決定場面で他のもっと良い選択肢があるときでも、人が現状維持の選択肢を選ぶ傾向が強いことを明らかにしている。では、なぜ現状維持バイアスが示されるのであろうか。本論文はこの問題に取り組み、その原因を説得的に論じた上で、心理学実験を通じて現状維持バイアスの低減策の一つを明らかにしたものである。本論文の問題と目的部分では、現状維持バイアス研究と後悔研究をレビューして、本論文の課題と仮説を導いている。実証的検討では、「現状維持選択に基づく失敗を選択前に想像すれば予期的後悔が生じ、そうしない場合よりも現状変更を選択しやすくなるだろう」という仮説を、手法を変えながら実施した複数の実験を通じて検討して、支持するいくつかの結果を得た。これら実験結果を考察し、本論文の意義、限界、今後の研究の展望を論じてまとめている。

2. 本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、現状維持バイアス研究と後悔研究を幅広くレビューして整理した上で、予期的後悔が現状維持バイアスを低減する可能性を議論して、明確に示したことである。筆者の議論によれば、総合評価ではもっと望ましい現状変更の選択肢でも、負の側面を通常は持っている。私たちは負の側面に注目しやすく、それを重視して判断しがちである。他方で現状維持の選択肢は、慣れ親しんできたもので、負の側面が思いつかないことが多い。現状維持か変更かの選択場面に遭遇した人が選択結果を予期する場合でも、現状変更の失敗とそれに伴う後悔は想像されやすいが、現状維持に伴う失敗と後悔は予期されにくいという。このように、予期的後悔の働き方によって、合理的選択理論の予測に反して、現状維持バイアスが示されると考えられる。もしそうだとすれば、現状変更の後悔ではなく、現状維持の後悔を予期できる場面を設定すれば、むしろ現状維持バイアスが低減されることが考えられるだろう。
 本論文の第二の成果は、上記の議論によって導かれた仮説「現状維持をして失敗した場合の後悔を予期すれば、そうでない場合よりも、現状維持傾向が低減するだろう」に関して、心理学実験を通じて支持する証拠を得たことである。最初に実施した「ヘアスタイル変更」を題材とした実験では、現状に満足していない男性参加者のみで支持する結果を得た。引き続き実施したシナリオ実験では、「冷蔵庫の変更」、「温泉旅行地の変更」のいずれの題材についても、残念ながら仮説を支持する証拠が得られなかった。しかし、予期的後悔を導出する前の時点での現状維持傾向を測定した上で、導出後の現状維持傾向を測定した後の実験では、いずれの題材に関しても明確な条件間の差を得ている。以上のように、現状維持バイアスが頑健であることを確認しながらも、それを低減する実証的証拠を示した。
 以上と関連する第三の成果は、現状維持バイアスを低減するための操作方法として「条件設定による反実思考」を生み出すとともに、現状維持傾向の新しい測定方法を工夫して示したことである。後悔は、自分が選択した結果(事実)と、現実には存在しないが他の選択をしたら生じただろう結果(反事実)との比較に基づく感情である。この反事実の内容にはさまざまなものが考え得るが、それを制限して一定方向に導く操作方法を考案している。また、予期する段階では、現状維持・変更の2つの選択肢の1つに必ずしもコミットしてしまうわけではないので、各々を選択する可能性を比率で測定して、両者への相対的評価を指標として用いている。これらがベストの方法とは限らないが、他の研究者の参考となる新しい方法を工夫して提示したことも本論文の貢献だろう。
 以上のような成果が認められるものの、本論文にはいくつかの問題点も指摘できる。
 まず、筆者自身も論じているように、「現状維持をして失敗した場合の後悔予期」と比較対照することが適切な「そうでない場合」(統制条件)が、理論的にも、実験操作の方法においても明確でない点である。これは難問であるが、将来の解決を望みたい。次に、予期的後悔の操作チェックが不充分な点である。今後は、用いた操作方法をチェックするためだけの実験を実施するなど、結果を補強してほしい。最後に、仮説を支持する実証的証拠がいつでも得られたわけではない点である。「条件設定による反実思考」がどういった条件下で有効なのか、さらに検討する必要があるだろう。
 以上のような問題点が残っているが、著者自身も充分に自覚しており、本論文の学術的成果と水準の高さを損なうものではなく、将来の研究において補われ克服されていくと期待されるものである。

最終試験の結果の要旨

2018年3月14日

 2018年2月28日、学位請求論文提出者の木村(道家)瑠見子氏の論文について試験を行った。
 本試験において、審査委員が提出論文「現状維持からの脱却:予期的後悔が現状維持傾向の低減に及ぼす影響」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、木村(道家)氏はいずれに対しても的確に応答し、充分な説明を行った。
 よって、審査委員一同は、所定の試問の結果を併せて考慮し、本論文の著者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により、一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断した。

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