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博士論文審査要旨

論文題目:「満洲国」の労工に関する史的研究:華北からの入満労工を中心に
著者:王 紅艶 (WANG, Hong Yan)
論文審査委員:田中宏、三谷孝、糟谷憲一、一條和生

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(1). 論文の構成

 本論文は、華北地区からの入満労働者について、19世紀末から「満洲国」崩壊までの時期、とくに「満洲国」時期における華北労工の入満をめぐる政策の変遷を検討し、さらにその実施過程及びそれに対する華北労工の対応を検証することによって、「満洲国」における労務政策及び労務管理の実態の解明を目指したものである。また、それによって、日本の中国侵略戦争が中国の人的資源を日本の軍事・経済の需要に応じてどのように動員したかを明らかにし、日本の侵華戦争に関する調査研究のなかでも、あまり研究が進んでいない部分に踏込んだものとなっている。

 なお、論文の分量は、400字詰原稿用紙に換算して900枚余に達し、図表も80点余に及ぶ大作である。主要目次を掲げると、次の通りである。

序章
 第1節 問題意識
 第2節 研究史における本研究の位置
 第3節 研究方法
第1章 満洲労工の由来
 第1節 9.18事変までの華北と満洲の社会、経済状況
 第2節 「満洲国」の経済政策における労工問題
 第3節 日本移民と朝鮮移民
 第4節 「満洲国」内の労工
第2章 労務政策の立案過程
 第1節 関東軍と「満鉄経済調査会」
 第2節 華北労工の入満制限政策と大東公司
 第3節 労工募集政策と満洲労工協会
 第4節 「満洲国」内の労工徴用政策及び捕虜の使用政策
第3章 華北入満労工の実態
 第1節 把頭制度と特殊工人の隊長制
 第2節 華北労工協会と労工訓練所
 第3節 撫順炭鉱における一般労工の実態
 第4節 撫順炭鉱における特殊工人の実態
結び
図表リスト、主要参考資料

(2). 本論文の概要

 「序章」では、まず問題意識として、「労工問題」は日本による中国侵略の一部分、すなわち人的資源の略奪であり、その全体像を解明する上で避けて通れない問題であるとしている。そして、「満洲国」における産業開発計画の実施及びそれに伴う華北からの入満労工に関する労務政策の企画・立案、さらには1937年以降の日中全面戦争期における労働力の強制徴用及び捕虜の使役政策の実態の解明を、本論文の具体的課題として設定する。

 先行研究については、戦前、満洲の労務関係の仕事に従事した日本人の手になる調査報告書10点を紹介し、その立場ゆえに視点に問題を感じるとしている。また、戦後については6点の論文をあげて短評を加えつつ、これらの研究においては「満洲国」における労務政策の制定及び実施過程・労働現場の実態・捕虜の強制労働については十分実証的解明がなされていないとする。中国側の研究としては、戦前は南開大学の何廉の一論文(1932年)を発見したのみで、戦後については、中国の改革開放政策以降の1990年代に入ってから発表された4点をあげ、その特徴と自分の研究の位置づけを行っている。

 研究方法としては、日中双方の史資料を相互に比較検討しながら分析を進めるが、とくに中国側の史資料として、最近ようやく一部利用が可能になり始めた撫順炭鉱鉱務局档案館・満鉄資料館・吉林省図書館等の「档案(保存資料)」を2回の現地調査の際に収集するとともに、著者が行った現存する当事者(撫順炭鉱の元「特殊工人」)からの聞き取り調査の資料を加えて、主題への接近を試みている。

 第1章では、満洲労工の由来を、清朝の「遼東招民開墾例」(1653年)による入満奨励策、その後に何度か発せられた同禁止令、さらにはロシアによる「東清鉄道」に関する「中露密約」(1896年)以降の進出に対抗して再び入満奨励策に転じた経緯を振り返り、その出身地が近接する華北地区、中でも河北省及び山東省の出身者が多かったという「前史」から説き起こしている。20世紀に入ると、華北における度重なる人災・天災などに由来する社会的・経済的要因と、満洲におけるロシアと日本の鉄道建設及び産業開発に伴う大規模な労働力需要という二つの要因が、華北労工の大量入満をもたらしたとしている。 第1節の「満洲事変までの華北と満洲の社会、経済状況」では、華北における列強の侵略が農村経済の崩壊及び農民の貧困化をもたらし、それに軍閥の混戦と自然災害が加わって、入満への押し出し要因を形成した点、一方、満洲における鉄道建設及び産業開発が生み出した労働力需要が吸引要因となったことを、統計数字などを使って概観している。

 第2節では、1932年に関東軍の主導下に樹立された「満洲国」の経済政策と労工問題を扱っている。当初は、治安第一主義の立場から中国人労働者に対する入満制限政策がとられるが、1937年からの「満洲産業開発五ヶ年計画」の実施に伴う労働力需要の増加に対応するため制限策は180度転換され、華北労工の入満数が急増し、1940年には130万人以上に達したとする。しかし、華北労工の家郷送金の制限、華北側における日本の「産業開発五ヶ年計画」の策定に伴う労働需要によって入満者数は激減して(1941年、92万人)、計画は困難に直面することとなる。

 第3節では、当初の入満制限政策との関係から、日本人及び朝鮮人の移民の導入政策を跡づけている。1920年代の中国人移民は農業にたずさわる者が多く、日本人・朝鮮人の移民にとって土地の開墾と利用におけるライバルになったことも、入満制限の背景の一つであったことを指摘している。1934年の「土竜山事件」は、日本の第1次満洲武装移民が現地の中国人との間で衝突したものである。「満洲国」における日本人・朝鮮人・中国人の間における利害対立の構図が示されている。

 第4節の「『満洲国』内の労工」では、従来の入満制限政策は転換したものの、1939年以降の華北産業開発の実施、及び蒙彊・華中の労工供給要求によって需要の競合がおこり、従来からの華北労工依存体制は変更を迫られたとしている。そして、「満洲国」内においても労働統制が強化され、域内では、労工の強制徴用が実施されるようになり、さらには華北での日本軍の作戦による捕虜を「労工」として満洲に連行し、労働力不足を補うという政策がとられるに至ったことを明らかにしている。

 第1章が、主題についてのマクロ的な記述となっているのに対し、第2章は、これを受けるかたちで「満洲国」の労働政策の立案過程及びその変遷を史資料を読み込むことによって復元し、分析と評価を試みている。

 日露戦争後のポーツマス条約によって日本が手に入れた「関東州」及び南満洲鉄道(長春-旅順間)及びその附属地を所管するものとして「関東総督府」が設置され、さらに鉄道の運営を中心とする国策会社として「南満洲鉄道株式会社」(以下、満鉄という)が設立され、関東軍・関東庁・満鉄という体制が成立する。満鉄には、1907年に初代総裁後藤新平の「文装的武備」という満鉄経営の指導方針に基づいて「満鉄調査部」が設置された。 第1節では、満洲事変後に「国家建設」をめざす関東軍が満鉄に求めて設立された「満鉄経済調査会」と関東軍の特務部との間で「労働統制委員会」が設置され、労務政策がどのように企画・立案されたかを、同委員会資料などによって明らかにしている。

 第2節では、華北労工の入満制限という当初の政策が、どのような経緯で生まれ、またそれを実施するために、外国労働者取扱機関として査証発行業務を担当する「大東公司」(1934年設置)がどのような役割を果たしたかを扱っている。

 第3節では、1937年4月から実施された「満洲産業開発五ヶ年計画」推進のため、華北労工の積極的導入がはかられた経緯を跡づけている。そこでは、労働統制機関としての「満洲労工協会」の設立が大きな位置を占めている。1937年12月、「満洲帝国」の勅令456号により満洲労工協会法が公布されて、翌年1月に同協会が設立され、39年7月には、大東公司を統合している。

 第4節では、従来からの華北労工依存政策が変更を迫られるなかで、より強力な労働統制の推進がはかられた経緯を明らかにしている。すでに、1938年2月には「国家総動員法(勅19)」が、同12月には「労働統制法(勅268)」が、39年9月には「職能登録令(勅232)」が、それぞれ制定され、「労務新体制」に移行するのである。そして、華北での戦争捕虜を労工として入満させ使役する政策も登場している。また「国民皆労」を実施するために、1932年に発足していた「協和会」が隣保組織を通して、労工供出に動員された点も指摘され、さらに、華北においては、類似の組織「新民会」が作られて、農村地帯からの労工供出に協力したが十分な成果をあげることができなかったことが述べられる。

 第3章は、第2章を受けて、入満労工の実態を扱っており、ミクロなアプローチといえよう。第1節では、撫順炭鉱は当初、伝統的な労働者管理組織・「把頭制」を採用するが、把頭による賃金のピンハネ等の弊害が生じたことから「直轄制」に切り換えられたこと、しかし労働力不足が深刻となるとともに労工募集に威力を発揮する把頭を再び利用せざるを得なかった経緯を明らかにしている。また、捕虜を労工として使役した「特殊工人」については軍の階級に則って「隊長制」が採用されたが、それと把頭制との関係も検証している。

 第2節では、華北側における問題状況を扱っている。日本軍は「華北分離」、すなわち「第二満洲国」の樹立を考えていたと見られ、盧溝橋事件後の1937年12月には、日本軍の手によって北京に「中華民国臨時政府」が誕生した。さらに1940年3月、南京に汪兆銘の「中華民国政府」が成立すると、臨時政府はそれに吸収されるが、その管轄区域には別途「華北政務委員会」を成立させ、日本との特殊な関係を維持できる方式がとられたのである。こうした背景のもと、華北労工の訓練・供出と身分証明書の発行等の業務にあたる「華北労工協会」の設立の経緯を詳細に検討するとともに、その役割の一つとして捕虜を労工に身分を切換える「労工訓練所」の管理及び送り出しの実態を明らかにしている。また、「訓練生」は捕虜だけではなく、日本軍による「うさぎ狩り作戦」(民間人の強制徴用)によっても得られ、華北労工協会の手で華北・満洲・蒙彊・日本等に送り込まれた労工は300万人にのぼったとしている。ここでは、華北政務委員会が、華北労工協会の設立にあたって同協会に対する日本人の指導権掌握に異議を唱えて抵抗したために2年以上にわたる交渉が行われたという注目すべき事実も明らかにされている。

 つづく第3節と第4節では、撫順炭鉱における一般労工及び特殊工人について、それぞれその労働時間・労働環境・賃金・生計状況等の実態を、残された資料を駆使して明らかにしている。そこでは、戦況の進展・五ケ年計画の実施に伴い労働時間の延長・労働環境の悪化・死傷者数の増加・生活水準の低下という事態によって逃亡する労工が増加したことが指摘されている。また、特殊工人の待遇・労働条件は一般労工よりも一層苛酷なものであったことから、その中に共産党の地下組織が浸透して、暴動・逃亡・労働用具の破壊・サボタージュ・抗日の落書き等の形での抵抗闘争が展開されたことを、当時の資料・当事者の回想記録及び著者自身による聞き取り調査に基づいて検証している。

(3). 本論文の成果と問題点

 本論文の成果の第一は、日本の長期にわたる中国侵略のなかで、従来論じられることの少なかった「労工問題」をとりあげ、「満洲国」及び日本の特殊地域であった華北にまたがって、労務政策の企画・立案、実行の推移の概要を実証的に明らかにした点である。著者は、公刊された文献資料(その中には1999年に公表された日本戦犯の供述書・『侵略の証言-中国における日本戦犯の供述書』や1995年に刊行された中国での実態調査に基づく記録資料も含まれている)を広く渉猟しただけでなく、撫順・瀋陽等の档案館に所蔵されている未公刊の資料及び独自に行った現地での聞き取り調査の成果を活用して、「満洲国」や日本側諸機関における政策の決定及び変遷過程だけでなく、その実施過程、すなわち徴用される側の実情・労働現場の実態を明らかにしている。

 成果の第二は、従来まったく研究されてこなかった華北における「労工問題」について、労工の徴用の実態や華北の中国側政府機関との関係に照明をあて、「満洲国」側の労務政策との関連の下に総合的な解明に努めたことにある。労工の確保のために新民会が供出地域の村長達を満洲に招いて歓待したが期待した成果は収められなかったこと、傀儡組織とされる華北政務委員会が華北労工協会の設立に強く抵抗したこと等は本論文で初めて明らかにされた事実である。

 さらに第三に、日本ではほとんど知られていなかった戦争捕虜出身の労工、すなわち「特殊工人」に注目して、その訓練と労工への転換の経緯並びに撫順炭鉱における労働と抵抗の実態を明らかにした点である。これは上述した著者の資料収集の利点が十分に生かされた成果と評価できる。

 『増補 近代日中関係史研究入門』(1996年)は定評のあるデータブックであるが、「労工問題」についての紹介はほんの数行にすぎない点からも、本論文のもつ役割は評価されるが、問題点もいくつか指摘しておかねばならない。

 日本主導の労務政策を扱っているにもかかわらず、日本内地における国家総動員体制下の状況と対比・検討することがなされていない。例えば、同じ1938年に、満洲国より若干遅れて、日本でも国家総動員法が公布され、双方には数多くの類似法制が生まれていることについては論及されていない。また同様に、大東公司が台湾における南国公司の経験を参考にして設置されたとの興味深い論点についても、指摘に止まっていてそれ以上の検討はなされていない。

 また、主題の舞台である当時の中国の労働組織においては、紅幇・青幇などのような伝統的な秘密結社が有力な基盤をもっていたはずであるが、本論文で取り上げている撫順炭鉱における把頭制の分析においてもそのことは触れられていない。そうした中国社会の伝統的な側面からのアプローチを加えると、より立体的な実像が把握できるのではなかろうか。

 さらに、華北労工協会の設置をめぐる経緯のなかで、華北政務委員会の王克敏らの日本側への抵抗の事実を指摘して、従来から「漢奸」「傀儡」として評価されてきたが、彼らもひたすら日本の侵略政策に追随したわけではないとしている。しかし、その論証は必ずしも充分にはなされていない。

 しかし、これらの課題については、本人も自覚するところであり、残された課題として今後一層の追求を期待したい。

 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに充分な成果を上げていると判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するにふさわしい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2000年5月2日

 2000年5月2日、学位請求論文提出者王紅艶氏の論文について最終試験を行った。試験において、審査委員は、提出論文「『満洲国』の労工に関する史的研究――華北地区からの入満労工を中心に――」に関する疑問点について逐一説明を求め、合わせて関連する事項についても説明を求めたのに対し、王紅艶氏は、いずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、王紅艶氏が博士の学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判断した。

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