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博士論文審査要旨

論文題目:貧困の社会構造分析 なぜフィリピンは貧困を克服できないのか
著者:太田 和宏 (OTA, Kazuhiro)
論文審査委員:児玉谷史朗、上田元、浅見靖仁

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Ⅰ. 本論文の概要
 太田和宏氏の論文「貧困の社会構造分析 なぜフィリピンは貧困を克服できないのか」は、フィリピンでは過去 30 年間さまざまな貧困政策が行われてきたのになぜ貧困問題が解決しないのかという問いを設定し、それに答えるべく、個々の貧困政策だけではなく、貧困が再 生産される状況、貧困対策が十全に機能しない社会構造を明らかにしようとした労作であ る。
 著者は、分析枠組として、福祉レジーム論と「接合理論」を組み合わせた「グローバル接合レジーム」を提示する。次いで 1986 年の民主化以降 30 年間の貧困政策を、5 期にわたる政権ごとに整理して全体像を示す。
本論文は、グローバル接合レジームを構成する国家、市民社会、市場、家族の 4 領域について貧困問題の構造を解明する。4領域は近代制度と旧来制度、国内条件とグローバル要素 の接合によって独自の機能を果たしてきた。フィリピンは先駆的な貧困政策を実施してき たが、既得権益を優先する政治構造がその効果的な執行を阻んできた。民主化と貧困政策は 貧困層の権利擁護、生活改善に貢献したが、名望家による地方政治の掌握が貧困政策の効果 を抑制した。市民社会組織による国家の政策運営への参加は、国家政策の失敗を免罪し、市 民社会組織の体制内化を招いた。貧困者は、家族・親族のネットワークや相互扶助慣行に依 拠した生存戦略を実行する能動的存在であるが、彼らの生存戦略は国家政策の不備や市場 機会の限界を補う安全弁として機能している。グローバル化、経済自由化に対応してフォー マル部門では雇用が柔軟化・不安定化しているが、インフォーマル部門、海外出稼ぎが接合 して機能するため労働市場は全体として安定を保ち、貧困層の労働、生活条件の改善を阻む。
 結論として、フィリピンでは能力の弱い国家が資本蓄積体制の構築を試みる中で、自律的な市民社会と家族・親族の私的領域が貧困層の生活基盤形成に大きな役割を果たしているが、両者ともエリート支配の政治構造や新自由主義的グローバル化の枠組みの中で、十分な生活資源の獲得や生計の飛躍的向上につながる根本的改変に成功しているわけではない。

Ⅱ.本論文の成果
 本論文の第一の成果は、1986 年の民主化後 30 年間のフィリピンの貧困関連政策を5期にわたる政権ごとに丹念に跡づけてそれぞれの特徴を整理すると共に、そこに政権の別を越えた継続性を見いだして共通の特徴を析出し、政治的文脈及び政治権力構造との関わりを明らかにしたことである。フィリピンの個々の貧困削減政策を論じた先行研究は数多くあるが、貧困政策の全体像を論じた研究は非常に少ない。このような状況において、30 年間にわたるフィリピンの様々な貧困関連政策の全体像を捉えて政治経済的背景も含めて包括的に論じた本論文の貢献は貴重と言えよう。民主化と経済自由化という時代状況と国際的な開発政策動向への対応、治安対策の一環としての位置づけ、有力政治家・名望家層による実施過程での骨抜きや利用等の興味深い特徴が具体的事例を交えて指摘されている。その貢献はフィリピン地域研究にとどまらず、多くの途上国が民主化と経済自由化の中で、国際目標となった貧困削減政策に取り組む今世紀初頭の状況においては、広く世界的課題に関わる、開発社会学的意義を有するものと言える。
 本論文の第二の成果は、先進的な貧困政策を実施してきたフィリピンがなぜ貧困撲滅に 成功しないのかについて、ひとつの説得力のある説明を提示したことである。従来の評価や 研究が貧困政策、計画の不備や実施上の限界に失敗の原因を求めてきたのに対して、本論文 は、民主化後のフィリピンが、先進的な貧困政策の実施にもかかわらず貧困削減の実績に乏 しい点に着目し、貧困政策をめぐる政治経済学的要因と社会構造にその原因を求めた。すな わち、治安対策としての貧困政策、名望家支配による貧困施策の骨抜きや利権的利用、市民 社会組織の体制内化、フォーマル部門の雇用柔軟化・低賃金の安全弁としてのインフォーマ ル経済と海外出稼ぎ、貧困層自身の生存戦略による現在の社会状況の追認、こういった構造 が貧困政策の効果を減殺し、あるいは政策の不備を免罪して、貧困を再生産してきたとする。かかる本論文の主張は、個々の貧困政策や事業の評価、貧困指標の分析にとどまらない政治 権力構造と社会構造の分析によって説得力のあるものになっている。
 本論文の第三の成果は、フィリピンの貧困問題を、グローバル接合レジームという独自の分析視角と理論的枠組に基づいて、フィリピン社会の特徴を考慮しつつ、多面的、複合的、総合的に分析したことである。これによって、個々の貧困削減政策間の位置づけや貧困政策と貧困層が置かれている全体状況の間の複合的関係が理論的な一貫性をもって考察されている。本論文は、市民社会組織と国家の関係、貧困層の生存戦略がもつ国家の政策不備免罪効果といった、貧困問題に対する二面的特質、両義的効果を見いだし、接合した労働市場が全体として複合的に機能している姿を描き出している。

Ⅲ.本論文の問題点
 このように、本論文は、途上国の貧困政策研究、現代フィリピン政治・社会研究として貴重な成果をあげたと評価できるが、問題点や限界がないわけではない。第一に、全体構造や諸要素の関係を重視する視座あるいは枠組を採用した結果とも言えるが、総じて対立や変化、地域格差の側面が十分描かれておらず、静態的な印象を与える。論文全体を通じて、フィリピンでは貧困問題が依然として克服されていないこと、そしてその根本的な原因は「グローバル接合レジーム」にあることが強調されているため、「レジーム」を主に静的なものとして描いている箇所が多く、その動態についての考察がやや不十分である。
 地域差については、本論文は、貧困に著しい国内地域差があることを、また「レジーム」を構成する各領域の実態にも地域差が認められることを、随所で指摘している。しかし、それらの地域差を体系的に提示しておらず、また地域レベルの貧困をマクロに見た貧困と関連づける理論的枠組みについても明示的に議論していない。貧困が具体的に現れている地域のレベルで、貧困の程度と「レジーム」のあり方の対応関係を体系的に検証していれば、より立体的な分析になったであろう。
 変化との関連では、フィリピンのように農村に余剰労働力が大量に存在している国における貧困とその削減について考察する際には、ルイスの二部門モデルが想定する「離陸点」について考察することが一般的であるが、本論文は二部門モデルに言及していない。「グローバル接合レジーム」では、農業を含むインフォーマル部門、海外出稼ぎがフォーマル部門に接合する形で複合的に全体が安定を保っていると見ているが、今後フィリピンでも経済発展に伴って余剰労働力が解消したり、海外出稼ぎ者からの送金額が増加したりすることで、貧困削減が進む可能性はないのか。経済発展論的な離陸なのか従属論的な接合なのかという古くて新しい問題とも言えるが、グローバル化時代への接合理論適用というのであれば、この方向への議論があってもよかったのではないか。
 第二に、本論文が提起する問題の解決はどのように実現されるのかについてである。本論文の主張が、フィリピンが貧困を克服できない原因は貧困を再生産する社会構造にあるという主張だとすれば、貧困の克服はいかに実現できるのか。本論文では貧困の定義に関する議論が正面から扱われていないこともあって、何がゴール、達成されればよいのか、またそれをいかに達成するかについて明示的には検討されていない。本論文では、貧困層の主体性は生存戦略としては度々強調されているものの、運動論やヘゲモニー論としては論じられていない。さらに貧困が再生産される構造の存在は、経済発展や貧困削減の可能性を排除しないであろう。
 もっとも、これらの問題点は、本論文の研究成果の学術的価値を大きく損なうものではない。また、著者も問題点を自覚し、今後の研究の課題としているところである。さらなる研究の進展を期待したい。

Ⅳ. 結論
 審査委員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与すること大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2018年2月14日

 2018 年 1 月 30 日、学位論文提出者太田和宏氏の博士学位請求論文「貧困の社会構造分析なぜフィリピンは貧困を克服できないのか」について最終試験を行った。
 試験においては、提出論文に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対して、太田和宏氏はいずれも的確に応答し、十分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、一橋大学学位規則第5条第3項の規定により、太田和宏氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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