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博士論文審査要旨

論文題目:ネガティブ感情を生起させる説得的メッセージはどのようにして精緻化されるのか-感情改善の役割とその克服-
著者:田中 知恵 (TANAKA, Tomoe)
論文審査委員:村田光二、稲葉哲郎、唐沢かおり

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1.本論文の概要
 災害の被災者など困った人への援助を求める支援要請広告では、悲惨な状況を示して援助を訴えることがしばしばある。こういったネガティブ感情を生起させる説得的メッセージを人々が受けとめ、その内容をよく考える(精緻化する)ことができれば、支援する方向に態度が変化しやすいはずである。しかし、人々はネガティブになりそうな自分の感情状態を改善しようとして、メッセージへの注意を逸らしやすいと本論文の著者は問題を提起した。そして、「メッセージから生じた関連感情の場合には、ネガティブ感情のときの方がポジティブ感情のときよりも、メッセージ内容を精緻化しにくい」という新規の仮説を立てた。これを4つの実験によって実証したのがこの論文の前半部である。
 では、どうしたらネガティブ感情を生起させる説得的メッセージを人々が精緻化するのであろうか。著者は、支援要請広告に含まれる周辺的要素(説得メッセージの中心的論点ではない要素)の利用可能性を下げることができれば、メッセージ内容を精緻化しやすいという仮説を立てた。また、ネガティブなメッセージを受け取る場面でも感情改善の予期を高めることができれば、メッセージから注意を逸らさず、内容を精緻化しやすいという仮説も立てた。問題の解決策に関するこの2つの仮説を、後半の3つの実験で実証した。以上の知見をまとめ、本論文の意義、限界、今後の研究を展望してまとめたものが本論文である。

2.本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、感情が認知に及ぼす影響に関する心理学研究の従来の知見である、「ネガティブ感情のときの方がポジティブ感情のときよりも、メッセージ内容を精緻化しやすい」が成り立たない場合があることを示した点である。従来の知見は、メッセージ内容と異なる源泉から(無関連)感情が生じている場合に成り立つことであり、関連感情の場合にはネガティブ感情を改善しようという動機づけによって精緻化が進まず、むしろポジティブ感情の方がメッセージを精緻化しやすいと著者は論じたのである。その上で、関連感情と無関連感情とをほぼ等価に操作するという困難な実験手続き上の課題を乗り越えて、「関連感情の場合には、ネガティブ感情のときの方がポジティブ感情のときよりもメッセージ内容を精緻化しにくい」ことを実証したのである。しかも、この斬新な仮説の実証を、異なる複数の素材を用いて繰り返し実証して、知見の頑健さを示した点も成果として付け加えることができるだろう。
 次に、支援要請広告に潜む問題を指摘しただけでなく、その問題の解決策を探り、2種類の方策を示した点である。ネガティブ感情を生起させる説得的メッセージは、非意識的に働く感情改善のプロセスにより、内容をきちんと読み取ってもらえない(精緻化されない)可能性がある。これを防ぐために、支援要請広告に伴いやすく、注意を逸らす働きをする周辺的要素の利用可能性を下げるという方策を提案して、ある場面ではそれが可能となることを見出した。また、別の方策として感情改善できるという意識的な期待を与えてやると、メッセージの読み取りを続けやすく、精緻化につながることも見出した。これが第二の成果である。
 さらに、説得的コミュニケーションの効果研究と感情制御研究の2つの領域を結びつけたことを、本論文の第三の成果として指摘できる。説得と態度変化に関する研究は社会心理学の中核的領域であり、近年では精緻化見込みモデル等、社会的情報処理の二過程モデルの観点から議論されることが多くなった。本論文ではこれに加えて、感情に関わる情報処理過程も考慮に入れて、説得効果を分析している。議論がまだ未成熟な部分もあるが、感情制御のプロセスを組み込んだ、説得研究の新しい進路を開拓できるかもしれない。
以上のような成果が認められるものの、本論文にはいくつかの問題点も指摘できる。
 まず、説得的メッセージに関わる関連感情と無関連感情との区別が、理論的にも操作手続きの点でも必ずしも明確ではなかった。例えば映像広告に関わる音楽は、映像内の説得的メッセージとどの程度適合していたら、「関連」感情を導出するのだろうか。また、精緻化の指標として「記憶の正確さ」と「態度変化」を測定していたが、これらはいずれも間接的で一次元的な指標であって、直接的に「精緻化」を測定しているわけではない。他の測定方法も考案して、利用できることが望ましいだろう。最後に、「ネガティブ感情を生起させる説得的メッセージを精緻化しない」という問題の解決策として示された2つの方策は、日常場面でどのように応用できるのか自明ではない。具体的にどうすれば私たちが自発的にこれらの方策を利用できるのか、さらなる探求が必要だろう。
 もちろん、以上の問題点は本論文の成果と水準の高さを損なうものではなく、著者自身も充分に自覚しており、将来の研究において補われ克服されていくと期待されるものである。

最終試験の結果の要旨

2018年2月14日

 2018 年1月31日、学位請求論文提出者の田中知恵氏の論文について最終試験を行った。
 本試験において、審査委員が提出論文「ネガティブ感情を生起させる説得的メッセージはどのようにして精緻化されるのか-感情改善の役割とその克服-」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、田中氏はいずれに対しても的確に応答し、充分な説明を行った。
 よって、審査委員一同は、所定の試問の結果をあわせて考慮し、本論文の著者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により、一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断した。

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