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博士論文審査要旨

論文題目:大正初期の理想主義から昭和初期の社会改造論へ:橘孝三郎の農本的社会改造論と昭和ファシズム
著者:ススィ・オング (SUSY, Ong)
論文審査委員:田崎宣義、矢澤修次郎、吉田裕

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I 本論文の構成

 本論文の構成は次の通りである。

 はじめに
 第一章 橘の思想の原点とその時代背景:中学校~一高時代
  第一節 「真面目に生きる」こと
  第二節 「生の肯定」者からアクティフィストへ
  第三節 個人と社会
  第四節 「精神的個人」と精神文明
  第五節 橘の思想と「帰農」の時代的位置づけ
  補論
  小括
 第二章 帰農生活の位置づけと「農本」思想の形成:1915-1929
  第一節 帰農生活の実態と同時代における「帰農」の位置づけ
  第二節 ミレー流自己実現の「帰農」生活の挫折と「社会」認識
  第三節 社会改造観の出発点
  第四節 近代資本主義国家・「土」の問題・社会改造
  第五節 農村改造運動を裏付ける思想
   (1)芸術と生活と「健全」な社会
   (2)社会改造の指導的精神
   (3)農村社会改造に対する認識
  小括
 第三章 愛郷運動:1929-1932
  第一節 愛郷会設立の契機
  第二節 初期愛郷会:1930
  第三節 愛郷会の活動と挫折
  第四節 愛郷会の「政治」活動について
  第五節 1920年代の農本主義運動:農民自治会
  小括
 第四章 農本的社会改造の学的理論体系:『農村学』
  第一節 「農村学」の定義
  第二節 農業の「本質」から見る農本社会改造論
  第三節 日本にとっての農村の位置づけ
  第四節 資本主義の「破農性」
  第五節 厚生主義社会に向けて
 第五章 橘の農本的社会改造論と昭和ファシズム
  第一節 五・一五事件の経緯と人的系譜
  第二節 農本的社会改造論に内在した「愛国革新本義」論
  第三節 橘の農本的社会改造論と昭和ファシズム
  第四節 五・一五事件の歴史的位置づけ:事件と公判
  小括
 むすび

II 本論文の要旨

 都市に対する農村、商工業に対する農業の強調を基調とする思潮は特に日露戦後に顕著となるが、それはやがて昭和恐慌期の農本主義の台頭を経て日本ファシズムに同調する重要な思想となるとされている。超国家主義のイデオロギー的特質を農本主義・家族主義・大アジア主義に求める丸山真男はその先駆的提唱者であるが、この丸山説を軸に研究史が形成され、丸山説を批判する系譜の中からは戦前農本主義思想を再評価する潮流も生まれている。

 本論文は、五・一五事件に民間人として関与した橘孝三郎の思想的変遷を明治末から昭和期に至る同時代の思潮の中に位置づけ、その思想的変遷の同時代性と必然性を検証したものである。

 以下、本論文の構成にしたがって内容を要約する。

 「はじめに」では、日本ファシズムと農本主義との関係に着目した丸山真男、橋川文三、小林英夫らの諸説、丸山説に対する松沢哲成、斉藤之雄、綱沢満昭らの諸説が検討され、いずれの場合も橘の思想的変遷を同時代の社会思潮に照らして位置づけているわけではないことを明らかにして、本論文のねらいの有効性を明らかにし、各章の構成を提示する。

 第一章では、橘の思想形成期にあたる水戸中学時代から第一高等学校退学までに焦点をあて、橘の個人観・社会観の特徴とその同時代性を明らかにする。中学時代の橘は『太陽』、『中央公論』、『早稲田文学』を耽読し、高山樗牛、綱島梁川、大西祝、坪内逍遙らの所説にふれ自然主義的人間観、ニーチェの天才至上主義、ツルゲーネフのインテリゲンチャ像等の影響を強く受ける。一高時代には、『校友会雑誌』に寄稿した5編の論文から橘がオイケン、ベルグソン、ジェームスらの影響で自然主義から理想主義へと転換したこと、アメリカの社会学者ギディングスや倫理学者ファイトの影響を強く受けたこと、社会のあり方はそれを構成する個人の精神性に規定されるとする社会観と理想主義的な個人観を獲得したことを、この時期の多くの刊本や雑誌論文と橘の論文とを丹念につきあわせな がら明らかにする。

 第二章では一高中退後から愛郷会設立までの帰農生活の期間を扱う。橘の帰農はロマン・ローランの『ミレー評伝』に触発されたものであり、花卉栽培や農業機械、温室などを備えた農場経営と農業と芸術との統合を目指す生活様式は「兄弟村」と呼ばれて注目を集め、武者小路の「新しき村」と併称されるようになったが、実際の農場経営は経済合理性を欠いたために破綻し、橘は病に倒れる。この間の一連の経験から橘は、農村の土地生産組合と都市の消費組合の結合によって社会改造をなしとげようと構想するようになる。このような考え方の背後には、カーペンターやオッペンハイマーの影響が色濃く見られ、オッペンハイマーのSiedlungsgenossennshaftを橘が「愛郷組合」と訳していることを指摘する。また、この時期にはマルクス主義が社会思潮に大きな影響をもつようになるが、橘はそうした考え方に同調せず、失業問題や食糧問題は農民の自覚と自助努力で解決可能なものとして新聞紙上にも論陣を張り、県の農政調査委員会に招かれたり農民向けの講演活動に取り組むようになる。

 第三章では愛郷会の発足の事情とその性格を検討する。筆者はまず、橘が構想する社会改造は農民の自覚と努力によるものであり、したがって愛郷会発足の契機は橘の社会改造論からは出てこないことを指摘し、橘の講演を聴いた小学校訓導・後藤圀彦の音頭で会が発足したことを明らかにする。それは、理想的な個人によって社会が構成されれば経済状態は自ずから改善されるとする橘を、後藤らが農村経済改善の指導者と誤認したためであった。期待に反して自助努力と人格のみを強調する橘に農村青年たちは失望し、橘自身も窮乏からの脱出のみにこだわる会員に苛立ちを露わにするようになり、これが農村青年の教育機関である愛郷塾の発足と国家レベルでの啓蒙活動への志向につながる、とする。

 さらに筆者は、橘が展開した運動を同時代の農民自治会運動と比較し、後者が農民の経済的問題の解決をも目指したのに対し、前者にはそうした志向が欠落している点を強調し、両者を同列に論ずる通説的理解を批判する。

 第四章は橘の農本的社会改造論の集大成である『農村学』(1931年刊)の検討に宛てられる。ここでの橘の主張は多岐にわたるが、失業・食糧対外依存・貿易入超問題をこの時期の国家的問題とし、その解決の道は都市的な論理に基づく社会主義運動に依るのではなく農村を土台とすべきとし、農業と工業との有機的結合による理想社会の実現を説く。さらにそのためには農業の国家的役割に対する農民の自覚と自助努力の重要性を指摘し、営利を至上目標とする資本主義精神に代えて徳性と勤労意欲に支えられた農民の必要を力説し、日本社会の現状を分析した上で、農民自身が資本主義精神を勤労精神で克服し、農民の勤労精神と団結によって支えられた「厚生主義社会」の実現を目指すべきであるとするが、筆者によれば、この主張は、国家・社会のために工業と農業の均衡のとれた発展を図ることが第一義的な目的であり、そのために農民の利益が犠牲にされるのであって、農業・農村・農民の利害に第一義的な関心をおく農本主義とは異なるものであるとする。

 第五章では五・一五事件の経過が示された後、橘の五・一五事件に対する認識と事件後に作られた事件や橘の農本主義者イメージが検討される。筆者はまず橘の事件への関与はむしろ消極的なものであり、変電所を襲撃して東京を暗黒化することにより人心の覚醒を図ろうとするものであったとする。ついで事件直前に執筆した『愛国革新本義』と満州逃亡中に執筆した『国民共同体王道国家農本建設論』が検討され、橘の日本改造構想の核心が営利精神征伐と勤労精神文明の創出によって生み出された社会、個人の利己心と個人観の争いと生活苦から解放された社会であること、そのモデルが同時代の思潮に影響されて儒教的仁政に基づく道徳的共同体として描かれていることが明らかにされる。さらに五・一五事件の公判記録や新聞記事などが丹念に分析され、橘と青年将校の思想的接点が財閥 をはじめとする国民精神への批判にあること、事件のイメージは公判過程で作り上げられたものであり、そのイメージから逆に橘の思想が裁断されてきたことを明らかにする。

 「むすび」では、第一に、橘の思想が各時期の社会的課題と思潮を如実に反映したものであり、また社会的課題を反映する度合いが強まるに従い政治性を帯びることになり、五・一五事件事件直前にはファシズムを正当化する論議に行き着いたこと、第二に、橘の思想の核心が国民精神の改造にあること、この点は国民精神総動員運動に通ずるものであり、橘と日本ファシズムとの位置関係を示すものであること、第三に、従来の研究史には大きくわけて、農本主義を悪とする丸山真男の所説の系譜と農本主義にユートピア思想や人間性回復のロマンを読みとろうとする系譜があるが、筆者はむしろ橘の掲げたヒューマニズムや勤労主義から人間抑圧の論理が構築された点に注目すべきであると指摘する。

III 本論文の成果と問題点

 本論文の成果として、以下の点をあげることができよう。

 第一に、橘孝三郎の思想的変遷を正面から取り上げ、一貫した流れとして描き出したことをまず指摘できる。筆者が論文中で再三指摘するように、橘孝三郎の思想と五・一五事件への関与をこのような方法で明らかにした先行研究は全くなく、これまでの橘孝三郎像を一新することに成功している。

 第二に、橘の書いた論文と論文執筆と同時期の刊本や雑誌論文を丹念に照合し、橘の論文の背後にある思潮を明らかにしながら、橘の思想の位置を同時代の思潮の中に位置づけることに成功したこと。筆者が論文中で用いた同時代の刊本や雑誌論文の本数だけでも膨大な量に上り、筆者の執念と熱意は賞賛に値する。

 第三に、こうした地道な実証手続きを経たことで、従来の研究史にはない新たな知見を付けくえわえることに成功している。たとえば、大正理想主義とファシズム思想の親和性を指摘する論者もあったが、その具体的な事例を初めて明らかにしたこと、明治末から大正初期のアメリカ社会学やプラグマティズムの影響などを具体的に明らかにしたことなどは、今後の思想史研究のみならず文化史や社会史の研究にとっても意味が大きい。

 以上のような到達点にもかかわらず、以下のような問題点も指摘できる。

 第一に、筆者がファシズムをどのように定義づけているのかが必ずしも明快ではないことである。このため、橘の社会改造論そのものがファシズム思想であるのか、社会改造論事態はファシズムと親和的であるというレベルにとどまるのかが判りにくくなっている。

 第二に、論理の運びが時として生硬になっていたり、あるいは分かり易さという点で筆の足りない箇所がみられることである。そのために難解に傾く点のあることが惜しまれる。

 だが、こうした問題点にもかかわらず、審査委員会は、本論文が博士の学位を授与するのに必要な水準を達成していることを認定し、ススィ・オング氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2000年6月14日

 2000年6月26日、学位請求論文提出者ススィ・オング氏の論文についての最終試験を行った。
 試験において、提出論文「大正初期の理想主義から昭和初期の社会改造論へ」に基づき、疑問点について審査員が逐一説明を求めたのに対して、ススィ・オング氏は、いずれにも適切な説明を行った。よって審査委員会は、ススィ・オング氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績及び学力を有するものと認定し、合格と判定した。

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