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博士論文審査要旨

論文題目:十八世紀における<知>の形成と展開―幕臣・成島道筑と在地の指導者の学問・思想の関係性―
著者:鈴木 愛 (AI, Suzuki)
論文審査委員:若尾政希、渡辺尚志、石居人也、友部謙一

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1 本論文の概要

 本論文は、奥坊主組頭や御同朋格御書物預として、江戸幕府八代将軍徳川吉宗に近侍した成島道筑(錦江、1689~1760)と、彼の門に集った江戸近郊の村役人(在地の指導者)との関係性に着目して、18世紀の地域社会に必要とされた<知>がいかに形成されたのか、その歴史的意義を解明しようとするものである。二部構成であり、第一部では、「幕臣・成島道筑の基礎的研究」と題して、道筑の学問と思想がどのようなものであったのかについて、その思想形成の過程を踏まえて、徹底的に解明している。第二部「十八世紀における在地の指導者の思想」では、道筑の門下で学んだ、奥貫友山(1708~1787)、池上幸豊(1718~1798)、田中休愚(1662~1729)ら在地の指導者が道筑とどのように関わり、どのような思想を形成し、いかなる実践を行ったのかを明らかにしている。

2 本論文の成果と問題点

 本論文の第一の成果は、幕臣成島道筑、武蔵国川越藩領久下戸村名主の奥貫友山、武蔵国川崎の大師川原村名主池上幸豊、著作『民間省要』を将軍吉宗に献上した川崎宿名主田中休愚、この4名のそれぞれの思想形成の過程を解明した点である。これまでの日本近世思想史研究では、ある人物の著作を史料にして、その思想構造を把握するにとどまることが多く、その人物の思想がどのように形成されたのかを解明するような研究は少なかった。本論文は思想形成の過程を探ろうとした貴重な研究であり、この点を本論文の成果として評価したいと思う。
 第二に、著者は、この4名の人物が書き残した著作類(まとまった著作だけでなく、遺書や記録等様々なものを含む)を分析するにあたって、その作者がそれを書き著すにあたって、どのような知識を利用しているのか、具体的に解明している。これについても、日本近世思想史研究の水準を引き上げたものとして、高く評価できる。これが第二の評価点である。その知識には、彼が読んでいた書物によるものもあり、あるいは、ある人物からの直接(あるいは間接)の聞き書きによるものもある。著者は、著作類の分析を通して、たとえば、成島道筑が奥貫友山に<知>を与える一方で、逆に友山から在地の<知>を学ぶというような、<双方向の知>のやりとりがあったことを解明している。個々の人物の思想形成の研究に、関係史的視点を持ち込んだと評することもでき、これを本論文の第三の成果として意義づけたいと思う。
 道筑と友山、道筑と休愚、道筑と幸豊との間に、一方的な教導関係ではない、相互の関係が成立しているのだが、そうした場で話題にされているのは、他ならぬ、18世紀の地域社会に必要とされた<知>のあり方であった。将軍吉宗による享保の農政改革をいわば下支えしたのが、彼ら在地の指導者であり、その中心に成島道筑がいたことを著者は明らかにしている。言い換えれば、道筑のもとに集積された「民間社会」の<知>を踏まえることによって、はじめて行い得たのが享保の農政改革であったことを、著者は説得的に述べている。これが、本論文の第四の成果である。
 第五に、本論文において著者が、在地の指導者の葛藤と苦悩―それは上(領主層)からの押しつけと、下からの突き上げに挟撃されているが故にもたらされるのであるが―を、見逃すことなく叙述していることも、重要な成果である。著者によれば、そうした葛藤・苦悩は、師である道筑の思想にも大きな影響を与えていった。すなわち、かつては享保農政改革の陰の立役者とでもいうべき位置にあった道筑が、晩年に執筆した『農事大全』では、それを厳しく批判していたことを、著者は明らかにしている。思想史研究の成果にもとづく新たな政治史叙述として高く評価することができるであろう。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより残された課題がないわけではない。著者は本論文において、上と下との間に挟まれ苦悩する中間層の姿を描いてみせた。だが、いうまでもなく、そうした人々が苦悩したのは、この時期に限ったことではない。近世を通じて、それぞれの時期の中間層の苦悩の内実をしっかりと把握し、時期ごとにどう変化していくのかを丹念に追究しないと、18世紀前半の時代性をつかまえることはできない。もちろん、こうした点は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、また著者もすでに自覚しており、近い将来の研究において克服されていくことが充分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2018年2月14日

2017年12月27日、学位請求論文提出者・鈴木愛氏の論文についての最終試験を行なった。本試験において、審査委員が、提出論文「十八世紀における<知>の形成と展開―幕臣・成島道筑と在地の指導者の学問・思想の関係性―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。よって、審査委員一同は、鈴木愛氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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