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博士論文審査要旨

論文題目:日韓の歴史教科書問題に関する政治史的考察―1982、1986、2001年の事例から―
著者:李 宣定 (LEE, sunjung)
論文審査委員:吉田裕、木村元、中北浩爾、加藤圭木

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1、 本論文の概要

 周知のように、1980年代以降、日本の歴史教科書の叙述内容や政府の検定方針が東アジアにおける国際関係の大きな争点として浮上してきている。本論文は、1982年、1986年、2001年の事例を中心にして、日韓関係を分析の対象としながら、教科書問題がいつ、なぜ外交問題化し、どのような政治過程を経て「終結」するのかを具体的に明らかにした労作である。歴史教科書問題の研究では、日韓間の歴史認識の相違が中心的な論点となる傾向がある。しかし、本論文では、両国の世論の動向に詳細な分析を加えつつ、日韓両国政府の外交交渉の過程に焦点をあわせた点に大きな特徴がある。

2、本論文の成果と問題点

 本論文の成果としては、次の三点を指摘できる。第一には、教科書問題をめぐる日韓両国間の外交交渉の過程を一次史料に基づいて本格的に解明した最初の実証的論文である。申請者が使用した主な史料は、日本側の史料としては情報公開制度によって開示された外務省の史料、国会の会議録、韓国側では国会の会議録などである。ちなみに韓国では外交通商部が外交文書の不開示方針をとっているものの、国会での審議では重要な文書が開示されることが少なくない。申請者は、日韓両国のこうした史料を精力的に収集し丹念な突き合わせ作業を行なうことによって、日韓両国政府が、自国のメデイア対策にも取組みつつ、水面下の交渉によって妥協点を見いだしていく過程を克明に明らかにしている。妥協の背景にあるのは、日本側としては、「戦後処理」の一環である歴史教科書問題を何らかの形で解決したいという政治判断であり、韓国側では日本の経済援助、経済協力に影響を及ぼしたくないという判断だった。
 第二には、教科書検定の結果が公表されるたびに、教科書問題が外交問題化するわけではなく、結果が公表される時期に、植民地支配を美化し、あるいは正当化する日本政府高官による「妄言」が発せられると世論が沸騰し、それに押される形で韓国政府が外交問題化することを明らかにしていることである。この問題では日本と韓国の主要新聞のデータベースを利用したキーワード検索の手法が分析の大きな柱となっている。
 第三には、日本史の教科書に対する右派からの攻撃が始まる1990年代後半の分析がやや手薄だとはいえ、歴史教科書問題が大きな外交問題となった1982年、1986年、2001年の三つの時期を比較することによって、2001年の時点で日本政府の教科書問題に対する政策が大きく転換したことを明らかにしたことである。2001年4月に組閣した小泉純一郞内閣は、検定制度を採用している日本では政府が教科書の内容に介入することはできないという公式見解を繰り返し、「新しい歴史教科書をつくる会」が編纂した中学校の日本史教科書に対する韓国政府の改善要求に全く応じようとはしなかった。以後、韓国政府はユネスコなどを通じて日韓歴史教科書問題を国際社会に訴えていくことを余儀なくされる。日本政府、特に本論文との関係で言えば外務省の政策転換の背景など、さらに深められるべき課題が残るが、日本政府の政策転換を実証的に裏付けたことの意義は大きい。
 以上のように、本論文には貴重な成果が認められる。しかしながら、問題点も存在する。
 第一には、日韓間の外交交渉における日本政府の対応に焦点があわせられる
反面で、教科書検定制度の実態、特に運用面での実態がほとんど明らかにされていない。運用の実態にまで踏み込んで分析しなければ、日本政府の対応を全体として分析したことにはならないのではないか。第二には、1987年の6.29民主化宣言以降の韓国における民主化の進展が、韓国政府の歴史教科書に対する政策にどのような影響を及ぼしたのという問題がほとんど分析されていない。2001年の「新しい歴史教科書をつくる会」編纂の教科書に対する韓国内の反対運動については詳しい分析がなされており、多様な市民運動の存在が確認できるだけに、政府の政策との関連を明確にする必要があるだろう。第三に、分析手法という点では、データベースを利用したキーワード分析の問題がある。本論文では、こうした定量分析の手法が多用されているが、その手法の持つ限界や問題点について、もう少し自覚的であるべきだろう。
もちろん、以上のような問題点は、本論文の学位論文としての価値を損なうものではなく、李宣定氏自身もその問題点を充分に自覚しているところである。今後の研究の中でこうした問題点は克服できるものと判断する。

最終試験の結果の要旨

2018年2月14日

2018年1月16日、学位請求論文提出者・李宣定氏の論文について、最終試験を行った。本試験において、審査委員が提出論文「日韓の歴史教科書問題に関する政治史的考察―1982、1986、2001年の事例から―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、李宣定氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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