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博士論文審査要旨

論文題目:近代満洲における農業労働力と農村社会
著者:菅野 智博 (KANNO, Tomohiro)
論文審査委員:佐藤仁史、加藤圭木、洪郁如、 江夏由樹

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1 本論文の概要

 本論文は、「満洲国」期から国共内戦を経て中華人民共和国建国初期にいたる時期の満洲(中国東北地方)における農村社会の実態と変容について、農業労働力と農家経営を切り口に分析したものである。満洲における農家経営は専ら経済史ないしは農業史の領域において取り上げられてきたが、本論文では社会史的な視点からの分析が導入されている点に方法的な特徴がある。序章と終章を除くと全六章からなり、そのうちの五章はもっぱら「満洲国」期を対象としている。

2 本論文の成果と問題点

本論文の第一の成果は、満洲農村の社会編成を決定づけることになった原因を農家経営から具体的に明らかにした点にある。特に、雇用労働力や家庭内労働力の分配に着目したことにより、満洲における農家経営の特徴を浮かび上がらせることに成功しているばかりでなく、北満洲と南満洲という地域内部の差異も説得力をもって示されている。このような成果は新たな手法の導入に裏打ちされている。すなわち、従来法制史の分野で用いられてきた分家文書と族譜と組み合わせて進められてきた農家経営分析や、日雇い労働力が雇用される労働市場に対する歴史地理学的手法のことを指す。農村経済史研究の手法と社会史研究の手法とを融合させたアプローチは今後の新たな方向性を示すものであると評価できる。
 第二は、農業労働力の地理的移動と職業移動という二つの異なる種類の移動から農家経営のあり方を捉えることで、満洲内部の地域差異を明らかにした点である。前者に就いて言えば、開発が相対的に早く、山東省や河北省からの移動が多かった南満洲に対し、北満洲では満洲内部、とりわけ県内での移動が多かったことが明らかにされた。後者に就いて言えば、鉱工業が発達した南満洲においては非農業セクターでの就労に適応して家庭内労働力や雇用労働力を分配していたのに対して、非農業セクターでの就業機会が極めて少なかった北満洲においては大規模経営に合わせた労働力分配の戦略が採られたことが示されている。そして、南満洲における農家経営が「中国本土」化していたことが実証的に提示されている。
 第三は、1945年8月を越えて近代全体を分析対象としたことによって得られた成果である。これは「満洲国」研究と中国現代史研究とを有機的に接合させる意味において重要な作業であると思われる。本論文では、国共内戦期の中国東北地方において中国共産党が実施した土地改革や互助組の実施過程やそこに見られた問題点から、特に北満洲において土地改革による耕地と役畜の均分が、労働力集約が必要となる大規模経営にとって極めて非合理であったという地域性が明らかにされている。この指摘は、土地改革から集団化に至る中華人民共和国初期史研究にとって極めて示唆的である。
第四は、中国東北地域史研究における史料面における貢献である。本論文で用いられている最も主要な史料は「満洲国」期に実施された各種農村調査の記録である。これらは植民地統治下における調査であることから、その内容について夙に疑義が呈されてきた。氏はこの点を十分に踏まえながらも、自ら発見した家譜や分家文書など社会史史料や、中国語新聞など、異なる性質の史料をつき合わせて検証することにより、農村調査記録の中には極めて正確な情報を含むものも存在していることを突き止めた。このような発見が今後の関連研究に与える波及効果は小さくない。
以上の四点以外にも本論文には少なからぬ成果があるが、残された課題がないわけではない。以下、三点を挙げておく。
 第一は、「満洲国」期までと国共内戦期以降の分析において使用される用語や分析概念の不統一性である。例えば、大経営農家という経済的概念と地主・富農など政治的概念の関係や、旧支配層という用語が示す具体的対象の曖昧さなどがその例にあたる。これらを厳密に定義して使用しなければ、時間軸を長くとる本論文の説得性を十全なものにはしないであろう。
 第二は、満洲と中国本土を比較する際の分析枠組の整合性についてである。本論では満洲の地域性を検討するに際して、県城経済論や小ブルジョア発展論などを踏まえているが、これらの議論を最終的にどのように整合的に消化したのかについては曖昧さが残されている。また、血縁組織の分析においては宗族研究の成果を踏まえる必要もあるが、本論文では明示的な議論が展開されているとは言い難い。
 第三は、史料の操作方法についてである。本論文での主要史料は「満洲国」期における農村調査の記録であるが、これらは量的調査記録(“農村実態調査報告書” “県技士見習生農村実態調査報告書”)と質的調査記録(“一般調査報告書”)とに大別される。しかしながら、性質の異なる史料をどのように組み合わせて、どのように分析を進めたのかについての過程が十分に示されているとは言い難い部分がある。本論文における議論の説得性を高めるために、検証過程を丁寧に示す必要があったように思われる。
もちろん、これらの点は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、また著者も強く自覚しており、近い将来の研究において克服されていくことが十分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2018年2月14日

2018年1月12日、学位請求論文提出者・菅野智博氏の論文についての最終試験を行なった。本試験において、審査委員が、提出論文「近代満洲における農業労働力と農村社会」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。
よって、審査委員一同は、菅野智博氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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