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博士論文審査要旨

論文題目:承認と正義―アクセル・ホネットにおける承認論の社会的正義論への展開―
著者:王 燕敏 (WANG,Yanmin)
論文審査委員:大河内泰樹、加藤泰史、田中拓道、宮本真也

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1、 本論文の概要
 本論文は、現代ドイツの哲学者アクセル・ホネット(Axel Honneth 1949-)の社会哲学の発展過程を、1992年の『承認をめぐる闘争』から2011年の『自由の権利』にいたるまで詳細に辿り、ホネットが1992年に打ち出した承認論が、さまざまな批判に対して応答しながら、いかにして社会的正義論へと発展してきたのかを明らかにした研究である。
 王氏は、ホネットが、ハーバーマスのコミュニケーション理論が当初持っていた批判力を有する批判的社会理論を構築するという動機から出発し、『承認をめぐる闘争』(1992年)で初期ヘーゲルの承認論を受容しながら、そこにG・H・ミードの間主観性理論を結び付けることで「承認」を自然主義的に再解釈する過程を明らかにし、この基本コンセプトのもとで、「愛」「法」「連帯」という承認の三形式の定式化するに至る過程を再構成する。
 また王氏は、『承認をめぐる闘争』以降ホネットに対してむけられた、ナンシー・フレイザー、アルト・ライティネン、ハイキ・イケハイモによる批判に対する応答を通じた、ホネットの承認論の発展過程を明らかにし、その到達点として、2011年の大著『自由の権利』における社会的正義論を位置づける。そこでは「規範的再構成」という方法論によって近代の不十分な自由が病理を生み出すという「社会病理学」を含む正義の構想が示されるとともに、「パーソナルな関係の制度領域」、「経済市場的行為に関する制度領域」、「政治的公共性の制度領域」という三つの領域における「社会的自由」が、ヘーゲルの人倫(家族・市民社会・国家)にかわるポスト伝統的社会における自由の領域として展開されていることが明らかにされている。

2、 本論文の成果と問題点
 以上の要約からも明らかであるように、本研究は1992年の『承認をめぐる闘争』から2011年の『自由の権利』にいたるホネットの批判的社会理論の全体像を明らかにしており、この点が本論の第一の成果といえる。ホネットの批判的社会理論については、これまでも研究がなかったわけではないが、特に90年代から2000年代前半の議論に限定されており、第二の主著といわれている『自由の権利』までを射程に入れて、その全体像を明らかにした研究はこれまでなかった。この点において、本研究は大きな貢献を果たしているといえるであろう。
 第二の成果は、ホネットのテキストのみならず、ホネットが参照している、多数の哲学者や社会理論家、精神分析理論家の議論を参照し、ホネットが彼らの影響を受けながら、どのような論点を取り入れ、自らの理論をどのように発展させたのかを明らかにしている点である。ホネットが参照する議論は、社会哲学における古典から、現代の社会心理学、精神分析理論にまでもおよぶ多様なものであるが、王氏はそれらの議論をテキストに直接あたりながら、本書の論述を説得力あるものとしている。例えば初期ヘーゲルにおいて承認が論じられるようになる過程を整理しながら、ホネットの承認論の動機が、ヘーゲルの観念論的な前提を取り除くことにあったことを明らかにし、特に「愛」と「法」という承認形式の形成にヘーゲルの初期のテキストが重要な役割を果たしていることを明らかにしている。また、ヘーゲル承認論の観念論的前提を乗り越えるため、ホネットがG・H・ミードの間主観性理論を受容し、ミードの社会心理学を、ヘーゲル承認論を精緻化したものとして理解することで、「承認」を自然主義的に再解釈し、さらに「連帯」という承認形式の定式化に、ミードの社会的分業理論が重要な役割を果たしたことを明らかにしている。その他にも、マルクスの「ミル評注」、ウィニコットの対象関係論などについても検討し、ホネットの理論構成に果たした意義を明らかにしている。
 第三の成果は、ホネットが『承認をめぐる闘争』において、自らの批判的社会理論の基本的なスタンスを明らかにして以降、同時代の様々な社会理論家の批判を受けながら、みずからの承認論に修正を加え、深化させていく過程を明らかにした点である。これまで、それぞれの論争については紹介されてきたが、それをホネットの批判的社会理論そのものの発展過程の中に位置づけ、連関を明らかにしたものはなかった。フレイザーの批判を通じてホネットは再分配とアイデンティティ・ポリティクスの問題を彼の承認のモデルの中に位置づける必要を自覚させられた。それによって、「個人化」と「社会的包摂」という二つの基準を導入し、愛の原理、平等原理、業績原理という正義原理を構想したとする。また、ライティネンとイケハイモは、それぞれ承認の「受容モデル」と「帰属モデル」とを提起するものであったが、これに対して応答する中でホネットは社会文化と歴史的過程における実践的な経験の中で価値が実現されるとする穏健な価値実在論を採用することになる経緯が明らかになる。さらに、『承認をめぐる闘争』において、ヘーゲルの承認を自然化するにあたって重要な役割を果たしていたミード受容も修正され、ドナルド・ウィニコットとハンス・レイワルドの精神分析を受容することになったことが示される。この点においても、本研究は重要な貢献をなしているといえよう。
 このように、本研究はたいへんすぐれた成果をともなっているものの、問題点がないわけではない。第一に、ホネットによるミード受容について、なぜ90年代の肯定的な評価から、2000年代の消極的な評価に変化し、どのような問題がそこに見出されていたのかが必ずしも明確でない点である。第二に、本論文は上記のように、ホネットの議論に寄り添いながら、丁寧にその理論的背景も含めて、その意図を汲み、再構成するものであるが、ホネットの議論自身にたいする筆者自身の評価が必ずしも明確にされていない点である。
 しかし、以上の問題点については、王氏本人も自覚するものであり、今後の研究の進展によって解決されることが期待される。審査員一同は、本論文が明らかにしたことの意義を高く評価し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2017年11月8日

 2017年10月3日、学位請求論文提出者の王燕敏氏の論文について最終試験を行った。本試験において審査員が提出論文「承認と正義─アクセル・ホネットにおける承認論の社会的正義論への展開─」について疑問点を質問したのに対し、氏はいずれの質問においても十分な説明を行った。
 よって審査員一同は、王燕敏氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規程により一橋大学博士(社会学)の学位を受容されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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