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博士論文審査要旨

論文題目:第二次世界大戦直後の東アジアにおける大国の働きと朝鮮民族の対応:朝鮮半島と日本地域を中心に
著者:洪 仁淑 (HONG, In Sook)
論文審査委員:糟谷憲一、田中宏、三谷孝

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1.論文の構成

 本論文は、第二次世界大戦直後における米ソ両大国主導による東アジアの秩序再編の動きが、小国である朝鮮における自主的政府樹立運動を挫折させ、在日朝鮮人の社会をも分断させるものであったことを、実証的に解明した研究である。本文及び注の部分だけで400字詰原稿用紙に換算して約700枚に及ぶ大作であり、その構成は次のとおりである。

 はじめに
 序章 (1 問題関心と研究の意義/2研究史整理 /3 研究の対象と史料)
 第1章 大国米ソによる戦後東アジア再編成の構図
  第1節 ヤルタ会談以前段階における大国の東アジア再編の論議
  第2節 ヤルタ会議と東アジア再編成論議の本格化
  第3節 原爆と東アジアの再編成論議の帰着
 第2章 米ソの対朝鮮政策の展開
  第1節 アメリカの対南朝鮮政策の展開
  第2節 ソ連の対北朝鮮政策の展開
 第3章 朝鮮における自主的政府樹立運動の展開
  第1節 自主的政府樹立運動の開始
  第2節 信託統治問題と自主的政府樹立運動の展開
  第3節 統一政府運動の展開
 第4章 GHQの在日朝鮮人政策
  第1節 在日朝鮮人の法的地位
  第2節 GHQの引揚政策
  第3節 在日朝鮮人取締体制の確立と同化政策の展開
 第5章 在日朝鮮人運動の展開
  第1節 在日朝鮮人運動の出発
  第2節 朝鮮信託統治問題と在日朝鮮人運動の亀裂
  第3節 在日朝鮮人引揚の終結と在日朝鮮人運動の転換
  第4節 朝鮮単独政府樹立過程と在日朝鮮人運動の左右対立
 結論
 参考文献

2.本論文の概要

 序章では、まず第二次世界大戦後の世界秩序の再編が小国と大国との対立・拮抗関係のもとで展開されたがゆえに、戦後の世界再編成の本質を小国の目を通して評価し直すことは重要な意味があることを説き、その重要な一部分として朝鮮の問題を検討したいとの問題関心が示される。ついで小国と大国との対抗を探る視点は、第一に大国間の「協調体制」の面をより明確な形で把握することを、第二に朝鮮の問題においても朝鮮現代史を、左右対立の側面だけを強調する方法から脱皮して、大国の遠心力と朝鮮民衆の求心力との間の緊張関係という構図から再照明することを可能にするものであると、論じている。

 つぎに研究史の整理が、(1)米ソの東アジア政策に関する研究、(2)朝鮮における政府樹立運動と在日朝鮮人運動についての研究に分けて行われる。(1)に関しては、まず伝統主義(冷戦の原因をソ連の膨張政策に求めた)を批判する修正主義の立場に立ったにブルース・カミングスの研究の問題点を指摘している。それは(a)ソ連の政策を相対的に肯定する論理をつくり出すことになる点、(b)朝鮮での左右対立をただ内在的なものと単純化し、それが米ソの分割占領と親米・親ソ派の扶植過程で増幅されたことを過小評価する点である。ついで冷戦体制がつくり出されたのには米ソともに責任があるとする折衷主義の立場に立つものとして、鄭海亀・李圭泰の研究を検討している。その結果、折衷主義の研究も、大国の同質性、米ソに対抗しつつ自主独立を指向した運動については適切な分析のフレームを提起していないと批判する。(2)に関しては、まず韓国における解放直後(第二次世界大戦直後)史研究の水準を集大成した徐仲錫の研究も、左右の対立を大国米ソとの関連で分析している視点を欠いており、大国との拮抗関係のなかで自主的政府樹立運動を指向する勢力を中心に置く構図の設定にまでは到っていないと批判する。また在日朝鮮人運動研究の現状を検討し、戦後東アジアの秩序における大国と小国との拮抗という視角を欠いており、日本社会の差別構造とそれに対する批判・抵抗という比較的単純化された構図から議論を展開していると、批判を加えている。

 序章の最後では、本論文の研究対象と使用した史料について概観している。

 第1章では、米ソによる第二次世界大戦後の東アジア秩序の再編過程、及びその過程での大国と小国との相剋関係の形成を明らかにしている。第1節では、1943年10月の米英ソ三国外相のモスクワ会議を起点として、ヤルタ会議以前の連合国の諸会議において、戦後の世界及び東アジアの再編成の問題がどのように議論されたかを跡づけている。モスクワ外相会議の際のクレムリン晩餐会の席上、スターリンは初めて対日参戦の意思を表明する。これを受けて11月の米英中の第1次カイロ会議の際に、ルーズベルトは蒋介石に大連を自由港として譲ることを要請した。ソ連が中国と協調することなどを条件に蒋介石がこれに同意すると、11月末から12月初めの米英ソのテヘラン会議の際に、ルーズベルトはスターリンに、ソ連の不凍港獲得のために大連を国際的自由港化する案を提示した。これはソ連の対日参戦の代償を準備したものであり、こうした大国間の利害調整は中国を犠牲とするものであった。またカイロ会議の結果発せられた、カイロ宣言の「しかるべき手続を踏んで」朝鮮を独立させるという文言は、戦後における朝鮮の独立政府の樹立過程に大国が関与していくことを可能にする重要な規定要素として作用することになった。

 第2節では1945年2月のヤルタ会談で成立した秘密協定を分析している。ヤルタ協定により、極東におけるソ連の勢力圏ははるかに広がり、ソ連は代償を付与される位置から、極東の戦後再編成の内容そのものを決定する中心軸の一部に格上げされた。中国の蒋介石政権はヤルタ協定の内容を受け入れざるをえず、不安定で複雑な米ソの協調体制―ヤルタ体制が成立した。第3節では、ヤルタ会議では極東における米ソの勢力圏はなお未確定であったが、アメリカの原爆投下、それに対応してのソ連の対日参戦が、米ソの勢力圏角逐を本格化し、アメリカの日本単独占領、38度線による朝鮮の分割占領という線で一段落した経緯を述べている。こうした東アジアにおける戦後再編成は、中国・日本及び小国朝鮮の立場から見ると、大国が一方的に決定した構図が強要されたことにほかならず、これによって大国と小国の間の対立関係は明白に形成されていたと、著者は論じている。

 第2章では、分割占領後におけるアメリカの対南朝鮮政策、ソ連の対北朝鮮政策の基調を分析している。第1節では、まず1945年9月8日に南朝鮮の占領を開始した米軍が、自発的な政府樹立運動と対立し、朝鮮人民共和国を否認し(10月10日)、各地域の人民委員会を容赦なく弾圧したことを明らかにしている。また10月17日に伝えられた占領政策の指針「朝鮮民政に関する基本指針」の分析を通じて、アメリカの対南朝鮮政策は現地占領軍の排他的・強圧的な統制政策の方向を基底にしつつ、軍政実施の結果と英中との協力を土台にアメリカに有利な方向で信託統治を実施するというコースを骨幹にしていたと論じている。さらに翌46年までを対象として、米軍政の統制・弾圧政策の展開過程を、労働者の自主管理運動や労働争議への弾圧、人民共和国傘下の自主的な軍事組織である国軍準備隊・学兵同盟の弾圧と解散(46年1月)、46年5月頃から本格化する朝鮮共産党など左派への弾圧、新聞の廃刊措置などにわたって詳細に跡づけている。最後に、全朝鮮に親米政権を樹立するための信託統治案は、46年には米ソ共同委員会の展開過程を通じてしだいに実現可能性を失っていったので、米軍政は自主的な政府樹立運動を弾圧する一方、親米勢力育成政策をより強力に展開するようになったとされ、左派勢力に対する強力な弾圧政策の展開は米軍政のこのような政策基調が表面化したものであると、著者は論じている。

 第2節では、まず咸鏡南道・平安南道・黄海道における地方政権の成立過程の分析を通じて、ソ連の北朝鮮占領政策は表面的には朝鮮人の自主的な政治運動を認めながらも、左右両派連合形式の地方政権機関をソ連軍政の主導で形成していく方法で展開したこと、その基本政策は親ソ的な左派の積極的支援にあったことを明らかにしている。次に1945年9月20日付のスターリン指令の内容を検討し、北朝鮮に「反日的な民主主義政党」のブロックを基礎とした「ブルジョア民主主義政権」を樹立するという表現のもとで、実際には共産党を中心とする北朝鮮だけの親ソ政権の樹立を目標としていたと論じている。

 第3章では、南北朝鮮における自主的政府樹立運動の展開過程を検討している。第1節では、まず解放当時の政治勢力の配置を説明したのち、1945年8月15日に開始される呂運亨らによる建国準備委員会(以下、建準と略す)の結成過程、建準の組織構成(初期の左右連合としての性格と9月4日以降における左派の影響力増大)、米軍進駐を前にしての全国人民代表大会開催と朝鮮人民共和国(以下、人共と略す)の樹立(9月6日)、重慶の臨時政府(以下、臨政と略す)系・右派をも包摂しようとした人共の各部責任者の構成や施政方針などにわたって、初期の自主的政府樹立運動の展開過程を跡づけている。

 第2節では、1945年12月末に信託統治問題の登場する時期までの南北朝鮮の政局を、(1)信託統治問題登場以前の南朝鮮、(2)同じ時期の北朝鮮、(3)信託統治問題登場直後の南北朝鮮に3区分して詳述している。(1)ではまず9月8日の米軍進駐を機に、右派勢力が韓国民主党を結成し、人共批判を展開したこと、弾圧の主要対象となった朝鮮共産党は、朴憲永の指導下に「国際路線」の名分を掲げてソ連寄りの傾向を強くしていったことを述べ、解放後の政局に親米右派と親ソ左派が姿を現わしたと論じている。次に10月16日の李承晩の帰国とその大同団結の呼びかけは反響を呼んだが、結局は親日派・民族反逆者の排除問題をめぐって李承晩と朝鮮共産党・人共とは決別し、親米右派と親ソ右派との対立が激化していったこと、11月末に臨時政府の金九らの帰国によって、臨政中心の自主的な政府樹立の可能性も生じたが、朝鮮共産党の臨政との決別宣言によって現実性が失われたことを明らかにしている。(2) ではまず北朝鮮においてはソ連軍が8月下旬までに全域を占領したが、ソ連軍とともに入国したソ連系朝鮮人についで、9月には金日成ら東北抗日連軍出身の満洲派が帰国したことを述べ、こうした事情が満洲派・ソ連派からなる親ソ左派がソ連軍の支援下に早くから政局の主導権を握ることを可能にしたと論じている。次に親ソ左派が主導権を握る過程を明らかにしている。10月17日の朝鮮共産党西北五道責任者及び熱誠者大会において朝鮮共産党北朝鮮分局が設置され、ソ連の権威を背景にソウルの党中央から分離独立した北朝鮮だけの共産党がつくり出されたことは、植民地期に国内で非合法活動を続けて地方に基盤を持っていた国内派を牽制し、親ソ的金日成勢力を扶植するきっかけとなった。12月17日の北朝鮮分局第3次拡大執行委員会は金日成を責任秘書に選出し、これ以後に党員証交付事業が進められて国内派の排除が始まった。また金日成が「民主基地路線」(北朝鮮の民主化が統一朝鮮樹立の前提とする、先改革後統一の路線)を主張し、北朝鮮だけの政権樹立の動きを明示したことは、それまで不安定な連合を組んできた曹晩植など民族主義右派(先統一後改革論者)との対立を表面化させた。北朝鮮の状況は、自主的な統一政権樹立を志向する求心力がほとんど作用しないまま、大国ソ連の求心力に引っ張られてる方向に転回したのである。(3)ではまずモスクワの米英ソ三国外相会議が12月27日に発表した協定の朝鮮関係部分の内容(米ソ共同委員会の設置→朝鮮の民主的諸政党・社会団体との協議→臨時朝鮮民主主義政府の樹立→5年間の米英中ソによる信託統治→朝鮮政府樹立)を示し、アメリカは信託統治の過程でソ連を孤立化させ、親米的朝鮮政府の樹立をねらい、ソ連は左派の影響力が強い臨時朝鮮政府を実現させれば、臨時政府とソ連との連合で親ソ的な朝鮮政府の樹立が可能ともくろんでいたこと、しかも「民主主義諸政党・社会団体」という曖昧な規定に見られるように、米ソどちらでも合意に応じなければ決定できない構造を備えておいて、自国に不利な状況ではいつでも合意を拒否できるような装置を作ったことを指摘している。次に三国外相会議決定が伝わると、南朝鮮では臨政・李承晩・韓国民主党・人民党(11月に呂運亨らが結成)・朝鮮共産党など、すべての政治勢力が信託統治反対の立場を明らかにしたことを述べ、信託統治問題は深刻な危機状況をもたらしたが、左右連合と強力な信託統治反対運動が可能であれば、自主的政権樹立のための一契機としても作用しえたと論じている。さらに46年1月2日に朝鮮共産党が突如として三国外相会議決定支持を、翌日には信託統治を受け入れると表明したことが、再び激しい左右対立の状況をもたらした経緯を述べ、朝鮮共産党の急旋回はソ連の指令によるという説が妥当であること、人民党が三国外相会議決定の肯定的な側面、米ソ共同委員会と朝鮮の民主的諸政党・社会団体との協議による臨時朝鮮政府の構成については支持したことは、自主的な政府樹立運動の新しい方向を示したものと見られることを明らかにしている。最後に北朝鮮においては、三国外相会議決定に支持を表明することが支配的であった状況のなかで、曹晩植が反対して粛清された経緯を述べている。

 第3節では、(1)1946年5月から47年まで南朝鮮において展開された左右合作運動の過程、(2)48年に展開された南北協商運動の過程を具体的に明らかにしている。(1)の内容は次のとおりである。3月20日に米ソ共同委員会が開催されると、右派の韓国民主党はソ連攻撃を展開し、左派の朝鮮共産党はソ連追随の態度を表明した。これに対して、呂運亨と新民党の白南雲は左右合作を強く主張した。米ソ共同委員会は、協議対象の政党・社会団体の選定をめぐって対立した。米軍政は李承晩・金九らに対して三国外相会議決定を支持しても信託統治反対運動をできると説得して協議に参加させようとしたが、ソ連はこれを拒否したため、5月8日に無期休会に入った。この局面に至って、アメリカは政策を変更して、右派指導者に代えて新しい勢力を構成して、彼らに臨時政府樹立を推進させようとした。新しい勢力として期待されたのは左右合作を推進する集団であり、5月25日に米軍政庁の斡旋で左右合作の会合が始まった。李承晩は、6月3日の井邑演説で南朝鮮単独政府樹立構想を表明し、左右合作運動に対抗した。呂運亨・金奎植を中心に左右合作運動は推進されたが、7月に左派は合作5原則、右派は合作8原則を発表して対立したため、運動は停頓した。この後、左派代表から朝鮮共産党員を除いて、左右合作委員会は中道左派・中道右派の連合として再開され、10月7日に左右合作7原則を発表した。人民党以外の左派はこれに反対し、右派は単独政府樹立路線の李承晩・韓国民主党と左右合作支持の韓国独立党(金九ら)・韓国民主党脱党派とに分かれた。この結果、左右合作委員会は中道右派によって運営されるようになり、影響力は弱まるが、なお独自の行動を続けた。47年5月に再開された米ソ共同委員会は再び協議対象団体の範囲をめぐって対立して失敗し、7月にアメリカは単独政府樹立路線に傾き、左右合作の牽引車であった呂運亨が暗殺されて、左右合作運動は弱体化し、12月に左右合作委員会は解体された。

 (2)の内容は次のとおりである。1947年9月、アメリカは国連総会に朝鮮問題を上程し、11月14日に国連総会は「信託統治を経ない朝鮮独立と国連監視下の南北同時選挙及び選挙管理のための国連朝鮮委員団派遣」を決定した。48年1月に国連朝鮮委員団が南朝鮮に入り、李承晩・金九らと会談したが、これを機に、南朝鮮単独政府樹立路線の李承晩と南北朝鮮統一路線の金九・金奎植とが完全に分立した。ソ連が国連朝鮮委員団の北朝鮮入りを拒むと、48年2月26日に国連小総会は南朝鮮単独総選挙実施を決定した。金九と金奎植は2月16日に北朝鮮の金日成・金?奉に南北指導者会談開催を提案した書簡を送った。これに対して北朝鮮は3月末に、金九・金奎植提案には答えず、政党・社会団体代表者連席会議と指導者連席会議の開催とそれらへの招請対象者を提案した。4月19日~26日に全朝鮮社会団体代表者連席会議、27日~30日に南北朝鮮政党社会団体指導者協議会が平壌で開催された。5月6日にソウルに戻った金九・金奎植は、会議においては両朝鮮の単独選挙単独政府反対、米ソ両軍撤退要求で一致したこと、北朝鮮当局者も単独政府は絶対に樹立しないと約束したことを述べた共同声明を発表した。 しかし5月10日に南朝鮮の単独選挙は強行され、6月には金日成・金?奉は金九・金奎植に北朝鮮も単独選挙を実施する旨の書簡を送ってきて、南北協商は失敗した。こうして中道派の左右連合・南北統一路線は挫折し、南北朝鮮の政治権力は両極に向かって突っ走りはじめた。

 第4章では、GHQの在日朝鮮人に対する政策の展開過程を検討している。第1節では、GHQが在日朝鮮人の法的地位をどのように定めたかを検討している。まずアメリカの在日朝鮮人政策の形成過程を跡づけ、1945年9月26日作成の「SFE128」で在日朝鮮人の地位は最終的に確定され、「解放民族」であるとともに「敵国国民」とする複雑かつ二義的な性格を与えられたが、その本質には「敵国国民」と見なす考え方が貫徹していたと論じている。次に在日朝鮮人(及び台湾人)の参政権が「停止」された経緯を明らかにしている。45年10月23日に内務省が提出し、閣議決定された「衆議院議員選挙制度改正要綱」は日本居住の朝鮮人・台湾人に選挙権・被選挙権を認めるものであったが、衆議院議員清瀬一郎らの強い反対の結果、11月13日の閣議決定で剥奪されたことを述べ、法制局第二部長佐藤達夫の文書を分析し、在日朝鮮人を外国人でも日本人でもないと位置づけ、在日朝鮮人は参政権を有することが適法であるが、将来外国人になると想定されるために前もって参政権を剥奪するという論理に立ったものであると論じている。また清瀬の意見書、佐藤達夫文書ともに、在日朝鮮人の参政権を認めることは革新勢力(共産・社会両党)の拡大をもたらすものと恐れていたことを指摘している。さらにGHQの在日朝鮮人の法的地位に関する覚書・指令を検討し、(a)在日朝鮮人は国籍未定の状態に置かれたこと、(b)刑事裁判権については、朝鮮への帰還が確定した朝鮮人に限って再審査請求権を与えていたこと、(c)民事裁判権については日本人とまったく同様に取り扱われたこと、(d)雇用政策についても日本人と同様に取り扱うとしたこと、(e)在日朝鮮人は課税の対象となったことを指摘している。その上で著者は、(a)GHQが在日朝鮮人を連合国人と区別し、連合国人に与えられた特権から在日朝鮮人を排除し、「敵国国民」扱いをした、(b)在日朝鮮人は義務に関する処遇においては日本人同様に処遇されたのに、権利にあたる選挙権・被選挙権は剥奪され、義務は負うが権利を持たない「敵国国民」になってしまったと論じている。

 第2節では、GHQの在日朝鮮人引揚政策を検討している。在日朝鮮人の自発的帰国がピークを越した後、GHQは引揚政策を具体化した。1946年2月の「朝鮮人・中国人・琉球人及び台湾人の登録に関する総司令部覚書(SCAPIN746)」は、登録をしないと引揚できないと強圧的な態度を示し、同年3月の「引揚に関する覚書(SCAPIN627)」は計画引揚の制度を定めた。しかし在日朝鮮人の意思・スケジュール無視の強制的な措置であり、持ち帰り財産も制限されていて、単なる「追い出し」計画であったために、計画引揚政策は大した成果を挙げることができなかった。またSCAPIN746で定められた登録措置を検討し、登録制度のもう一つのねらいは朝鮮人などの個人的身分条項に関する資料の確保であり、日本残留の在日朝鮮人はこの制度でGHQ及び日本政府に確実に把握されることになり、在日朝鮮人取締政策のはじまりを告げる意味を有していたと論じている。

 第3節では、1947年5月公布の外国人登録令以降、49年までのGHQ及び日本政府の対在日朝鮮人政策の展開過程を検討している。まず1946年11月発表の大阪府令第109号「朝鮮人登録ニ関スル件」による「朝鮮人登録証」発給制度(「居住地証明書制度」)の施行について述べた上で、「外国人登録令」の内容を分析し、携帯・呈示義務と罰則の規定により、取締令の性格を持ったことを指摘している。次に在日朝鮮人の民族教育に対する政策の推移を検討している。当初、GHQと日本政府は朝鮮人の教育の自主性をある程度認めざるを得なかったが、1947年10月にGHQ民間情報教育局は、朝鮮人学校は正規教科外として朝鮮語の教授を許されるほかは日本文部省の指令に従わなければならないとの指令を発した。以後、在日朝鮮人の民族教育に対する弾圧はしだいに強まり、48年1月には私立学校としての認可を受けることが強要され、朝鮮人学校の教師の審査制度が実施された。同年2月~4月に朝鮮人の民族教育擁護闘争が展開され、激しい弾圧が加えられるなか、在日朝鮮人連盟(以下、朝連と略す)と日本政府との間で交渉が続けられ、5月に文部大臣と朝連代表との間に覚書が調印された。これによって文部省が定めた認可要件を満たす朝鮮人学校だけを私立学校として認め、朝鮮人独自の教育は選択教科、課外教育としてのみ実施できるということになり、私立学校としての要件を満たせない零細な朝鮮人学校は廃校に追い込まれた。49年9月の朝連解散命令ののち、同年10~11月には朝連経営とみなされた学校には閉鎖命令が下され、民族教育弾圧政策は「完成」をみた。

 第5章では、1945年8月から48年までの在日朝鮮人運動の展開過程を明らかにしている。第1節では、まず終戦直後の朝鮮人の自発的帰国が行われた時期に、帰国者を世話する在日朝鮮人の自主的地域団体が組織されたことを述べている。次に在日朝鮮人団体の指導機関の結成が求められ、都道府県レベルの組織の結成を経て、45年10月15日~16日に在日朝鮮人連盟中央本部大会が開催され、朝連が結成されたこと、親日派・民族反逆者が組織から排除されたこと、初期活動の中心は帰国する朝鮮人を世話する帰国事業であったこと、初期の朝連指導者には日本共産党員は選出されていないなど、イデオロギー的色彩を帯びない団体にしようとする意思を確認できることを指摘している。また朝連から排除された親日派と右派は45年11月16日に朝鮮建国促進青年同盟(以下、建青と略す)が結成されたが、朝連に対抗できる組織力を持てなかったことを述べている。さらに46年に入ってからの朝連の活動が検討され、その特徴として、(1)左傾化を防ぎ、在日朝鮮人全体を包括する組織としての性格を維持しようとしたこと、(2)日本の進歩勢力との連帯に積極的であったこと、(3)第一の活動は帰国事業であったこと、(4)朝鮮の状況が伝えられると人共、ついで左派の民主主義民族戦線(民戦)を支持したことを指摘している。

 第2節では、朝鮮信託統治問題の登場を契機に、在日朝鮮人運動に亀裂が生じていった過程を検討し、次の点を明らかにしている。(1)1946年1~2月に朝連が信託統治問題について基本的に支持する立場を明らかにする一方、1~3月に建青などの右派は信託統治反対を掲げて勢力を浮上させた結果、信託統治問題が在日朝鮮人社会の左右への両分、対立の種となった。(2)45年11月に朝連代表が南朝鮮に入り、全国人民代表者大会に参加し、朝連ソウル事務所(のちソウル委員会と改称)を設置するなどの活動をしたが、朝連ソウル委員会は48年頃まで活動を続けた。(3)46年1月に朴烈らを支持する無政府主義者と親日派が連合して、右派団体の新朝鮮建設同盟(以下、建同と略す)が結成され、建青と活動を共にしたが、大衆的基盤が弱く、なかなか支部をつくれなかった。(4)46年2月末の朝連第2回臨時大会において信託統治反対グループが衝突事件(永田国民学校事件)を起こし、この事件を機にして一部の幹部が離脱し、右派の側に移る動きが生じた。(5)朝連第2回臨時大会は共産主義者の影響が強まる契機ともなり、その後、46年8月の日本共産党第4回拡大中央委員会が在日朝鮮人運動に関する「8月指針」を採択してからは、共産党が朝連を傘下に置き、直接指導しようとするようになり、10月の朝連第3回大会を機に金天海ら共産主義者が朝連幹部に就任し、その影響力が強化された。

 第3節では、1946年後半から47年半ばまでの在日朝鮮人運動の展開過程を明らかにしている。まず46年末の段階でも、右派勢力の伸張はあったとはいえ、朝連は在日朝鮮人社会のほとんどを包摂していたことを、具体的に明らかにしている。このために福岡県の朝鮮人団体状況を伝えるGHQ文書、46年8月に朝連中央本部が発表した組織状況の統計、都道府県本部・支部の活動を伝える朝連自体及びGHQの文書が資料として駆使されている。次に、46年10月に建同が群小団体を糾合して在日本朝鮮居留民団(以下、民団と略す)を結成したが、在日朝鮮人社会では絶対的な劣勢を免れなかったことを明らかにしている。また46年10月の第3回全国大会を機に朝連は帰国事業中心の活動から在留朝鮮人の生活権擁護運動中心の活動に転換し、11月には朝鮮人生活権擁護全国代表者会議を開催して生活擁護委員会を組織し、12月20日に東京で生活権擁護人民大会を開催した経緯、同大会参加者への弾圧に対する救援運動には民団・建青などの右派も参加し、左右の共同歩調が実現したことを明らかにしている。さらに46年10月の大阪府の「居住地証明書制度」施行に対して在日朝鮮人団体が一斉に反対闘争を展開し、その実施計画を撤回させたこと、47年5月公布の外国人登録令に対しても在日朝鮮人の反対は強く、登録率は当初きわめて低かったが、朝連中央は内務省が朝連との協力のもとに実施しようとしていることを理由に、条件付き協力の方針を決定し、民団もまた条件付き協力の態度で臨んだため、最終的には98%の登録率に達したことを明らかにしている。

 第4節では、1946~48年の朝鮮本国情勢と関わって、在日朝鮮人運動・在日朝鮮人社会の分裂が深まっていった過程を明らかにしている。まず朝連が46~47年に米ソ共同委員会の続開と朝鮮臨時民主政府の樹立を求める運動を展開したこと、これに対して民団は李承晩勢力に同調したことを指摘している。次に48年に入って朝連・建青から統一派が除去された経緯を明らかにしている。朝連内には当時、日本共産党派(金天海ら日本共産党幹部のグループ)、統一派(白武ら、朝鮮での単独政府樹立に反対し、右派団体との協調を主張したグループ)、祖国派(韓徳銖ら、北朝鮮政府との緊密な連帯を主張したグループ)が分立していたが、48年1月28日の第13回中央委員会において統一派の書記長白武が罷免され、祖国派の韓徳銖の勢力が浮上した。建青は本国問題に関して左右派の統一による単独国家の形成をめざしていたが、南朝鮮で李承晩派と金九・金奎植派との緊張が深まっていくにつれ、南北協商支持の統一派と単独選挙支持の保守派との対立が生じた。47年10月の建青第4回全体大会では徐鐘実らの統一派が勝利したが、48年5月の南朝鮮単独選挙における李承晩の勝利を機に、主導権の変化が起こり、48年10月の第8回全体大会では保守派が勝利した。民団でも単独選挙反対派が形成されたが、民団から離れざるを得なかった。48年10月に建青統一派は民団単独選挙反対派と合流して、朝鮮統一民主同志会を結成した。最後に朝連が北朝鮮の政権を、民団が南朝鮮の政権を支持するに至って、在日朝鮮人運動内の左右対立が深まっていった経緯を明らかにしている。48年8月に大韓民国政府が樹立されると、民団はこれを積極支持し、9月には大韓民国の公認団体とされ、10月の第5回全体大会で「在日本大韓国居留民団」と改称して、組織を拡張した。朝連では48年10月の第5回全体大会で韓徳銖ら祖国派が主導権を掌握し、これに反対する幹部を追放し、主導権確保のために組織の中央集権化を進めた。朝連第5回大会はまた大韓民国政府を傀儡政権として完全に否定し、朝鮮民主主義人民共和国政府だけに正統性を与え、支持することを明らかにした。こうして在日朝鮮人社会に朝連=北朝鮮支持団体、民団=南朝鮮支持団体という図式が成立した。朝鮮半島の分断はそのまま在日朝鮮人社会に投影され、同一地域で生活する在日朝鮮人社会も分断社会となったのである。

 結論は、以上の各章を要約したものである。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の第一の成果は、第二次世界大戦後の東アジアの秩序再編が、米ソ両国が協調して、その利害調整のために小国朝鮮を犠牲にし、その自主的統一政府の樹立を妨げたものであったことを明確に論じたことである。この点はカイロ宣言、38度線設定、米ソの朝鮮占領政策の基調、モスクワ三国外相会議決定に関する著者の評価に、とくによく表れている。米ソが対立しながらも、基本的には協調して東アジア秩序再編を行い、その一環として南北朝鮮の分断をはかり、占領地域にそれぞれの利害に沿う政権を樹立し、自主的統一政府樹立の動きを排除していったことが鮮明に描き出されている点は、高く評価できる。

 第二には、朝鮮における解放直後の政局の推移を、左右対立の枠組からではなく、大国と小国との相剋、民族自主勢力と大国依存勢力との対立という枠組によって、具体的に解明したことである。このことによって、南朝鮮における建国準備委員会、朝鮮人民共和国、左右合作運動、南北協商運動という自主的政府樹立運動、統一政府樹立運動が一貫したものとして位置づけられたほか、李承晩帰国、金九帰国の際にも左右合作による自主的政府樹立の可能性があったとのユニークな認識が産み出されている。このような成果は、今後、解放直後の南朝鮮の複雑な政治情勢を把握する研究を進める上で、ぜひとも参照されなければならないものとなろう。

 第三には、第二次世界大戦直後の在日朝鮮人の運動の展開過程を、上述の枠組によって解明したことである。このことによって、統一派追放以前の朝連が在日朝鮮人の生活権擁護を第一としており、在日朝鮮人社会の大半を包摂する組織であったことの指摘、朝連・建青内部の統一派の役割への高い評価が産み出されている。いずれも重要な論点であり、今後の在日朝鮮人史研究に継承されなければならない点であろう。

 第四には、課題の究明に必要な史料を長期にわたって博捜し、それを丹念に分析した実証の水準の高さである。とくに南朝鮮の政党関係文書・新聞・雑誌、在日朝鮮人運動関係の文書、アメリカ外交文書・GHQ文書の関係部分は、よく収集されている。

 本論文の問題点としては、第一に1946年半ば以降の南朝鮮の左派の活動とそれに対する米軍政庁の弾圧、幹部の北朝鮮への移動などが政局に及ぼした影響が必ずしも明確にされていない点であり、筆者独自の枠組をいっそう生かすために、この点の解明が望まれる。

 第二には、史料の絶対的不足に由来するものであるが、北朝鮮における自主的政府樹立運動の動きについては、南朝鮮のそれに比べて解明されている点が少ないことである。

 第三には、GHQの在日朝鮮人政策の基調について、「敵国国民」規定が本質的であったとしているが、「解放民族」であるという規定に基づく政策の展開もあり、その複雑な性格を多面的に探究する必要があるのではないかという点である。

 第四には、朝連の運動には日本共産党が深く関わっていることは著者も言及していることであり、史料の不足という制約はあるが、朝連と日本共産党との関係をより具体的に解明することが望まれる点である。

 ただし、これらの問題点は、著者の課題に止まらず、朝鮮現代史・在日朝鮮人史全体の課題と言えることである。

 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与する充分な成果をあげたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2000年5月17日

 2000年5月2日、学位論文提出者洪仁淑氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、提出論文「第二次世界大戦直後の東アジアにおける大国の働きと朝鮮民族の対応―朝鮮半島と日本地域を中心に―」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、洪仁淑氏はいずれも充分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は洪仁淑氏が学位に授与されるものに必要な研究業績及び学力を有することを認定した。

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