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博士論文審査要旨
論文題目:インドネシア残留日本兵の社会史的研究 1942-2014
著者:林 英一 (HAYASHI, Eichi)
論文審査委員:吉田 裕、中野 聡、坂上康博
一、本論文の概要
本論文は、インドネシア残留日本兵の実像を、日本占領期、革命期、議会制民主主義期、開発独裁期におけるインドネシア社会の変容とも関連づけながら、主として二人の残留日本兵のライフヒストリーを丁寧に追うことによって明らかにした労作である。残留日本兵に関する文献はすでに数多く出版されているが、研究とよべるものは、ほとんど存在しない。本論文は、文献史料やインタビューだけでなく、インドネシアの農村における長年にわたるフィールドワークの成果に基づくものであり、残留日本兵に関する最初の本格的研究と言える。
二、本論文の成果と問題点
本論文の成果は次の三点である。第一には、残留日本兵の歴史をインドネシアにおける国民国家形成の過程と関連づけながら、克明に明らかにしたことである。特に注目されるのは、軍部の政治介入を正当化する国軍中心史観の相対化に成功していることである。筆者はアジア・太平洋戦争末期における義勇軍の日本軍に対する反乱の意義を認めつつも、一般の民衆や共産党などの多様な抗日主体の存在を明らかにしている。また、革命期(独立戦争期)においても、国軍によるゲリラ戦はそれほど大規模なものではなく、独立の達成に大きな役割を果たしたのは、インドネシア政府の粘り強い外交交渉と冷戦を意識したアメリカ政府の関与だったこと、同時に、残留日本兵も、全員が意識的・主体的に独立戦争に参加したわけではなく、その多くは様々な事情から残留をよぎなくされ、内戦的な様相すら呈していた混乱した状況に翻弄され続けた流浪の「ディアスポラ」だったことを明らかにした。
第二には、残留日本兵の実相を明らかにした点である。日本では独立戦争を戦いぬき、インドネシアと日本の友好に貢献した建国の英雄という残留日本兵イメージが、完全に定着している。しかし、筆者の分析によれは、そのイメージは実態と大きくかけ離れていた。彼等は革命期以降も、国籍もないまま排除され続け、インドネシア社会の周縁部分でひっそりと生きてきた人々だった。彼等がインドネシア社会に包摂されていったのは、国軍の援助を受けて国籍の取得に成功し、経済的地位をも上昇させて行ったからである。特に後者の問題では、賠償の支払いを梃子にしてインドネシアに進出してきた日本企業と密接な関係をつくりあげることに成功したことが大きい。その過程を筆者は残留日本兵などが中心になって組織した「福祉友の会」の活動などを中心にして、さらにはインドネシアにおける日系社会の形成史という側面をも視野に入れながら検討し、国軍中心史観と一体化した「建国の英雄」的な残留日本兵イメージは、日本政府や友好団体関係者、メディア関係者によって意図的につくりあげられていったものであることを実証的に明らかにしている。
第三には、本論文全体の文脈とややずれる面もあるが、1965年の9.30事件の実態を、残留日本兵が住む東部ジャワのある村落を対象にして、いわばミクロレベルで明らかにしたことである。殺戮がエスカレートしていく過程の生々しい分析、特に加害者側の証言の分析には息をのむものがあるが、研究上の意義としては、事件以後の被害者家族と加害者家族の関係に着目しながら、当該村落の人間関係をきわめて具体的に明らかにしたことが重要だろう。事件後には、村役人層を最上層にすえ、虐殺の被害者家族を最底辺におく権力的秩序が村内に形成されるが、時の経過とともに、上層以外からの差別や偏見は緩和され新たな秩序の摸索が始まる。この分析を通じて筆者は、9.30事件によってインドネシア社会が決定的な変容を遂げたわけでは必ずしもなく、むしろ、スカルノ体制とスハルト体制の間には、ある種の連続性があることを示唆している。
以上のように貴重な成果が認められるものの、若干の問題点も指摘することができる。第一には、革命期におけるオランダ軍の分析がほとんどなされていないことである。オランダ軍が白人の将兵だけによって占められていたわけではなく、その主力はマナドやアンボンから徴集されてきた「外島人」の兵士だった。こうした重層的な構成の把握は、独立戦争が内戦的様相を呈することの意味を理解するうえで重要であろう。
第二には、本論文で取りあげられた「福祉友の会」に参加している残留日本兵は、通訳や商業上の仲介者として日本企業の進出に伴って経済的上昇を遂げた人々であり、残留日本兵全体のなかでは上層に属する人々ではないかという問題である。「ディアスポラ」として、戦後のインドネシア社会の底辺を生き続けてきた人々もいたはずであり、その人々も含めた研究が必要だろう。概して本論文では、日系社会内部における階層分化の問題が軽視されているという印象を受ける。
第三には、残留日本兵をもってインドネシアにおける日系社会を代表させていいのかという問題である。第5章の分析が示唆しているように、北スラウェシ・マナドの日系人の歴史的出自は、明らかに残留日本兵とは異なっている。その意味で、第5章の分析はさらに深められるべきである。
しかし、これらの諸点は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、著者自身も問題点を十分に自覚している。今後の研究のいっそうの進展によって、これらの問題点が克服されることを期待したい。
最終試験の結果の要旨
2016年4月10日
2016 年3 月1日、学位請求論文提出者・林英一氏の論文について試験を実施した。
試験において審査委員が、提出論文「インドネシア残留日本兵の社会史的研究 1942-2014」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、林氏は的確に応答し充分な説明を与えた。
よって、審査員一同は、所定の試問の結果をもあわせて考慮し、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5 条第3 項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。