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博士論文審査要旨

論文題目:上海プロテスタントの宗教空間
著者:村上 志保 (MURAKAMI, Shiho)
論文審査委員:足羽與志子、深澤英隆、佐藤仁史

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1、本論の概要
 本論は、現代中国のキリスト教、なかでも上海市のプロテスタントを対象とし、政府公認の教会堂および非公認の集会所(家庭教会)を、政府による宗教管理の場であると同時に都市における実戦的宗教空間と捉え、それらをめぐる人々の認識と宗教行動、さらには政府の管理政策を中心に論じたものである。本論の手法はフィールドワーク調査及び文献調査、先行研究の検討に基づく。
 著者はまず、上海が海外に開かれた19世紀半ばから共産党国家初期に至る宗教空間の編成、文革時の破壊活動、そして80年代からの宗教復興の歴史を整理し、教会が公認教会と非公認教会の二重構造になった過程を丹念に辿り分析を行った。次に中国経済の中心的存在として急激な近代化を遂げた上海市における、特に2000年以降のプロテスタントの動向についてキリスト教文化の大衆化、外国人居留者の急増と都市空間の変化に焦点を当てて詳細に記述し論じた。
 本論は、共産党政府とキリスト教との関係を、抑圧と抵抗、あるいは本土化と対抗という二項対立のみで捉える従来の研究を批判し、都市空間における宗教空間の再配置という著者独自の分析枠組みを設定することにより、行政と人々の双方が空間の意味づけと使い分けを行い、可塑性、柔軟性を発揮しながら繰り広げる宗教実践、信仰実践のリアリティを明らかにした。そして政府がプロテスタントの宗教空間を管理下に置く目的で進める政策実践が、上海市のような社会的流動性の高い都市環境においては、例えば公認教会と非公認教会の間の交流や協力関係を深めるなど、かえって人々の活発な相互作用を促し、結果として政府管理の及びにくい状況を生み出しているという結論を導きだした。

2、本論文の成果と問題点
 本論の第一の成果は、現代中国において宗教、とりわけキリスト教についての調査が難しい状況下で、上海市のキリスト教関係者を対象に、2000年代の初めから通算3年に近いフィールドワークを行い、一般の人々の信仰実践についての優れたモノグラフを書きあげたことである。中国では70年代後半に宗教が解放されたとはいえ、外国の影響が強いキリスト教は常に政府の厳しい監視下にあり、政府が宗教活動を認可した公認教会においてさえも聖職者から率直な意見を得ることは難しい。また地下教会とも言われる非公認教会であればなおのこと様々な伝を頼らなければ調査は容易ではなく、加えて調査者が外国人であれば答える側も一層慎重にならざるをえない。本論が示す詳細なデータからは、このような厳しい調査環境においても筆者がインタヴューを行った数十名の関係者との間に粘り強い地道な信頼関係を構築していたことが伺える。著者はこの貴重なデータを土台として、例えば外国人教会、宗教実践がない文化財としての教会、経済開発区の教会なども含めた多様な教会の形態や、クリスマスや結婚式のように非キリスト教者による文化現象としてのキリスト教受の様子なども合わせて調査を行い、幅広い現象としての上海の宗教空間の丁寧な俯瞰を行った。本論は著者の長年の真摯な研究による独自のデータ集積であり、このてんにおいて本論は内外の現代中国キリスト研究において際立った貢献を果たすものである。
 第二の成果は、キリスト教実践の多様な実態について空間論を導入して分析したことにある。現代中国キリスト教の研究は、政府/宗教、あるいは公認教会/非公認教会の二項対立に回収されがちである。これに対し本論文は、国家による管理の場所として宗教空間と、上海という地域的、歴史的文脈と共に展開した宗教空間とを重ねて論じることにより、多様な宗教リーダーや信者、また一般の人々がそれぞれの特徴を持つ複数の空間を自らの目的を持って移動し使い分ける実態を明らかにすることに成功している。政府公認宗教であっても不特定多数の一般人が多く出入りする仏教や道教の寺廟とは異なり、キリスト教の場合は教会や集会所における信者の定期的な聖餐式やミサなどの信仰実践が宗教活動の根幹をなす。そのため、聖職者やリーダーのもとに信者が集まる物理的な空間は信者及び宗教を管理する立場の政府にとっても特別な意味を持つ。租界を中心に発展した上海の特徴に加えて、経済開放政策とともに急速に海外に開き多くの外国人の経済活動を活力としてきた上海においては、外国人によるキリスト教の集会は信仰の自由の導入とその規制とがせめぎ合う両義的空間でもある。都市論としての空間論は文化人類学、社会学の分野で先行研究があるが、本論は上海のキリスト教者の独自の空間認識と宗教実践を詳細に分析することにより、現代中国におけるキリスト教の実態を浮き彫りにする独創性の高い論考となっている。
 第三の成果は、現在、一般的に理解されている公認教会と非公認教会の区分が歴史的系譜に照らせば、双方ともがキリスト教の土着化への傾向が強く、その特徴において通底していることを示したてんである。例えば、公認教会は共産党政府のもとで行われた教会の「三自改革宣言」「三自愛国運動」が示すようにキリスト教の中国化、土着化を旨とした。非合法教会においても1920年頃倪柝声が創設した「地方教会」のように西欧のキリスト教支配から離れ中国独自のキリスト教形成が行われ、その後共産党には同調せず非公認教会の地下教会となった例もある。また文革時代に礼拝が困難になったため結果的に地下教会となり、そのまま非公認教会として止まった教会も少なくない。著者はこうした事例を丹念に発掘し、宗教空間として区分される公認教会と非公認教会はその空間を人が恣意的に移動するだけではなく、その宗教実践と系譜において双方に重要な共通項があり、それが人の移動を可能としていることを明らかにした。さらに外国資本・企業の誘致策として政府が外国人のために行った積極的「非公認教会」の優遇についても指摘しており、非公認教会の可塑性を政府側も利用していることについての指摘は正鵠を射ている。これらは中国キリスト教史研究及び現代中国の宗教空間に対する著者独自の優れた研究功績である。
 最終試験ではいくつかの疑問点も指摘された。まず本論全体の分析に用いられている宗教空間概念については、人々による空間の住みならしが権力支配を回避するというセルトーの空間論だけでは結果的に二項対立への再回収は免れず、著者が主張するような、国家と宗教が空間を共有する部分で生じる共棲性、可塑性の分析においては説得力に不足の感が残る。また、本論にある宗教政策関連の法令の丁寧な解析は有用だが、政府側による公開情報や中国基督教協会などの活動についての資料が少なく、法令を実施し空間を管理する政府側の具体的な実像がごく簡単にしか描かれていないてんは残念である。さらに上海市の個別地域にある特殊な歴史、政治的空間の詳細な調査も今後必要であり、こうした地域の特殊性と宗教空間との関係の分析があれば、より踏み込んだ空間論の考察も可能になろう。最後に、作者が実地調査を行った10年余の期間には中国の宗教管理制度の整備が進み、キリスト教の管理を強めながらも文化的側面の重視という方向への転換もあった。こうした政策転換の考察があれば、キリスト教と社会の関係において消費社会の進展以外の側面の分析も可能であったであろう。
 しかしこれらのてんは本論考の今後の一層の展開に向けての所見であり、本論の価値を損ねるものではない。本論考は著者の長年のフィールドワークと考察による研究蓄積が結実した優れた論考であり、現代中国におけるキリスト教研究の先端を切り開く先駆的研究である。

最終試験の結果の要旨

2017年5月24日

 2017年 2月9日、学位請求論文提出者の村上志保氏の論文について最終試験を行った。
 本試験において審査員が提出論文「上海プロテスタントの宗教空間」について疑問点を質問したのに対し、村上氏はいずれの質問においても的確に応答し充分な説明を行った。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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