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博士論文審査要旨

論文題目:近代産業化過程の養蚕業における民俗的想像力―蚕を育てる技術・感覚・信仰―
著者:沢辺 満智子 (SAWABE, Machiko)
論文審査委員:足羽與志子、春日直樹 、石居人也 、久保明教

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1、 本論の概要
 本論は、日本の近代産業化を牽引した蚕糸業の歴史と養蚕を巡る民間の意味世界について丹念な記述と分析を行い、科学技術論と民俗的想像力の研究を接合させた新しい研究領域の構築を目した人類学研究である。江戸期から各地で特産化していた養蚕は殖産興業を推進する明治政府の国策のもとに中央の指導による技術改良と組織化が進んだ。しかしまたその一方では、農家の女性の手作業だった養蚕の技術は感覚的な経験知に基づいており、金色姫物語と深く結びついていた蚕の民間信仰は国家神道の形成過程において皇后の養蚕と連動し、独自の方法で再編成されていった。最先端の科学技術を駆使した近代産業である蚕糸産業において、蚕糸が産業原資のモノであると同時に、女性が育む命ある虫が吐き出す体液でもあるという二重性が潜んでいる、という優れた着目点に端をなす本論は、科学技術的側面と民間信仰の想像力的側面の両者が女性の身体性を媒介に相互に関係し形成し合うさまを、豊富な資料をもって描き出したものである。
 
2、 本論文の成果と問題点
 本論の第一の成果は、養蚕という、かつては日本近代化の礎だったが今ではほとんどが途絶え忘れられがちな生業であり、また殖産興業の近代技術論や労働経済研究として研究蓄積があり論及尽くされた感があった対象を改めて取り上げ、そこに民俗的想像力と近代化いう概念を持ちこむことによって新たな光をあて、従来の近代化や産業化の概念と内実そのものを問いなおす議論の重要な糸口を提示したことにある。本論は、近代的な産業化の過程と民俗的想像力の展開という、通常は切り離して別個に論じられるものが、養蚕に従事する女性たちの身体や感覚・感情のありかたを介して密接に相互作用しうること、そして齟齬や依存を伴いながら双方が変容していくことを、豊富な実例と横断的分析によって示した。こうした本論の野心的な仮説、実証、考察は大きなインパクトがあり、確かな学問的価値を認めるものである。
 第二の成果は、本論の議論が、沢辺氏が10年以上をかけて収集した養蚕に関わる広範囲で多様な一次資料やデータ(例えば、幕末の蚕書や養蚕指南書、明治政府による公文書、蚕関係の神社の由来書、統計資料、現代の養蚕農家の女性の聞き取り調査や本人による養蚕経験など)、そして十分な先行研究の整理に基づいており、これらの膨大な資料のそれぞれ異なる属性を生かし、横断的にまた全体の構成において手際よく配置することによって、筆者独自のオリジナルな議論の場を作り上げ、説得力を持って共有させることに成功している点である。人類学を軸として、歴史学、民族学の方法論を使っての論考では、科学技術論、ナショナリズム論、神話分析、身体論、国家論、セクシャリティ論など複数の議論が詳細な事例分析とともに展開され、資料のポリフォニックな豊かさとともに、議論の接合性を説得的に語る氏の柔軟な発想と生き生きとした筆力、そして論文の構成力とが遺憾なく発揮されている。
 第三の成果は、本論の各所において、一般的には脈絡を異にする諸問題が深い洞察を持って分析されており、結果としてそうした事象が同時代性や同地域性、あるいは何らかの繋がりにおいて相互に影響しあい、妥協や抵抗を含み作り上げられていく作業を、俯瞰的に、あるいは実証的に提示することに成功している点である。例えば、上記の政府の研究成果による一代交雑種の卵を全農家に支給することや蚕種検査法により、元来は各地で多様な種を育ていていた蚕が単一化し、農家及び女性の蚕を育くむ営みが産業化の末端の一単位として組み込まれる一方では、女性の感覚と信仰が科学技術、優性思想と重なり、国家の殖産体系に接合していくさまを鮮やかに浮き彫りにした。加えて国による蚕子の支給や共同出荷等の進捗のために各村に養蚕組合が編成され、結果として養蚕の女性的要素が徐々に男性組織によって覆い隠されていく過程の分析は、日本の軍国化とも響き合う大変興味深い指摘である。
 第四の成果は、とりわけ本論の後半部において、養蚕信仰である金色姫物語及び蚕和讃の多層的で鋭い象徴分析を行い、また国家神道体系の形成と民間神仏信仰の排除において養蚕信仰が根強く残り富国強兵開祖神となった経緯と理由を示すことにより、いわゆる近代と呼ばれたものの実態が、近代的技術と民俗的想像力とが混在し、土着信仰を取り込みつつ展開されたイデオロギーと技術の世界であることをより如実に示した点にある。本論の最後で、殖産興業の号令のもとに農家の女性が育てる蚕の命がモノとして国家管理下に置かれていく構図が、富国強兵の号令の元に農家の女性が育てる男子の命が兵士として国家に出征するさせる構図に重なっていくことの推察は圧巻であり、論考を重ねた本論の最終部に至っては十分な説得力を持ちえている。
 一方、本論が近代の化学技術論と民俗学的信仰世界の相互作用の仮説に基づき、新しい分野を切り開いていく論文であるだけに、接合を試みる領域の学説史的な位置づけや、歴史の時期に応じた変化への考慮及び資料的な論証が十分でないところ、また用語や概念の揺らぎと議論の踏み込みが不足しているところがところどころに見られる。「常民の思念としての民俗的想像力論」、「科学技術の進歩を基底とした一系的、均質的近代化論」という、通常は別個に問題を立てる前提の二つともに疑義を呈し、多様な資料と分野横断的な分析と実証によって問い直し、さらにその上で接合を試みることが最重要課題である本論は、一方を受け入れ、他方を排他的に扱うことによってその正当性を論証するという一般的に陥りがちな安易な表現も時折見られる。しかしそれらを注意深く避け、精緻で慎重な議論を展開することで、本論の説得性は一層増すであろう。
 本論はその着眼点、問題意識、方法論、そして論文の構成及び記述手法において極めて独創的であり、明解な仮説と目的のもとに、豊かで広範囲な資料をもって新しい議論の場を確実に切り開いた、学問的インパクトの強い優れた論考として、高く評価できる。本論は、氏自身が提示した概念や議論を今後一層練り上げることによって、今以上に大きな学問的影響力をもつ議論を新しく展開する力と可能性を確信させるものである。

最終試験の結果の要旨

2017年1月29日

2016年12月22日、学位請求論文提出者の沢辺満智子氏の論文について最終試行った。た。本試験において審査員が提出論文「近代産業化過程の養蚕業における民俗的想像力    
一 蚕を育てる技術・感覚・信仰 一 」について疑問点を質問したのに対し、氏はいずれの質問においても十分な説明を行った。
 よって審査員一同は、沢辺満智子氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規程により一橋大学博士(社会学)の学位を受容されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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