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博士論文審査要旨

論文題目:信仰の共同体と不信の共同性―ネパールのプロテスタンティズムについての民族誌的研究―
著者:丹羽 充 (NIWA, Mitsuru)
論文審査委員:大杉高司、久保明教、春日直樹、井頭昌彦

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Ⅰ.本論文の概要
 本論文は、ネパール連邦民主共和国におけるプロテスタントたちの「信仰」のありようを、カトマンドゥ盆地での8年間にわたる実地調査にもとづき、詳細にわたって描き出した民族誌的成果である。
プロテスタントが自らの「信仰」にあてる「ビュシュワース」の語は、ヒンドゥーをはじめとする「宗教=ダルマ」の文脈では用いられることがない概念である。「習性」、「本能」、「義務」とも訳される「ダルマ」が、なにより人の「本性=自然」として在る行為の「規範」であるのに対し、「信頼」とも訳される「ビシュワース」には、「諸々の可能性の中での弁別的な選択」の意が込められているからである。しかしプロテスタントは、決して個々人として信者になれるわけではない。あらゆるヒンドゥー的活動からの離脱を強いられる彼らは、礼拝、結婚、葬儀を執り行うために、そして何より、より良き信者となるための様々な「ビシュワース」活動を互いに評価しあうために、クリスチャン共同体を必要としてきた。1990年代以降キリスト教に対する公的弾圧が終焉し、2007年の世俗主義国家化を経ると、プロテスタントは共同体として急速な広がりをみせ、その「ビシュワース」活動を無尽蔵に活性化させている。
ところが、彼らに対しては、国外からやってくる宣教師からの経済的援助の獲得を目当てにしているとの、強い猜疑のまなざしが向けられている。さらに、この不信のまなざしは、クリスチャン共同体の内部でも蔓延し、筆者が「不信の共同性」と呼ぶ様相を呈している。とりわけ、教会内部での役職獲得競争、それに起因する教会の分裂と新教会の設立対しては、不信がさらなる不信を呼びこみ、共同体内でのコミュニケーションを著しく困難にしている。1990年代の超教会団体ないし統括団体の相次いだ創設と、「真の」統括団体の座をめぐるあからさまな争いが、「墓地問題」をめぐる政府との交渉を滞らせていることも、信者たちの不信と嗤笑の対象となってきた。しかし、この嗤笑と不信にもかかわらず、信者たちは個人として、また教会や教会団体として、さまざまな階層レベルで統括団体に所属し続けている。彼らのネットワークは、階層をこえてセミ・ラティス状に張り巡らされているがゆえに、共同体内の画一化や修復不可能な分裂が生じることを阻みながら、決して「いまここ」に現前することのない神=中心への「ビシュワース」活動そのものを可能たらしめているのである。

Ⅱ.本論文の成果と問題点
 本論文の成果として、まず何より宗教人類学への貢献をあげることができる。宗教や信仰の概念が、分析する者の暗黙の想定、とくにユダヤ=キリスト教の伝統に規定されてきたことは、ロドニー・ニーダムやタラル・アサドらにより指摘されて久しい。しかし、こうした指摘が分析者の再帰的自己批判に留まらず、重厚な民族誌として結実することは稀であった。この点から本論文が、自然=本性としての「ダルマ」がユダヤ=キリスト教が想定する宗教概念とは相容れないことを出発点としながら、「ダルマ」に対抗すると同時に「ダルマ」的コンテキストに置かれたプロテスタントの「信仰=ビシュワース」が、個人の選択ではあるものの内的ないし霊的確信として自己完結できず、「ビシュワース」活動として行為の水準に定位され、信者間の相互評価に服さなければならないことを、極めて豊富な事例にもとづいて明らかにした意義は、測り知れない。筆者が克明に追ったネパールにおける宗教(プロテスタンティズム)の「ダルマ化」は、今後の比較研究の重要な参照点となるであろう。
 第二に、コミュニケーション研究、ないし共同体研究への寄与をあげることができる。本論文で筆者は、ネパールのプロテスタント共同体にみられる「信頼」と「不信」の極めて取り扱いづらい相互関係を、首尾一貫した分析的視野のもとに収め、説得力をもって描き出している。行為ないし活動として立ち現れる「ビシュワース」は、その行為や活動を評価する共同体を要請せざるをえないが、その共同体が構成員間の相互「不信」によって特徴づけられ、そのことが彼らの共同体をツリー状ではないセミ・ラティス状のネットワークにしたてあげていた。筆者は、この「不信」が形づくるネットワークが、その融通無碍さによってかえって信者共同体に修復不可能な分裂や排除が生じることを阻み、その内的多様性のままに不可知の神にむけて活動することを可能たらしめていると結論している。この指摘は、「通じ合うこと」を重視しがちなコミュニケーション研究や共同体研究に対して、「通じ合わないこと」や「すれ違うこと」が有する可能性を問うものであり、人類学および隣接諸科学に重要な探求の方向性を示している。
 第三の成果として、本論文が今後の研究の豊穣な領野を切り拓いた点を指摘することができる。本論文は宗教としてのプロテスタンティズムが「ダルマ化」する局面を見事に描きあげたといえるが、これはネパールにおける世俗主義国家化の動きの一局面に過ぎない。筆者の指摘するところによれば、プロテスタントを重要なエージェントとする「『ダルマ』の宗教化」もまた着実に進行している。これは、たとえば、「ダルマ」的帰属を個々人が自らの選択によって決めることができるという、特に若い世代のネパール人たちの声にあらわれている。この動きにはまた、ますます過激化するヒンドゥー・ナショナリズムが対峙しており、ネパールの世俗主義国家化は異なる立場のあいだの長い折衝過程の端緒についたに過ぎない。本論文は、民族誌資料の提示と分析枠組みの洗練の両面で、ネパールの世俗主義国家化の動態、ひいては世俗主義そのものを比較検討していくための確かな基盤を提供しており、この点からも高く評価できる。
 本論文に特筆すべき難点はみられないものの、あえて指摘するならば、神という外在と「ダルマ=自然・本性」や「ビシュワース」活動といった内在の関係について、より踏み込んだ議論が期待できた点をあげることができる。外在と内在、彼岸と此岸の関係は、マックス・ヴェーバーからルイ・デュモンに至るまでの宗教研究が練りあげてきた論点であり、ネパールのプロテスタンティズムにおいてどのような事態や想定が観察されるのか、そして、それらがこれまでの議論にどのような問いを突き付けるのかが示されたならば、本論文はより一層豊かな拡がりをもったものになっていたであろう。しかしながら、博士号請求論文はもとより、いかなる論考も、問いを限定してこそ成立することは自明の理である。「ビシュワース」活動と「不信」の共同体の密接不可分の関係を論じた本論文は、それ自体として高い完成度を有しており、上記議論の不在は、本論考の価値をいかなる意味でも損なうものではない。むしろ、外在と内在をめぐる問いは、本論文が明らかにした地点において一層明瞭な輪郭をもって浮かび上がるのであり、これは、筆者がさらに意義深い発展的考察を提示しうることを示している。

最終試験の結果の要旨

2017年2月8日

2017年1月13日、学位請求論文提出者丹羽充氏の論文について、最終試験を実施した。 試験において審査委員が、提出論文「信仰の共同体と不信の共同性-ネパールのプロテスタンティズムについての民族誌的研究-」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、丹羽氏はいずれに対しても的確に応答し、充分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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