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博士論文審査要旨

論文題目:帝国議会における臨時軍事費―大正期から日中戦争期までを中心に―
著者:尹 賢明 (YUN, Hyenmyeng)
論文審査委員:吉田裕、田中拓道、木村元、加藤圭木

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1、 本論文の概要

臨時軍事費(臨軍費)とは、戦争遂行のために支出される戦費のことであり、戦争の開始から終結までを一会計年度とする特別会計である。会計検査院による決算は戦争終結後に行なわれる。予算編成にあたっては、軍事機密を理由にして、大蔵省による審査も不充分なものとなり、議会における審議も予算の細目が示されないため、形式的な審議だけで原案がそのまま可決された。本論文は、この臨軍費を次の二つの視角から分析した労作である。第一は、臨軍費の制度と運用の実態の解明である。この問題では、戦前期日本の予算制度の中における臨時軍事費特別会計の位置、予算編成と議会への提出のプロセス、予算支出の特質などが詳しく分析されている。第二には、臨軍費に対する帝国議会の対応である。日本の近代において臨時軍事費特別会計が成立したのは日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争の四回であり、アジア・太平洋戦争の臨軍費は日中戦争の臨軍費の追加予算の形をとった。本論文では、第一次世界大戦期と日中戦争期を中心にした議会での審議を丁寧に分析することによって、議会の一部に存在した臨軍費に対する批判が次第に影を潜め、議会全体が臨軍費の成立と対米戦争を積極的に支持するに至る歴史過程を具体的に明らかにしている。それは、議会が軍事予算に対するコントロールを完全に喪失してゆく過程でもあった。

2、 本論文の成果と問題点

 本論文の成果としては、次の三点を指摘できる。第一には、臨軍費の制度と運用の実態を初めて本格的に明らかにしたことである。臨軍費に関する従来の研究は、財政史の分野での研究がいくつか存在するだけで、政治史の分野での研究はほとんど存在しない。それに対して本論文は、特別会計としての臨時軍事費の制度上の特質を明らかにした上で、日中戦争期以降、本来は戦費であるはずの臨軍費が対ソ戦、対米戦準備のための軍備充実費に転用されていたこと、第一次世界大戦の臨軍費が大戦終結後もシベリア干渉戦争の戦費に支出されていたこと、三・一独立運動の弾圧や張鼓峰事件にも臨軍費が支出されていたことなどを具体的に明らかにした。
 第二には、議会側の対応の歴史的変化を明らかにしたことである。通説では臨軍費は常にほとんど審議なしに全会一致で成立したと理解されていた。しかし、本論文によれば、第一世界大戦の臨軍費に関しては、シベリア干渉戦争への予算支出が議会で批判されるとともに、臨軍費の削減を求める修正案が野党から提出されている。また、シベリア干渉戦争終結後も臨軍費の機密費を田中義一政友会総裁が横領したという疑惑が議会で追及されている。議会が臨軍費に対してまがりなりにも批判的な姿勢をとった時期もあったのである。しかし、日中戦争期、アジア・太平洋戦争期に入ると、臨軍費の毎年度ごとの決算を求める議員が存在した初期の一時期を別にすれば、戦争の長期化に伴い議会側は臨軍費の成立を容認し、むしろ積極的に支持するようになった。また、アジア・太平洋戦争の終結後に会計検査院による決算業務が行なわれ、その結果が最後の帝国議会(1946年12月召集)に報告されているが、決算委員会で多少の質疑が行なわれただけで充分な審議はなされず、臨軍費を全会一致で成立させてきた議員の責任が問題にされることもなかったのである。
 第三には、政府側の対応を初めて明らかにしたことである。第一次世界大戦の臨軍費の場合は、予算科目の款・項だけでなく、目に属する予算の一部や軍備拡充計画の一部が議会の場で明らかにされるなど、かなり重要な情報が議会に提供されていた。それが日中戦争期以降になると政府の姿勢は大きく後退し、最終的には、予算科目に関しては、款は臨時軍事費、項は陸軍予算と海軍予算の区別すらなくなった臨時軍事費と予備費との二本立てとなった。目は全く公開されていない。また、議会での政府答弁も抽象的で曖昧なものとなり、軍備拡充費への転用を公然と否定するなど、虚偽の答弁も少なくなかった。総じて本論文は、大正デモクラシーから戦時体制への移行を臨軍費という切り口から見事に解明してみせたと言えるだろう。
 以上のように、本論文には貴重な成果が認められる。しかしながら、問題点も存在する。
 第一には、一般会計予算の中の陸海軍省予算の分析がやや手薄なことである。平時ならば軍備拡充予算は陸海軍省の予算として計上される。申請者の主たる関心が議会による軍事費のコントロールという問題にあるため、一般会計の中の陸海軍予算の増額をめぐる議会での攻防、大正から昭和の初期にかけての軍事予算の削減問題などにも目が向けられ分析がなされてはいる。しかし、通史的な叙述にとどまり、特に本格的な軍拡が始まる1936年以降の議会に関しての分析は不充分である。
 第二には、国際比較という視点が弱いと言うことである。臨時軍事費特別会計の複雑な仕組みは詳しく分析されてはいるが、同時期の欧米諸国ではどのような形で戦費が支出され、内閣や議会によるコントロールはどこまでおよんでいたのだろうか。その点に関しては、ごく簡単な説明があるとはいえ、諸外国の制度との厳密な比較はなされていない。国際比較の視点をもっと重視しなければ、日本の臨時軍事費の全般的な特質を明らかにすることは困難だろう。
 第三に、臨時軍事費の歴史的変化は詳細かつ明確な形で明らかにされているものの、大正期から昭和初期の帝国議会や「戦時議会」の歴史的位置付けには曖昧な点がみられる。この点は政党や会派による政策の違いなども含めて今後明確にしていく必要があるだろう。

最終試験の結果の要旨

2017年1月29日

2017年1月11日、学位請求論文提出者・尹賢明氏の論文について、最終試験を行った。 本試験において、審査委員が提出論文「帝国議会における臨時軍事費―大正期から日中戦争期までを中心に―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、尹賢明氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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