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博士論文審査要旨

論文題目:近代日本の戦傷病者と戦争体験
著者:松田 英里 (MATSUDA,Eri)
論文審査委員:吉田裕、坂上康博、石居人也、木村元

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1、 本論文の概要

いわゆる傷痍軍人は、戦前の日本国家が遂行した戦争において傷病を負った名誉ある軍人として賞賛される一方で、その障害や貧困のゆえに蔑視される存在でもあった。本論文は、その傷痍軍人たちが生きた軌跡を、次の2つの問題の分析を通じて明らかにしている。第一は、当時、「廃兵」と呼ばれた日露戦争の傷痍軍人の恩給増額・待遇改善運動の分析である。この問題では、戦争体験の問題と関連づけながら、運動に参加した「廃兵」の意識の特質が具体的に明らかにしている。第二は、1936年に創設された大日本傷痍軍人会の活動の実態分析である。同会は傷痍軍人の活動を統制し、彼等に「精神修養」と「再起奉公」を促す組織だった。しかし、本部が創設されたものの、支部や分会の設立には遅れが目立ち、その支持基盤は意外に脆弱だった。本論文では、分会の下部組織である班レベルの活動にまで分析の対象を広げながら、大日本傷痍軍人会の活動実態を丁寧に明らかにしている。以上が、本論文の概要である。

2、 本論文の成果と問題点

 成果としては、次の三点を指摘することができる。第一には、日露戦争の「廃兵」による恩給増額・待遇改善運動に着目することによって、その運動を支えていた彼等の自己認識のありようを、戦争体験の問題と関連づけながら明らかにしたことである。彼等は、兵役義務を果し戦争で傷病を負った名誉ある軍人であるという強い自負心を有していた反面で、「廃兵」の存在を忘却し、時には彼等を蔑視する社会や国家に対する強い批判的意識=「棄民」意識をも有していた。そして、戦争体験に裏打された、こうした意識こそが彼等を運動に駆り立てる原動力となっていたのである。近年、出征軍人やその留守家族、あるいは戦死者の遺族に対する軍人援護行政の研究がすすみ、戦争や軍隊を支えた「銃後」の体制が具体的に解明されつつある。しかし、それらの研究は、「廃兵」の運動に言及することはあっても、基本的には国家の側の対応の問題、軍事行政の研究にとどまっている。これに対して、本論文は傷痍軍人の意識や言動、生活実態などに着目することによって、彼等の運動を内在的に分析することに成功している。
 第二には、第一の点と不可分の関係にあるが、最終的には国家による統合に導かれてしまうような「廃兵」の独特の意識を明らかにしたことである。彼等は名誉ある傷痍軍人としての強い自負心を有していたが、それは一般の障害者と自らを峻別する特権者的意識と表裏一体のものだった。また、戦争体験へのこだわりは、戦死者に対して感じる生き残った者としての強い負い目の感覚とも相俟って、戦争体験に国家的な意味づけを付与しようとする意識を生み出し、「大日本帝国」の対外的な膨張を正当化する「帝国意識」の形成に帰結していったのである。
 第三には、大日本傷痍軍人会研究への貢献である。関連史料が乏しいため不充分さが残るが、次の点は今後の研究にとってあらたな出発点となる。一つは傷痍軍人の多くは兵役免除によって軍籍を持たないため、公的には軍人としては遇されない不安定な存在であったことを明らかにしたことである。もう一つは傷痍軍人と言えば、どうしても戦傷者に目を奪われがちであるが、アジア・太平洋戦争の時期ともなると、結核やマラリアを発症した多数の戦病者が存在していた事実を明らかにしたことである。彼等は傷痍軍人会の活動に必ずしも積極的ではなかった。本論文で明らかにされた大日本傷痍軍人会の活動の立ち遅れも、この二点の問題と関連があるように思われる。
以上のように、本論文には貴重な成果が認められる。しかし、問題点も存在する。
第一には、傷痍軍人の行動や言動に即して、彼等の戦争体験の持つ意義を内在的に明らかにするという問題意識はよく理解できるが、日中戦争以降の分析に関しては、この問題意識が後景に退いていることである。そのため第1~4章までの分析と第5章の分析とのつながりが読み取りにくい。このことは戦争体験、戦場体験、銃後体験という三つの概念の定義が曖昧なこととも関連していよう。第二には、傷痍軍人としての体験の固有性という問題が十分に考慮されていない点である。日露戦争後に、抑圧されている人々の間から自らの人格の承認要求が様々な形で噴出してくることはよく知られているが、「廃兵」のそうした要求が「帝国意識」と結びついてゆくプロセスを明らかにするためには、体験の固有性という問題を重視する必要があるだろう。第三に、方法論等の問題で言えば、軍事援護行政と「廃兵」の運動とが二項対立的にとらえられている嫌いがある。兵役義務者及廃兵待遇審議会の問題にしても、民衆史、社会史の側から制度史をとらえ直していくようなアプローチが考えられるのではないだろうか。また、差別の重層性という問題では、目に見える障害を持った傷痍軍人の身体性の問題を掘り下げる必要がある。そうした傷痍軍人に対する社会や民衆の差別的な眼差しの問題に関しては、簡単な言及があるものの、もう少し具体的分析がほしい。
もちろん、以上のような問題点は、本論文の学位論文としての価値を損うものではなく、松田英里氏自身もその問題点を充分に自覚しているところである。今後の研究の中でこうした問題点は克服できるものと判断する。

最終試験の結果の要旨

2016年7月5日

2016年6月15日、学位請求論文提出者・松田英里氏の論文について、最終試験を行った。 本試験において、審査委員が、提出論文「近代日本の戦傷病者と戦争体験」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、松田英里氏が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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