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博士論文審査要旨

論文題目:日中戦争期、『東南日報』と地域社会
著者:鈴木 航 (SUZUKI, Ko)
論文審査委員:佐藤 仁史、加藤 圭木、吉田 裕、坂元 ひろ子

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Ⅰ.本論文の概要
鈴木航氏の学位請求論文「日中戦争期、『東南日報』と地域社会」は、中国国民党浙江省党指導部の機関紙『杭州民国日報』(1927年創刊)をその前身とする地方新聞『東南日報』(1934年創刊)をテーマとする、日本では希有な研究である。本論文では1937年以降の日中戦争全面拡大による全般的メディア界の停滞期にあって、拠点を移転しながら無新聞地域へと販路拡大を追求したありように注目し、その担い手としての記者集団を分析する。政党新聞から戦時に宣伝より報道を重視する新聞への自立化の模索という点において、中国ジャーナリズム史における歴史的意義を見出そうとする意欲作である。同時に新聞記者たちにより形成された「東南地域」意識、それを土台とした地域的ナショナリズムの醸成をも課題とする研究である。

Ⅱ.本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果としては、従来の研究において根強い中国国民党・中国共産党の国共党争史観と結びついた見方に対して、中国国民党系メディアをとりあげながら、その両義性を示したことがあげられる。中国国民党がメディア統制をしたとはいえ、戦時の『東南日報』は中央の方針に追随せず、戦時報道においても現地の実情に即し、画一的な戦時宣伝に終わらなかったことを例証した。中国国民党主導の記者組織にせよ、実力のある記者たちに運営され、限界はあってもジャーナリズムの理念を追求しながら動員活動にとりくんでいたことが示されている。
 第二の成果としては、従来の研究においては国共党争史観の影響のもと、戦時についての研究は重慶(中国国民党)や延安(中国共産党)など一部の主要都市・地区に対象が偏っていたが、いわば第三の地域において移動というファクターをいれてのメディア分析により、研究の重層化に寄与したことが挙げられる。この点は、中央政府による圧力を回避すべく時に移動するメディアもが見られる現代中国のメディアのありかたへの理解を深めるうえでも重要な意味をもつ。
 第三の成果は、『東南日報』記者が中心となった浙江省戦時新聞学会の機関誌『戦時記者』を従来とは異なる視点から十分に活用し、専門的な記者集団の結成によって、階層としての職業的記者が形成されていったことを具体的に示したことである。
第四の成果は、戦時の中心部が政府の移転先である重慶になったことにより、東南地域は周縁化したとはいえ、中国経済の中心地としての東南にメディアを維持しえたことが人材の継承やメディアの発展に大きな意味をもち、行政区分や政治的中心を基準とする「中心-周縁」の枠組みにとらわれない地域性の考察の重要性を指摘したことである。
以上の成果をあげたものの、未解決の問題点と課題も残されている。
第一に、戦時期に関心が集中するあまり、それ以前の中華民国(1912-49年)のジャーナリズムの形成およびそれと政党との関係についての把握や整理が不十分である。そのため、当時の新聞と社会と地域の見取り図が示されず、いまひとつ論点に説得力を欠くきらいがある。柔軟な姿勢をもった中国国民党地方要人の『東南日報』社長胡健中が戦時中、中国国民党中央に近い重慶の『中央日報』本社社長を兼務したことの意味なども含め、より問われるべき点があろう。
第二に、「東南地域」意識の形成や「地域的ナショナリズム」があったとの指摘はもっともであるが、こうした社会上層における「東南地域」意識がどの範囲や程度において社会全体に共有されていたかについての分析は必ずしも十分ではない。その一つの原因として、地域社会の社会、経済、文化の構造に関する地域史研究の蓄積が十分に踏まえられておらず、分析がともすると平板になってしまっていることが挙げられる。一口に地域社会といっても、中国では大都市、県城をはじめとする地域都市、市鎮、農村と深い重層性を有しており、このことは本論文が対象とする沿岸部の中国国民党支配地域において発行されていた新聞の読者層や流通地域の状況を考える上でも極めて重要である。このような地域社会の多様性を十分に踏み込んだ上で、戦時期において政治的スローガンとして唱えられた形成された「東南地域」意識が分析されれば、戦時記者の言説の特徴がより立体的に浮かび上がってきたであろう。
第三は、『東南日報』の従来の研究は紙面分析が多かったため、本論文では省略されがちであったことを否めない点である。分析のためには当時の論文・記事を大量に読解する力をさらに養う必要があるが、論の説得力ならびに分析の厚みを増すためにも、ある程度の紙幅が割かれるべきであったように思われる。また、本論文では読者層の分析が乏しいが、識字率がまだ低い段階であるだけにこの分析は避けて通れないであろう。広告分析がないこともおそらくその欠如と関係する。さらにいえば、それはジェンダーという視角の欠如にもつながっている。1930年代中ごろ以降はジェンダー規範再編期にあたる時期でもあり、また戦時性暴力の報道問題などもあったはずである。
これらの問題点や課題は、創見に富む意欲作だけに現時点ではやむをえないことであり、課程博士論文として提示しえた成果の学術的価値を大きく損ねるものではない。またこうした課題は筆者のすでに自覚するところでもある。さらなる研究の進展を期待したい。

最終試験の結果の要旨

2016年6月8日

2016年5月6日、学位論文提出者鈴木航氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「日中戦争期、『東南日報』と地域社会」についての審査員の質疑に対し、鈴木航氏はいずれも十分な説明をもって答えた。
審査委員一同は、上記の評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与すること大なるものと判断し、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第1項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

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