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博士論文審査要旨

論文題目:観光市場におけるフレンドと詐欺師をめぐる人類学的考察 -カトマンズの観光市場、タメルにおける宝飾商売のフィールドから-
著者:渡部 瑞希 (WATANABE,Mizuki)
論文審査委員:大杉 高司、春日 直樹、久保 明教

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Ⅰ.本論文の概要
 渡部瑞希氏の学位請求論文「観光市場におけるフレンドと詐欺師をめぐる人類学的考察-カトマンズの観光市場、タメルにおける宝飾商売のフィールドから-」は、当地の宝飾品売買をとりまくやり取りを丹念に追い、卸売商、小売商、ツーリストの三者が形づくる社会関係の独特のありようを、詐欺、親密さ、「公然の秘密」(M.Taussig)といった概念を手掛かりにして、陰影ゆたかに描きだした民族誌である。
タメルの宝飾市場においては、宝飾品の品質や真贋めぐる情報が売り手と買い手のあいだで非対称的であるため、売買にはたえず詐欺の疑いと噂がまとわりつく。経済人類学をはじめとする先行研究は、同種の状況を論じて、詐欺のリスクが友人や親族関係など親密な関係を背景とした取引によって回避されるという見解と、親密な人間関係がむしろ利益追求の足かせとなるとの見解とのあいだで、対立してきた。渡部氏は、この二者択一を批判し、親密さと疑念を操作し両者の間でバランスをとる取引プロセスに着目しながら、卸売商・小売商間のレギュラー関係(三章)、小売商・ツーリスト間のフレンド関係(四章)のありようを、豊富な事例をもとに解き明かしている。さらに渡部氏は、従来の観光人類学が、観光地においてホスト(売り手)がゲスト(買い手)に提示する親密さやイベントを、虚偽・演技・偽装とみなしてきた点に対しても、批判的な乗り越えを試みる。詐欺の噂がたえず流通するタメルの市場では、何が虚偽で何がそうでないのかは、筆者ばかりか当事者たちの誰にも特定できない。筆者は、親密さと詐欺(への疑い)の矛盾そのものがむしろ当事者たちを魅了している点に着目し、フレンド関係が、経済的利益を追求する道具的性質を帯びつつも、そこから逸脱する親密さへと展開していく可能性をも有していることを論じる(五章)。
 小売商がレギュラーと呼ぶ卸売商は、少なくとも表面上、詐欺への疑いを抱く必要のない信頼のおける売り手である。レギュラーと取引することは、取引コストを削減し、慣行的価格水準を維持するのに役立っている。しかし、この信頼関係は、先行研究の多くが前提としてきた親密な人格的関係とは異なっている。レギュラーの名前や出自を詮索することは、レギュラーに詐欺師としての疑いをむけるに等しい配慮に欠いた行為であり、慎まなければならない。また、レギュラーから入手した商品や価格相場の情報は、それらの入手元もふくめて、他の小売商や卸売商に対して秘密にすることが求められる。ところが、こうして築かれる取引上の信頼もまた、レギュラー関係の表向きの姿にすぎない。というのは、小売商たちがつねに複数のレギュラーとの関係を保ち、特定のレギュラーから入手した商品の品質や価格の妥当性について、情報探索を繰り広げているからである。小売商は、ウダールと呼ばれる信用取引において未支払いのまま商品を保持し、その間に商品の品質と価格の妥当性についての情報を収集し、預かった商品の支払いをはじめるか、返品するかの判断をすることになる。商品を売ったレギュラーも、他の卸売商の商品の品質や価格について情報を提供するので、小売商が疑いをもち情報探索をしていることは、宝飾品商売に携わる者の誰もが知ることである。しかし、そのことが表立って話題にされることはなく、ある特定のレギュラーが詐欺師であるとの告発は周到に避けられる。小売商がレギュラーに対して疑いをもち情報探索を続けていることは、マイケル・タウシグがいう「公然の秘密」であり、この知っていることを知らことにしておく巧みさが、小売商と卸売商のレギュラー関係を成り立たせているのだという。
 他方で小売商たちは、買い手であるツーリストとフレンドとしての関係を作りあげることに注力している。成功した小売商とは、世界各国から集まるツーリストをフレンドとし、またツーリストからフレンドと見なされることで、安定的な取引関係を築く商人である。彼らは、ツーリストをお茶に招き、会話の中で出身地や家族構成、職業や滞在計画などを探り、フレンドになる切っ掛けを見いだそうとする。このフレンド関係は、商売を成立させようとする目的性においてレギュラー関係と共通しているものの、重要な点で対照的な性質を有している。それは、ツーリストが、小売商の大多数が詐欺師であるとの噂や情報に敏感な者たちであり、小売商のフレンドとしてのうわべを虚偽として暴きたてて止まない存在であることに由来している。ここに、「公然の秘密」を決して明らかにせず、秘密としてやり過ごすことで成り立つレギュラー関係との対照性が、認められる。ツーリストは、他の小売商の商品や商品価格との比較をもとに、特定の小売商のフレンドとして振る舞いやフレンド価格なるものの虚偽性を告発するが、優れた小売商は比較対象である別の小売商がいかに詐欺師として熟達しているかを巧みに暴き、フレンドとしての関係を深めようとする。ところが、この終わりなき暴きの連鎖は、けっしてフレンドの関係そのものを瓦解させない。それは、マイケル・タウシッグが「公然の秘密」論で指摘するように、虚偽としての表層の暴露が、かえって虚偽ではない何かを想起させて止まないからであり、詐欺の暴きが「信用できる小売商はどこかにいる」というツーリストの絶え間ない希求を促すからである。対する小売商にとっては、ツーリストとのやりとりには常に賭けの要素がつきまとう。目先の損失を厭わないサービスや便宜の提供、自らの立場を危うくしかねない情報の提供は、フレンドであるはずのツーリストが自分を裏切らないということに賭ける行為である。かくして小売商は、ツーリストとフレンドに「なろう」とする実践と、彼がフレンド「である」方に賭けることとの循環に、とらわれ続けることになる。
 以上のように本論文は、タメルにおける宝飾品売買が、知っていることを知らないことにすることで成り立つレギュラー関係と、虚偽を暴露することで虚偽ではないものを希求し、不確定性のなかで虚偽ではないことに賭けることで成り立つフレンド関係によって織りあげられていることを、鮮やかに描き出している。

Ⅱ.本論文の成果と問題点
 本論文の成果として、経済学と経済人類学への貢献、観光人類学への貢献、さらにひろく人類学一般に共有されうる貢献の、三点をあげることができる。
 ひとつめの経済学と経済人類学への貢献として、本論文が先行研究で反復再生産されてきた二項対立を独自の視点から乗り越えた点があげられる。これまで経済学と経済人類学は、形式と実体、経済と社会、利潤追求と互酬性といった二項対立を維持し、この対立に批判的な立場でさえ二項の境界の流動性や通時的可変性を指摘するに留まってきた。市場を人類学の立場から分析する新たな潮流も、市場が市場外的な要素をいかに排除することで成り立っているかの分析に注力する傾向が強い。対して本論文は、市場における利潤追求のただなかで、経済学モデルが通常考慮にいれない対人的な親密性(レギュラー関係とフレンド関係)が取引の結果を左右する極めて重要な役割を果たしていること、しかもそれらが、経済人類学が従来想定してきた市場外的な社会関係とは異なり、市場での巧みなやり取りそのものを介して(再)構築されていることを明らかにしており、この点で画期的な成果であるといえる。
 つぎに観光人類学への貢献をあげる。観光人類学は、観光産業によって提示される親密性や見世物が、これまで人類学が研究対象としてきた「真正な」社会関係や文化とは異なる、演技や虚偽ないし偽装であると繰り返し主張してきた。「真正さauthenticity」と虚偽の対立に捉われて停滞することになった観光人類学は、あらたにホストたちが観光商品を提供する際の「真摯さsincerity」に着目するものの、この方向性も虚偽や偽装の背後に何らかの確かな参照点を求めようとする従来の思考伝統から脱却したものとは言い難い。この点から、本論文が、虚偽や偽装を否定するのでもなく、また「真正な」信頼関係や親密性を理想化することもなく、詐欺の疑いと信頼・親密性の〈あいだ〉に立ちあがる関係性を、観光の現場で活動するひとびとの細かなやり取りに寄り添いながら描きあげたことは、高く評価できる。小売商とツーリストのあいだで繰り広げられるフレンドであるかをめぐる暴き合いと同種の現象は、タメルの市場ばかりか多くの観光現場で観察されるものであり、本論文の骨子が充分に理解されるならば、観光人類学研究を再生させる大きな力となりうるであろう。
 最後に、広く人類学一般に共有されうる本論文の成果として、秘密の共有や暴露が織りあげる社会性のありようを、圧倒的とさえいえる豊富な事例をもとに、陰影ゆたかに描き出し、社会性をめぐる新たな議論の方向性を提起したことがあげられる。もとより本論文でとりあげられる「公然の秘密」の議論は、マイケル・タウシグが著書『ディフェイスメント』で展開したものであり、筆者の独創ではない。しかしながら、タウシグの一筋縄ではいかない議論を、本論文ほど効果的に活用して民族誌として提出した例は、世界的にみてもほとんどないといえる。また、タウシグが「公然の秘密」がもつ社会構成力を示すために主要事例として取りあげたのが、メラネシアや南米で観察された一見して「風変わり」な通過儀礼であったのに対し、渡部氏が詳細に分析した対象が、現代の観光地やバザールで頻繁に観察されながら、詳細な分析に付されることのなかった市場でのやり取りであったことは重要である。本論文は、秘密と社会性の関わりをめぐる議論が、今後多方向かつ豊かに展開していくことを、確かに予感させるものである。
 以上、本論文は際だった成果をあげたものの、そこに問題点が指摘できないわけではない。ひとつは、本論文の成果の第一点目と関わっている。本論文は、経済人類学ばかりか、経済学の取引モデルを批判的に乗り越えることを目指したものであったが、その際に集中的に記述されたレギュラーやフレンド関係の構築も、経済学が想定する利益極大化のための戦略として理解しうることに関して、より意識的であるべきだった。また、とくに情報の非対称性に特徴づけられる市場の分析は、ゲーム理論を応用する経済学が得意としてきた分野であり、筆者がこの分野の蓄積に通じていない点は無視できない弱点であるといえる。本論文のもうひとつの問題点として、タウシグの「公然の秘密」論を援用したフレンド論と、他方の賭けとしてのフレンド論の接続が、不充分であったことがあげられる。詐欺や虚偽の暴きの先に未だ見ぬ「ほんとう」のフレンドを希求することと、不確定性のなかで目前の相手がフレンドであることに賭けることとは、性質の異なる行為であるといえよう。前者がフロイトからラカンにつらなるフェティシズム系の議論であるのに対し、後者はすでにのべた経済学の取引モデルと親和的であり、両者の接続についてはより一層の注意深さが望まれた。
 もっとも、これらの問題点は、論文が全体として提示する成果の学術的価値をいささかも損なうものではなかった。また、筆者も問題点を強く自覚し、今後の研究の課題としているところである。さらなる研究の進展を期待したい。

Ⅲ. 結論
 審査委員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与すること大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2016年3月9日

2016年2月17日、学位請求論文提出者渡部瑞希氏の論文について、試験を実施した。なお、本試験では、一橋大学学位規則第8条第4項の規定により、外国語及び専攻学術に関する試問は免除した。試験において審査委員が、提出論文「観光市場におけるフレンドと詐欺師をめぐる人類学的考察-カトマンズの観光市場、タメルにおける宝飾商売のフィールドから-」に関する疑問点について説明を求めたのに対し、渡部氏はいずれに対しても的確に応答し、充分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、渡部瑞希氏が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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