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博士論文審査要旨

論文題目:ドイツ通俗哲学の理念とカント批判哲学の誕生 ―〈健全な理性〉=コモンセンス概念をめぐる1754-65年の言説研究―
著者:小谷 英生 (KOTANI,Hideo)
論文審査委員:平子 友長、加藤 泰史、大河内 泰樹

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I 本論文の概要
本論文の目的は、これまで一般的な西洋哲学史のみならず近代ドイツ哲学史においても軽視されてきたドイツ通俗哲学(Deutsche PopularphilosophieまたはPopulärphilosophie)を思想史的に再評価し、それがカント批判哲学の誕生に対していかなる意味をもったのかを明らかにすることである。ドイツ通俗哲学は、具体的には、①当時支配的であった講壇哲学に対するオルタナティヴを提出しており、②このオルタナティヴは(a)講壇哲学がその哲学原理とみなした〈推論的理性〉に対する〈健全な理性〉=コモンセンスの復権、(b)英仏の啓蒙思想の受容とドイツ独自の発展としての独自思想、(c)大学という閉鎖された空間から一般公衆へと哲学を開放すること、すなわち公衆による公衆のための哲学の創設という特徴をもっていた。ところが、通俗哲学は、③哲学者が公衆を啓蒙するという側面をもっており、いわば「上からの啓蒙」という側面を免れてはいなかった。ここに、ドイツ通俗哲学の意義と限界があった。
 ドイツ通俗哲学という思想運動は1754年に始まるが、1760年代のカントもまたこの運動に積極的に参加していた。カントは、1760年代初頭の諸論文において〈推論的理性〉に対する〈健全な理性〉の優位を認め、後者を原理として哲学を構築すべきことを訴えていた。しかし1765年頃から、〈健全な理性〉の哲学に対して、カントは否定的になる。さりとて講壇哲学流の〈推論的理性〉の哲学に戻ることもできず、〈推論的理性〉と〈健全な理性〉というふたつの哲学原理の双方を否定することになったのである。そこから生じたのが、理性批判という方法であった。
本論文では、以上の論証を次のよう展開した。第1部では、ドイツ通俗哲学が一般に言われるように堕落した哲学ではなく自覚的に選び取られた哲学的スタイルであったことを確認する。第1章では、ドイツ通俗哲学に関する先行研究を整理する。第2章では、通俗哲学先行研究における難点が克服され、通俗哲学の一般的理念が説明される。こうした理念は1754年の段階ですでにエルネスティやズルツァーらによって語られていたことが、第3章で論証される。つづく第4章と第5章では、〈健全な理性〉と〈推論的理性〉の区別と優劣をめぐる哲学的立場の対立が素描される。第4章および第5章第1節では、この区別と対立が18世紀ドイツを通じて存在したこと、ならびにその具体的なディスカッションをテキスト横断的に再構成する。第5章第2節では、ヴォルフ学派の代表としてマイアーの見解を、第3節では、通俗哲学の代表としてバゼドウの見解を検討する。第6章はガルヴェ論に費やされ、通俗哲学において重視された経験観察がガルヴェにおいてどのようなかたちで理論化されていたのかを確認する。
 続く第2部では、1762-65年のカントにおける通俗哲学へのコミットメントが明らかにされる。第7章は、先行研究の整理に充てられている。第8章では、『判明性』論文を読解する準備作業として、メンデルスゾーンの『明証性』論文を分析する。それを踏まえて第9章では、『判明性』と『根拠』論文を分析し、カントが弱い意味での通俗哲学者であったことを論証する。弱い意味という表現は、カントが通俗哲学の理念を全面的に支持していたわけではなく、ただ限定的に賛同していたにすぎないということである。そしてこの賛同が、〈健全な理性〉そのものの再吟味を促し、理性批判というアイディアに――ただしそれはまだ超越論的批判ではなかったが――結実していったことを確認するために、第10章では、『脳病試論』『公告』を分析する。『公告』では、カントの執筆した文書上はじめて「理性の批判」という語が登場し、それは〈健全な理性〉の「批判と規定」と「本来の学識」の「批判と規定」に分かれていた。カントは1765/66年冬学期の論理学を前者に費やしており、そのとき使用した教科書がマイアーの『理性論要綱』に残されている。第11章では、『視霊者の夢』が分析され、その理論構造が解明されるとともに、そこでもカントが〈健全な理性〉の哲学の立場に立っていたことが論証される。最後に、第12章は、マイアー『理性論要綱』へのカントの書き込みを分析し、〈健全な理性〉の哲学からの離反の契機を確認する。第2部の叙述によって、1760年代のカントは通俗哲学者であったという事実が論証され、それが批判哲学の最初の構想に結実していったこと、そしてにもかかわらずカントは〈健全な理性〉の批判において、早くも通俗哲学の限界にまでたどり着いてしまったことを、本論文は明らかにした。

II 本論文の成果と問題点
 本論文の成果は、以下の3点である。
 第1の成果は、18世紀中葉、スコットランドおよびフランス啓蒙思想の受容を通して、ライプニッツ=ヴォルフ学派の講壇哲学を批判しつつ形成されたドイツ通俗哲学を代表する思想家の文献を博捜し、その全体像を描き出したことである。通俗哲学は、18世紀ドイツ哲学に大きな足跡を残したにもかかわらず、カントの批判哲学の成立以降、その「通俗性」が批判され、その後のドイツ哲学史記述の中で忘れられていった。その経緯を考慮すると、本論文が、忘れられた哲学思想としてのドイツ通俗哲学を再評価したことの意義は大きい。
 第2の成果は、同時代の市民の日常生活に関わる多様な論点を展開しつつ登場した通俗哲学の統一像を把握するために、本論文が<推論的理性>、<健全な理性>という対概念を設定したことである。これによって、哲学的概念からの演繹を重視したライプニッツ=ヴォルフ学派に対して、経験によって認識を直接的に獲得する<健全な理性>の優位の下に<推論する理性>を位置づけるべきことを主張した通俗哲学が哲学史上果たした役割が、明確となった。18世紀のイギリス、フランスに発展していた、経験を重視し、市民の実生活に役立つ社会哲学・倫理学を構想する思想運動が同時代のドイツにおいても存在していたことを解明したことが、本論文の意義である。
 第3に、本論文は、カントが1760年代前半、通俗哲学に部分的に共鳴していたこと、しかし後半以降、<健全な理性>に対して次第に批判的スタンスを取るようになった経緯を明らかにしつつ、カントの批判哲学がライプニッツ=ヴォルフ学派の直接的な批判的継承ではなく、その間に通俗哲学という媒介項が存在していたことを明らかにすることにより、カント以降のドイツ古典哲学形成史研究に一つの重要な貢献をなした。
 本論文は、以上述べたような成果をあげたが、他面では、以下に指摘するような問題点が残されている。
 第1の問題は、キケロ、スミス、ファーガスンらの著作を精力的に翻訳・注釈し、ドイツにおける独特な「市民社会bürgerliche Gesellschaft」概念の形成に大きな役割を果たしたガルヴェの道徳・社会哲学の内在的論理構造にふみこんだ論述ができなかったことである。通俗哲学の全体像を<健全な理性>というキーワードを使って整理したことの結果として、通俗哲学が最も豊かな論述を行った社会哲学の領域における諸理論の検討が不十分なままにとどまった。
 第2の問題は、著者は、カント哲学の本質的メルクマールを通俗哲学の<健全な理性>批判を通して成立した「批判哲学」と規定しているが、その際、著者の論述は、従来の有力な先行研究に対する充分な批判的検討をふまえてなされているとは必ずしもいえないという点である。特にカント『純粋理性批判』の成立史研究における従来の有力な見解(ディーター・ヘンリッヒ)は、カント哲学の本質的メルクマールを「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」という視点から「超越論的哲学」と規定しており、この点が十分にふまえられているとはいえない。
 とはいえ、上記の2つの問題点は、著者自身が深く自覚するところであり、口述試験において審査委員から提出された上記の問題点に関する質問に対しても著者は適切な回答を行った。これらの問題点は、今後著者が行う研究によって十分果たされるであろうことを、審査委員は確信している。 

III 結論
審査委員一同は、上記のような評価と、2015年11月30日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2016年1月13日

2015年11月30日、学位論文提出者小谷英生氏の論文について最終試験をおこなった。試験において、提出論文『ドイツ通俗哲学の理念とカント批判哲学の誕生―<健全な理性>=コモンセンス概念をめぐる1754-65年の言説研究―』に関する疑問点について審査委員が逐一説明を求めたのにたいして、小谷氏はいずれも適切な説明を与えた。よって審査委員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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