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博士論文審査要旨

論文題目:日本におけるスポーツ施設産業の展開に関する社会学的研究 -1960年代半ばから70年代初頭のボウリング場産業に着目して-
著者:笹生 心太 (SASAO,Shinta)
論文審査委員:尾崎 正峰、坂 なつこ、堂免 隆浩

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Ⅰ 本論文の構成

 本論文は、人々のスポーツ参加の基盤として重要なスポーツ施設が、公共、企業(職場)、民間など複数の部門によって提供されている中において、民間部門の占める位置が、なぜ、いかにして高まっていったのかという問題意識を起点とし、1960年代半ばから70年代初頭に着目し、スポーツ施設産業の中でもとくにボウリング場の展開過程を実証的に明らかにし、いわゆるボウリングブームが人々のスポーツ参加についていかなる意味を有していたのか、そして、その後、現在に至るまでのスポーツ施設産業、および人々のスポーツ参加についていかなる影響を与えたのかについて考察を加えた意欲的な論考である。

第1章 課題と方法の設定
1-1.問題の所在
 1-2.先行研究
 1-3.先行研究の成果と限界
 1-4.課題と方法

第2章 1960年代におけるスポーツ施設の供給構造
2-1.福祉の供給構造とスポーツ供給構造
 2-2.1960年代における福祉の供給構造
 2-3.1960年代におけるスポーツ施設の供給構造
 2-4.1960年代におけるスポーツ参加者の状況
 2-5.本章のまとめ

第3章 ボウリングブーム現象
3-1.ボウリングブーム現象の概況
 3-2.ボウリング場の供給
 3-3.ボウリング参加者
 3-4.本章のまとめ

第4章 関連団体による多様な性格の獲得
4-1.ボウリング関連団体
 4-2.ボウリングの多様な性格の獲得過程
 4-3.関連団体による欲求の喚起
 4-4.本章のまとめ

第5章 結語
5-1.議論のまとめと考察
 5-2.本稿の意義と限界
 5-3.今後の展望

Ⅱ 本論文の概要

 第1章では、先行研究の検討にあたって、民間部門によるスポーツ施設の展開が顕著となってきた1970年代から現在に至るまでの時期におけるスポーツ社会学、スポーツ産業論、スポーツ政策論など多岐にわたる研究領域を渉猟し、丹念にその論点の特徴、課題等を抽出していく。笹生氏は、先行研究が示したスポーツ施設産業の展開の過程や産業の拡大の要因や影響などに関する知見として以下の4点に整理することができるとしている。第1は、現在の大規模なスポーツ施設産業の展開は、直接的には1980年代以降にもたらされたこと。第2は、1960年代から1970年代初頭のボウリング場の発展が、その後のスポーツ施設産業の展開のための基盤的条件を作り出したこと。第3は、ボウリングブームと呼ばれた現象は単純な需給関係の結果のみから導き出されたものではなく、スポーツを含む余暇の領域を産業として成長させようとする政策動向に規定されていたこと。そして第4は、スポーツ施設産業の展開がその後の人々がスポーツに参加するという行動に対して影響を与えた可能性を示していたこと、である。
 先行研究の検討を通して、笹生氏はスポーツ施設産業の展開の過程を先行研究より長いタイムスパンでとらえることとし、戦後過程を以下の4期に区分する。第1期(終戦から1960年代半ば):人々がスポーツをする、見るということが徐々に拡大してきたことを背景に、スポーツ用品業が次第に拡大を見せ始める一方、スポーツ施設に関しては未だ目立った動きが見いだせない時期。第2期(1960年代半ばから70年代初頭):人々のスポーツ参加が以前と比較して大きく増大を見せ始める時期で、スポーツに対する政策的関心も高まる中で、スポーツ産業の振興に関する政策的な見取り図も提起された時期。第3期(1970年代初頭から末):オイルショックをきっかけにスポーツ施設産業の展開が停滞したものの、スポーツの場の提供主体としての民間部門の重視という政策方針が示されるなど、その後のスポーツ施設産業の大規模な展開の下地が形成された時期。第4期(1980年代以降):民間活力論に基づく市場創設のための政策誘導などの政策的後押しを受けながらスポーツ施設産業が大規模に展開した時期、である。
 こうした先行研究の批判的検討と戦後の民間部門によるスポーツ施設の拡大過程の時期区分設定を通して、先行研究では第2期に関する分析が不足している点を指摘する。すなわち、この時期に着目した研究の数そのものが少ないことと同時に、全体的に概論的内容にとどまっており十分なデータを用いて当時の状況を説明できていない点や、日本におけるスポーツ施設の供給構造の形成過程の全体像を踏まえたうえでこの時期の施設産業の形成をとらえきれていないという限界を抱えていたとする。この時期は、民間部門によるスポーツ施設の供給という、それまではほとんど展開していなかった領域が切り開かれた重要な時期であるにもかかわらず、実態的に十分に明らかにされてこなかったとして、本論文では第2期を主たる考察の対象とし、先行研究が用いてこなかった資料、データの分析や当時のボウリング関係者への聞き取り調査を通して実証的に実態を明らかにしていくとする。
 第2章では、日本における福祉全般の供給構造を踏まえつつ、1960年代におけるスポーツ施設の供給構造の特徴、および、人々のスポーツ参加の特質を明らかにすることをねらいとしている。笹生氏は、エスピン・アンデルセンの福祉レジーム論に着目しつつ国際比較の文脈の中で日本のスポーツ供給の特質をとらえようとした先行研究の議論をふまえ、より広い社会的文脈からの視座を設定しようとする。まず、福祉レジーム論の検討を通して日本は保守主義レジームと自由主義レジームの混合型・並存型であるとし、同時に、企業社会論の検討から日本社会の特質と福祉供給の関係を考察している。そのことから、1960年代における福祉の供給構造は、以下の3つの特徴を有することとなったとする。第1に、公共部門による福祉供給が不十分であったこと。第2に、そうした公共部門の代替として企業が主要な役割を果たしたこと。第3に、企業による福祉供給の占める割合が高かったとはいえ、大企業と中小・零細企業の経営基盤の違いに伴い、企業による福祉を享受できる層とできない層の間に二重構造が生じたこと、である。
 以上のような特徴をふまえ、1960年代におけるスポーツ施設の供給構造を検討すると、類似性と相違点の双方を見いだすことができるとする。すなわち、公共施設が量的に少なく利用実績も少なかった上に、同じく公共的な性格を有するといえる学校施設は公共施設の不足の補完としての役割を果たしうる潜在性は有していたものの未だ地域などへの開放に多くの限界がある中で十全な機能を果たすには至っていなかった。こうした公的部門の施設整備の遅れという感覚は特定の層に限定されたものではなく幅広い人々に共有されていたとする。また、そうした状況を背景として、公的部門に対する当時の人々の施設建設要求がきわめて強かったとする。
 次に、こうした公的施設の不足を補っていたのが職場施設であったとして、この当時、量的に公共施設よりも多く整備され、人々の利用実績としても公共施設を上回っていたことがデータとともに示されている。しかし、当時において一定程度の役割の大きさを持っていた職場施設であるが、基本的に従業員の福利厚生のためのものであり地域へ開放される割合は低かったこと、職種や企業規模によって整備率に偏りがあったこと、などの制約があったことを指摘している。
 そして、スポーツ施設の利用の場面における二重構造の問題の特質について次のように述べている。第一に、当時、被用者における中小・零細企業従業員の職場施設利用率は非常に低かったが、この点と関わって、これらの層のスポーツ参加率は相対的に低く、職場における施設環境がスポーツ参加における阻害要因となっていたと考えることができるとする。次に、こうしたスポーツ参加の阻害について、笹生氏は主婦層に注目する。前述のように、大企業で働く従業員とその家族は公共による福祉の代替としての企業による福利厚生を享受できたが、スポーツ施設の利用において職場部門の恩恵にあずかれたのは男性従業員本人のみであり、家族である主婦はそこから外れていた。これらの点から、二重構造の問題はスポーツ施設の利用、スポーツ参加においてはより先鋭的に現れていた部分があったととらえることができるとする。しかし、スポーツ参加が相対的に低い層であっても、スポーツ参加への欲求が決して低かったわけではなかった点もあわせて指摘している。
 第3章では、まず、日本におけるボウリングの歴史的過程を跡付け、いわゆるブーム以前のボウリングの受容、ボウリング場の設置状況などを概観しているが、民間ボウリング場第1号として東京ボウリングセンターが1952年に設立されたことにみられるように、1950年代初頭が民間部門によるボウリングの展開の起点ということができるとする。そして、1960年代に入ると劇的な変化が現れたとする。その具体的な要因は、1961年に開発された自動式ピンセッターの導入であり、この技術上の進展がそれまでの手作業によるピンの再セットに伴う非効率性と人件費の問題をクリアすることにつながり、ボウリング場が非常に利益率の高い事業として認知されるようになったことが重要であったとする。加えて、こうした技術開発以降、ボウリング場は、施設の回転率を重視した経営を追求するようになった。つまり、早くプレーを行わせてお客の入れ替わりの回転を早くさせることに主眼を置いた経営が主流となっていったが、この点はボウリングの本場である米国のボウリング場ではボウラーに対する快適性向上のための施策や飲食物の提供などを行うことで社交場としての性格をも持たせていたことと比較すると著しい違いをみせているとする。この結果、プレー中以外の休憩などの時間帯におけるくつろぎ等の空間の演出や飲食物供給といった経営上のノウハウが不要とされたため、ボウリング場はボウリングをする設備さえ整備すれば儲かるという認識がなされるようになったとする。このことに呼応する形で、ボウリング専門の企業に限らず、映画や不動産、鉄道などの企業が経営多角化の一環としてボウリング場事業に進出することが可能となったが、これが後述されるようなボウリング場の過剰供給をもたらすひとつの要因ともなったとする。
 次に、ボウリング場に足を運んだ参加者側からの視点を交えてボウリングの爆発的な拡大の要因を探っている。従来からスポーツに積極的に参加していた層がボウリングの展開を後押ししたのは当然ともいえるが、それ以上に、あまりスポーツを行っていなかった層を引き込んだことがいわゆるブームとまでいわれる社会現象にまで押し上げたとする。そして、それまでスポーツ参加に至らなかった人々がなぜボウリングに引き寄せられたのかという点について、当時のボウリングが従来のスポーツ種目とは異なる性格を有していたからであったとする。まず、ボウリングの場合、それまでのほとんどのスポーツ参加の場面と異なる「お金を払ってスポーツをする」という金銭消費性。そして、雑誌広告やテレビによるさまざまなイメージ戦略によって演出されたファッション性であるとする(ただし、これらの性格はボウリングという種目そのものに内在していたものではなく、ボウリングを産業として推進する側が意図的に付与したものであったと付言している)。こうした性格は、あらゆる階層の人々に投げかけられたものであるが、とくに、公共部門によるスポーツ施設整備が十分でない時代状況において職場施設利用の面でも不利な立場にあった層、例えば主婦層を引き込むうえで重要であったとする。実際に、主婦層をターゲットとしてファッション性を前面に押し出した集客戦略を立てたボウリング場も少なくなく、誰に対しても開かれていたボウリング場に多くの人々が引き寄せられた。そして、これらの要素が複合的に組み合わさることで表出された差異顕示性に関わって、ボウリングにかかる費用が当時としては比較的高価であったにもかかわらず数多くの人々がボウリング場に通ったのには、ボウリングをすることがある種のステイタスととらえられていたことによるとする。この点は、レジャーに関する先行研究において「人の行くところに行かないと安心できない」と表現されているような社会的強制性を1960年代半ばから1970年代初頭の時期のレジャー活動は有していたとする指摘と関連しているとしている。
 別の側面への現れとしては、ここで指摘されているボウリングに付与された性格は従来のスポーツとかけ離れたものとしてとらえられ、ボウリングは教育上ふさわしくないものと見られるようになった。そのことが、公共部門によるボウリング場の整備を足踏みさせ、民間のボウリング場が増加するひとつの要因だったと言えるとしている。
 第4章では、ボウリング産業に関わる団体の動向を対象として、諸団体の取り組みの絡み合いを跡づけるとともに、第3章でとらえたボウリング場の拡大にとって重要な要因であったボウリングの独特な性格がどのような過程を経て形成されたのかについて明らかにしている。
 1960年代初頭、ボウリング場が徐々に増加し始め、ボウリング場間の競争という状況の中で深夜営業や賞金・商品提供などの手法をとるボウリング場が目立つようになったが、こうした過剰ともいえる娯楽的性格に傾斜した経営は人々の射幸心をあおるものと警視庁から判定され、風俗営業等取締法(以下「風営法」)の規制対象の俎上に上げられる事態を迎えた。そうした状況下において、ボウリングの競技者団体である全日本ボウリング協会(以下「JBC」)とボウリング場の経営者団体である日本ボウリング場協会(以下「日場協」)は、ボウリングは健全なスポーツであると宣伝することで規制を回避しようとした。その具体的な対策として、営業時間、賞品、未成年の3点への対応を柱とする自粛三原則を各ボウリング場に徹底することに努め、その結果、風営法の規制を回避することができた。しかし、風営法の規制となりうる可能性が依然として残っていたため、風営法不適用という命題のもとで諸団体がボウリングのイメージ改善に取り組んでいく。
 1965年にはJBCと日場協を中心として日本ボウリング協議会(以下「NBCJ」)が結成されたが、NBCJは引き続き不健全なイメージを取り除き、スポーツとして人々に広めていくための施策を行い、一定程度の成果をみることになった。一方、日場協非加盟の「アウトサイダー」と呼ばれるボウリング場経営者たちは、問題の焦点といえる深夜営業や賞品・賞金提供など享楽的な娯楽を強調した経営を継続的に実施していた。こうした状況ゆえにくすぶりつづけている風営法適用の論議が再度起こってくるなど事態は紆余曲折を経ていたとする。また、NBCJは「娯楽化」に傾斜していく元凶ともいえるボウリング場間の競争を過熱化させない方策として、様々な規制を敷くことによってボウリング場の過密化を未然に防ごうとした。新規ボウリング場に対して日場協に加盟することを強く求め、入会金の支払いや、日場協に加盟しなければJBCによるレーン認証が受けられないこと、既存ボウリング場との距離制限などが定められた。こうした規制はボウリング場の過密化に対する一定の歯止めとなったが、アウトサイダー側からの反発を引き起こした。1971年7月、NBCJは公正取引員会によって独占禁止法違反の疑いがあるとして強制捜査を受け、同年12月、「一定の事業分野における事業者の数の制限実質的な競争制限」にふれるものとしてこれまでの規制を撤廃するよう勧告を受けた。これをきっかけとしてNBCJの業界全の統率力は弱体化することとなった。
 以上のように、1960年代半ばから70年代初頭におけるボウリング場産業は、風営法適用など新たに起こってきた問題への対応をさまざまに迫られていた。そうした状況において、NBCJはボウリングをスポーツとしてとらえる「スポーツ化戦略」を取り、アウトサイダーはより娯楽性を前面に出した「娯楽化戦略」を打ち出した。前章で検討したイメージ戦略などとともに、こうしたボウリング場経営における方針の多様さゆえにさまざまなニーズを持った人々を顧客として引き込むことにつながったとする。つまり、当時のボウリング場産業は、それまでにスポーツに参加していた層の欲求を吸収したのみならず、スポーツであるがゆえに敬遠していた層などさまざまな層をもボウリングという場に足を向かわせることを実現したとする。また、そのことにとどまらず、各層の人々に対して、新たなスポーツへの欲求を喚起したとする。こうした過程を別の観点から見ると、当時のボウリング場産業は「金銭を支払ってスポーツを行う」という新たな余暇行動を人々の間に導きだし、スポーツ施設という新しい産業領域を切り開く可能性を示すとともに、その後のスポーツ施設産業がレジャー産業の一領域として拡大していく基盤になったととらえることができるとする。
 第5章では、本論文の議論を敷衍するとともに、1960年代半ばから70年代初頭のボウリング場がその後のスポーツ施設産業の大規模な展開に与えた影響について考察している。後者については、いわゆるボウリングブーム現象以降、大幅に増加した民間スポーツ施設の中でも数量的な面ではアスレチッククラブ(フィットネスクラブ)とテニスコートが特筆されるとする。これらの施設は「ポストボウリング」と呼ばれているが、流行期のボウリングと類似した特徴として次の2点をあげることができるとする。第1は、スポーツ専門の企業のみならず、異業種からの参入が盛んであった点である。このようにスポーツ施設経営の参入障壁を引き下げたのには、流行期のボウリング場同様に、飲食物の提供などを捨象し、基本的に設備の回転率向上を促すことを経営の主眼としていたことによる。第2に、ボウリングと同様に種目参加に関わって差異顕示性が認められることである。さらに、流行期のボウリング場には見られなかった点として、これらの民間施設では、会員制を導入し、高額な入会金や会費を必要としたことも民間施設でのスポーツ参加における差異顕示性を高めた要素と言えるとする。
 以上のような、ポストボウリングの各種施設の経営に対する異業種企業の殺到と、各種目の持っていた差異顕示性という特徴は、いずれも流行期のボウリング場産業から引き継いだ特徴であった。言い方を変えると、流行期のボウリング場産業がこうした特徴を開発したことで、その後にスポーツ施設産業が大規模に展開していく土壌が形成されたと言うことができるとする。

Ⅲ 本論文の成果と問題点

 本論文の成果は多様なものがあるが、とくに以下の点を上げることができる。
 第一に評価すべき点は、スポーツ社会学やスポーツ産業論の領域における研究対象として取り上げられることがこれまでも少なくなかったいわゆるボウリングブームであるが、先行研究においてはブームといわれた限られた時期に関して論じているものや概論的なものが多く、必ずしもその全体像がつまびらかにされてこなかったことに対して、本論文は、日本におけるボウリングの展開過程を長いタイムスパンの中に位置づけ、関連資料やデータ、ブーム当時のボウリング産業の当事者への聞き取り調査などをもとに実証的にとらえていること、そのことを基盤として、ブームの到来と終息という社会現象ともいえる事象の特質を今まで以上に鮮明に描き出したことである。
 第二に、第一の点との関連で導き出されてくるもので、ボウリングブームの担い手たるボウリング関連団体・組織に着目して、その施策方針や動向を丹念に追うことでブームの内実について、これまでに論じられてこなかった視点を提示したことである。すなわち、本論文では、ブームの最盛期において、ボウリングの拡大方針をめぐってボウリング関連団体・組織は一枚岩であったわけではなく、団体・組織間の抗争ともいうべきやり取りがあったことを解き明かしている。加えて、各団体・組織が自らの利益の最大化のためにそれぞれに拡大方針を打ち出すという、ある意味、混沌とした状況が、逆説的に、人々の多様なスポーツに対する考え方、嗜好を受け入れる土壌となったという興味深い指摘もなされている。
 第三に、ボウリングブームのただ中にいた人々、ボウリング場に殺到した人々について、新聞、雑誌、関連アンケートなどの諸資料、データを用いることで、「日本型企業福祉」の網の目から抜け落ちていた主婦層のボウリングへの参加の状況など、これまでの研究が示してきたもの以上に具体的な姿を持って記されていることである。そして、数次の内閣府の世論調査で人々のスポーツ参加の種目として常に上位に位置し、また、2020年に予定されているオリンピック東京大会の大会独自の追加種目の候補として残っているなど、現在、ボウリングがスポーツ種目として日本社会において広く受容されているといえるが、こうした定着を促した始原がボウリングブームの時期における人々の参加経験、およびそれを契機とするスポーツ欲求の覚醒にあるとする視点を提示している。
 第四に、以上のような分析、考察を総合して、人々のスポーツ参加の基盤としての施設提供に関して、民間部門の位置づけが拡大していく端緒が考察の中心とした1960年代の時期にあることを説得的に論じた点である。
 このように多くの成果を上げた本論文であるが、いくつかの課題もある。
 第一に、本論文における課題設定や民間部門によるスポーツ施設の展開過程を見通す部分においては、たとえば1970年代初頭(当時の)通産省などによるスポーツを含む余暇産業の推進、振興の見取り図が提示されていたことに言及しているものの、それらの政策がいかなる関係性のもとに実際の産業の展開にどのような影響を与えたのか(あるいは、それほど与えなかったのか)等についての分析が必ずしも明示的ではない点があげられる。当時においては、スポーツ産業の推進に関わる政策は必ずしも確固たる形をとっていなかった側面はあるものの、時代の特質を検証する上で政策との関連性の視点は重要であるといえる。
 第二に、上述のように、人々のボウリングへの参加する姿が従来より具体的な像を持って言及されていることは特筆されるものの、一方で、参加者の階層性、たとえば主婦層と一括してとらえるだけではなく、その経済的、社会的な基盤の違いなどの視点を含めてさらなる精査を求めたい部分も散見された。
 以上の点は著者も十分認識しており、今後の研究の進展で克服されていくものと確信する。また、これらの課題にもかかわらず本論文が達成した成果を損なうものではない。

Ⅳ 結論

上記のような評価に基づき、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するところ大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値する業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2015年7月8日

2015年6月15日、学位論文提出者笹生心太氏の論文について最終試験を行った。試験においては、「日本におけるスポーツ施設産業の展開に関する社会学的研究―1960年代半ばから70年代初頭のボウリング場産業に着目して―」に関する疑問点について審査員から逐一説明を求めたのに対して、笹生心太氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせて考慮し、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

以上

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