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博士論文審査要旨

論文題目:1950~60年代における朝鮮学校教育史
著者:呉 永鎬 (O,Yongho)
論文審査委員:木村 元、中田 康彦、吉田 裕、太田 美幸

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Ⅰ.本論文の構成

本論文は、これまで部分的・断片的に描かれてきた朝鮮学校の教育の歴史を、朝鮮学校の教育の日常を示す新しく発掘した大量の文書資料に基づき、日本社会、朝鮮半島の社会、在日朝鮮人社会という三つの社会からの規定力に着目しながら、朝鮮学校の当事者たちによる脱植民地化に向けた取り組みの歴史を実証的に描き出した意欲的な研究の成果である。
本論文の構成は以下の通りである。

序章
 第一節 問題の所在――朝鮮学校教育史の不在
第二節 先行研究の検討および本稿の視角と課題
 第三節 研究対象と方法
 第四節 論文の構成 
第一部 朝鮮学校と運動――教育権獲得運動の歴史と意味
第一章 民族教育権要求の起源――独自教育の実施と教育費国庫負担をめぐる運動(1948年~1954年)
第一節 「解放」後在日朝鮮人による教育権要求の始動
 第二節 教育形態および教育運動の多様化――民戦期の教育権獲得闘争
第二章 海外公民としての教育権獲得運動――総連の結成と本国の教育政策(1955年~1962年)
第一節 総連の結成と教育運動の変化
第二節 共和国の在日朝鮮人教育政策との連動――教育援助費と帰国事業の影響
第三節 小括
第三章 朝鮮学校の法的地位と「日本の学校」――連帯と排除の狭間で(1963年~1969年)
第一節 法人設立および各種学校設置認可取得運動の展開
第二節 「外国人学校法案」反対運動の展開
第三節 「日本の学校」――周縁の学校からの問い
第四節 第一部小括
第二部 脱植民地化の教育史
第四章 民族教育に込められた意味――朝鮮学校における民族と愛国
第一節 民族による、民族に関する、民族のための教育
第二節 植民地期経験の逆転としての「立派な朝鮮人」
第三節 実践される愛国と民族
第五章 教育における「在日朝鮮人性」の組み込み――カリキュラムおよび教科書の編成と変遷
第一節 朝鮮学校課程案の全体像
第二節 「移植」型国民教育から「在日」型国民教育へ
第六章 作り上げられる朝鮮学校教員像――民族教育の担い手に求められた素養
第一節 朝鮮学校教員の基本属性
第二節 教員確保の歴史的展開――即席・登用・再教育、そして養成機関
第三節 朝鮮学校の教員として求められた素養の変遷――教研を中心に
第七章 「在日」型国民教育の諸相――脱植民地化と「在日朝鮮人性」の競合と調整
第一節 国語常用の壁と在日朝鮮語の創造――目指される浄化、生み出される亜種
第二節 基本生産技術教育の推進と頓挫――本国と居住国との狭間で
第三節 朝鮮学校における愛国主義教養の教育史――揺れる共通の記憶
終章
 第一節 朝鮮学校教育史研究が問いかけるもの
第二節 今後の課題

Ⅱ 本論文の概要
序章では、まず朝鮮学校に関する先行研究を整理し、本論文の研究の課題を定めた。政策と運動の対抗を主軸に、日本の同化教育政策の継続のなかで朝鮮学校を位置づける小沢有作に代表される研究が骨格にあり、また、資料の制約から部分的でかつ価値的に論じられることがおおかった研究の状況を指摘する。そのなかで、金徳龍によって朝鮮学校での教育の時期区分として、1970年前後を境に「帰国志向型」から「在日志向型」の教育への転換説が示されている。他方、近年において朝鮮学校の日常に迫る研究が示されてきており、そのなかで、民族や国家の言説が一意的に実践されるだけでない子どもたちの朝鮮学校でのありよう、教育の受け止めを対象とする宋基燦などによる研究が示されるようになってきた。こうした時期的な制約も含めた先行研究の意味づけを行った上で、それらを批判的に踏まえた課題を設定した。すなわち、植民地主義によって刻まれた社会認識・自己認識の払拭を指す「認識による脱植民地主義」という観点から、朝鮮学校史を政策と運動の非日常史としてとらえるのみならず、朝鮮学校の教育の日常史に注目する。さらに、朝鮮学校を被支配者たちの「認識における脱植民地化の歴史」のなかで押さえ、朝鮮学校教育史の再構成をはかりながらその意味を考察する。その際に教育という営為に伴う反省性を教育の日常史のなかによみとり、ペダゴジーの変容の繰り返しの軌跡としてとらえるとした。以上を踏まえた朝鮮学校史を位置づけることで戦後日本教育史を位置づけるとする。
第一部の三つの章では朝鮮学校をめぐる教育権獲得運動の歴史をあつかった。
第一章(1948~1954年)では、在日朝鮮人の視点から、在日朝鮮人らがこの運動にどういった論理を用いて臨んだのか、また各地での朝鮮学校弾圧にどのように抗したかを描いた。在日朝鮮人らが、当然の権利として朝鮮学校の教育の全額国庫負担を訴えたこと、また独自の民族教育の実施の場を継続的に求めたことを示した。学校閉鎖以降、自主学校(無認可校)、公立朝鮮学校、民族学級といった様々な選択ののちに展開した民族教育の場、なかでも、「児童奪還」運動、私立移管反対運動、教育費獲得運動などに注目しながら、引き続き教育権獲得運動が展開したことを描きだした。国庫からの負担は、暫定的に設置された公立朝鮮学校を除いては実現することはなかったが、地方自治体からの補助金は多くの朝鮮学校が確保していたことが示された。地方自治体の対応は多様であったが、その論理のなかに朝鮮学校を行政の監視下におく意図が孕まれていたことを示唆した。
第二章ではまず、1950年代中盤に、朝鮮人団体と日本共産党および朝鮮労働党との関係の変化が起こり、朝鮮人団体の運動路線の転換があったことを示した。そうした転換は、朝鮮学校の経営方針にも及び、教育費の全額国庫負担論は補助論へと次第に移行していき、朝鮮学校の運営費は自助努力によって賄われることが方針化される。また、1950年代後半には、朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)からの教育援助費の送付(1957年~)および帰国事業の開始(1959年~)がなされ、共和国の海外公民を育てるという朝鮮学校の教育方針は一層正統的な位置を占めるようになった。共和国との心性的・物質的繋がりが強まるなかで、教育権運動の論理も変化し、日本に住む共和国の海外公民としての教育権が主張されるようになる。 
第三章では、朝鮮学校の各種学校認可取得運動と、外国人学校法案反対運動を中心的に検討した。これらはともに、冷戦体制下の政治力学の表れとしての日韓会談の合意にみられる両政府の朝鮮学校認識と深く関わっており、1965年12月28日に出された文部省事務次官通達はこれまでの立場を踏まえながら、朝鮮学校の各種学校認可を容認しないことを明確にした。ところが実際には、1966年以降にむしろ各種学校認可を受ける学校が続出した。その要因として日本人を含む朝鮮学校関係者らの粘り強い運動、革新自治体の果たした役割に加えて、外国人学校制度の設立への動きを踏まえた自治体側による合理的な判断が下された可能性があるとする。外国人管理の外国人学校法案については、日本人を含んだ外国人学校法案反対運動が展開され、結局、外国人学校法案は廃案となるが、全国の朝鮮学校は各種学校の法的地位を獲得していき1975年にはすべてが認可をえることになった。以上を踏まえて、第一章から第三章までの議論を概括し、日本の外国人教育政策という立脚点から在日朝鮮人教育政策の戦後の展開を、消極的承認・模索―統制強化―限定的緩和という時期区分で整理し、本論文の対象時期(1950~60年代)の位置づけをおこなった。
第二部の四つの章では朝鮮学校の教育目的・理念、カリキュラム、教科書、教員養成などに注目してその展開を描いた。
第四章においては、最初に、朝鮮学校における正式な教育目的がどのように設定されているのかを検討した。そこでは、植民地教育的関係の克服と共和国建設の担い手づくりという点から民族教育の目的と意義が示され、教育を実施する主体(民族による)、内容(民族のための)が位置づけられていた。これらは、実際の教育のありようとは別に理念としての民族教育の意味づけであった。次に、こうした民族教育を通し育て上げようとした「立派な朝鮮人」像について探った。「立派な朝鮮人」には、植民地経験の逆転として、朝鮮民族の文化や歴史を獲得した者、また民族の国家たる共和国の国民として自覚を持って生きる者という二つの意味が込められていた。子どもたちも、自身らの経験の中で、「立派な朝鮮人」として育つことに共鳴していたことを、作文を通して部分的に明らかにした。さらに、こうして表象された民族や愛国ということを、在日朝鮮人らが学校建設の取り組みや運動会などの学校行事、チマチョゴリ制服、壁新聞などを通して、具体的にどのように実践していたのかを論じた。
第五章では、まず朝鮮学校課程案の変遷を跡付け、分析した。朝鮮学校のカリキュラムは、実際の子どものありようや本国とは異なる日本のカリキュラムを踏まえつつ、母国語でありながら第二言語である朝鮮語の初級学校からの習得や、日本の文化的影響を最小限にとどめようとする点や技術科目の位置づけなど、独自の様相を呈していた。さらに、1940~60年代の教科書を、大きく三つの時期に分け、その特徴を論じた。この三つの時期区分は、第一部の運動の変化とほぼ重なるものであった。第一期の独自編纂の教科書から、第二期の共和国教科書の翻刻使用、第三期の共和国の教科書を参照しつつ朝鮮総連教科書編纂委員会が編纂した教科書へと変化するなかで、在日朝鮮人の生活状況や歴史に即した朝鮮学校の教科書が作り上げられていった過程を明らかにした。
第六章では、最初に、当時の朝鮮学校教員たちの基本属性を量的な面から明らかにした。全体としては、1960年代から年齢が若い、女性教員および朝鮮学校を最終学歴とする者が増え始めたが、その出身地域は大半が南朝鮮地域であったことが示された。次いで、朝鮮学校がどのように教員を確保していたのかを明らかにした。基本的には教員として採用されるための条件は、担当の専門知識があり、在日朝鮮人であることであった。そのため、短期間の教員養成の講習会や、教員たちの再教育の場が、間断なく組織されていた。当時の教員の中には、朝鮮語を知らず、日本語で授業をしながら子どもたちに朝鮮語を教えてもらう教員もいた。朝鮮大学校が教員養成機関としての機能を発揮し、朝鮮大学校出身の朝鮮学校教員が増えるのは、1960年代中盤以降のことである。さらに、朝鮮総連や在日本朝鮮人教職員同盟が求めた朝鮮学校教員としての姿をとらえるために、朝鮮学校教員たちの教研集会と模範教員集団運動を扱った。多様な出自の人びとが教員を担った時代を経て、1960年代後半にかけて、朝鮮学校教員としての共通認識や、あるべき朝鮮学校教員像が示され、朝鮮学校教員の標準化が進んだことが示された。
第七章では、1950年代中盤から1960年代の国語教育、自然科学教育、愛国主義教育(「教養」)を主たる対象として、これまでの検討を踏まえて朝鮮学校の教育の性格を検討した。まず、脱植民地化における新たな国民統合(国民化)において主要な要素となる、国語の教育実践を扱った。朝鮮学校の国語教育は、「正しい国語」使用を目標としていたが、恒常的に生み出される第一言語である日本語の影響を受けた「在日朝鮮語」(日本語式ウリマル)が、常にその目標の達成を阻んでいた。朝鮮学校において在日朝鮮語は「浄化」の対象であったため、初級学校低学年時からの徹底した国語常用運動や、日本語の発音の特徴を用いた朝鮮語発音指導、高齢在日朝鮮人の植民地体験談などにより、教員たちによる「正しい国語」の習得がはかられる。しかし、家庭における言語使用状況や教員たちの第一言語もまた日本語であるという現実を前に、この「浄化」が完遂されることはなく「失敗」がくりかえされるなかで、脱植民地化が進められていった。つづいて、1956,7~1962,3年頃に実施されていた基本生産技術教育について検討した。これは当時工業化を目指していた共和国の教育政策を「移植」した教育であった。1950年代中頃の朝鮮学校は、財政的にも厳しい状況のなかで教育援助費が共和国から送付され、「生産・労働と教育の結合」を主軸に置く基本生産技術教育強化の方針が採られた。自然科学を教える教員たちは、制度の違いや子どもたちの進路意識にそぐわない実施が自然科学科の教育の質の低下を招くことを憂えていた。1963年以降、同方針が緩やかに撤回されていくなかで、スローガンや方針を表面的には受け入れつつ、実質においては自然科学の内容を重視させる教員たちの対応を読み取った。さらに、脱植民地化を目指すうえで欠かすことのできないと理解されていた朝鮮学校における愛国主義教育を扱った。これは、朝鮮の歴史や現状に関する学習、身体化を通した愛国心の涵養、また日本式の名前の改名、民族衣装の着用、家庭での朝鮮語の使用などを通して実施されたものである。そこでは時に家庭の論理と対立を生み出すこともあった。愛国心涵養という課題を達成するために、在日朝鮮人運動史の存在を否定する当時の朝鮮労働党の方針に抵触する緊張感のなかで、在日朝鮮人史に依拠しながら民族や国家に対する教育を作りあげようとする実践も取り組まれた。以上を踏まえて、朝鮮学校では、共和国の国民教育に依拠した「移植」型の国民教育が実施されるなかで、在日朝鮮人の論理を基盤に据えた「在日」型国民教育が作り上げられ、それを通した在日朝鮮人の脱植民地化が不断に目指された点を明らかにした。
終章では、本論で論じたことをまとめ、独自期、「移植」型国民教育期、「在日」型国民教育期という時期区分を提出し、本論文の位置づけをおこなった。

Ⅲ 本論文の成果と問題点
 本論文の成果としては以下の点が指摘できる。
第一に、これまで部分的・断片的に描かれるにとどまっていた1950~60年代の朝鮮学校の教育それ自体の歴史を、文書資料に基づき、実証的に描いたことである。行論をなりたたせるためには新資料の発掘が欠かせない。本論文の主な対象である1950~60年代の朝鮮人団体や朝鮮学校の資料は、一般的にアクセス困難なものである。そのなかでこの論文で用いた朝鮮学校の教科書、学校沿革史、教育実践報告、民族団体の政策文書等はいずれも初出のものであり、資料的な価値はきわめて高い。それをふまえて、カリキュラム、教科書、教員養成などトータルな朝鮮学校の同時代の状況を示し、朝鮮学校の歴史的な位置づけを明らかにした点は高く評価できる。
第二は、その内容において、在日朝鮮人が脱植民地化をとげるための朝鮮学校という場の様態を示した点である。朝鮮支配によって刻み込まれた在日朝鮮人の植民地意識を脱する過程を示す脱植民地化の観点から、朝鮮学校の歴史を、朝鮮学校内部に閉じたものとしてではなく、特に日本社会、朝鮮半島の社会、在日朝鮮人社会という三つの社会からの規定力に着目しながらその葛藤を含む複雑な過程を描き出した。国民教育を施すことによって在日朝鮮人の脱植民地化が促進されるという理解の下で継続的になされた教育の営みが、本質主義的な民族観に基づいたある種の「強制」を孕むものであり、その矛盾を蓄積しながらも、少しずつ在日朝鮮人の生活の論理を取り入れ、その試行錯誤の関係の中に「正しい国語」や「国史」を相対化するような契機を見出すなど、1950~60年代にかけての朝鮮学校の教育の複雑な内実を明らかにした。この検討をとおしてこの時期の朝鮮学校の教育を「「在日」型国民教育」としてとらえてカテゴライズした点にオリジナリティーが認められる。
第三は、朝鮮学校の実態を踏まえながら日本教育史のなかに朝鮮学校を位置づけたことである。これまで政策と運動という枠組みのなかで示されてきた断片的な朝鮮学校研究について、その実際の教育の実態を踏まえながら分析・整理を加えて叙述したことで戦後教育史研究のなかで朝鮮学校の存在を明確に位置づけたことは大きな貢献として認められる。この研究が明らかにしたことをとおして、これまで十分に蓄積されてこなかった戦後日本社会における植民地主義の克服の問題や、こんにちにおいて大きな課題となっている教育における公共性の問題に対して重要な問題提起となっており、日本の教育史研究を深める上で重要な役割を果たすと考えられる。
同時に、若干の問題点も指摘できる。朝鮮学校で目指された「国民国家性の動員」を中核とする教育の実践と、その枠組みにおさまらずそこからはみ出る子どもや家族の実態を示したことは本稿の重要な指摘であるが、その点については国民教育の枠組みで位置づけるというよりも国民国家性から背反、脱却する脱植民地化の契機としてとらえる評価もできる。その意味で、それを「在日型」の国民教育の内側に位置づけてとらえる点については慎重な評価が必要である。また、日常史に注目した検討をとおして「非日常」も「日常」とする朝鮮学校の教育の展開を見出しているが、朝鮮学校の1950~60年代の実状を示すものではあるとはいえ、両者を無媒介でつなげる評価は「日常史」が無限にさまざまな事象を包摂することにもつながる。学校の人間形成の試みとしての両者をつなぐ説明と整理が必要であろう。しかしながら、以上のような問題点は筆者自身が自覚しているところであり、今後の研究のさらなる発展に期待したい。
 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に寄与する十分な成果をあげたものと判断し,一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。
審査委員一同は、上記のような評価と、2015年5月15日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2015年6月10日

2015年5月15日、学位論文提出者呉永鎬氏の論文について最終試験を行った。
本試験においては、提出論文「1950~60年代における朝鮮学校教育史」に関する様々な疑問点について、審査員が逐一説明を求めたのに対して、呉永鎬氏はいずれの質問やコメントに対しても的確に応答し、十分な説明を与えた。
よって、審査員一同は、呉永鎬氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。 

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