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博士論文審査要旨

論文題目:社会転換と中国社会の構造変動―「新階層」の変動過程を中心に―
著者:李 暁魁 (LI,Xiaokui)
論文審査委員:町村 敬志、石倉 雅男、木本 喜美子、佐藤 仁史

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一、本論文の構成
本論文は、1978年の改革開放政策の開始から2013年に至るまでの中国を対象に、市場経済が大きく浸透していくなかで社会構造がどのような転換を遂げたのかを、とくに「新階層」と呼ばれる社会階層の形成と変容の過程に焦点を当てながら、明らかにすることをめざす作品である。
中国では、30年以上に及ぶ改革開放政策の下、社会主義の政治体制を維持しつつ市場経済を導入するという政策が進められてきた。こうした大胆かつ特異な政策が世界最大の人口を有する中国社会にもたらした大規模な構造変動は、中国研究の分野はもちろん社会学研究の分野でも世界的に大きな注目を集め、中国国内外で多くの研究が積み重ねられてきた。困難を背負った体制移行ははたして円滑に進められるのか。とりわけ旧体制に属する膨大な人々が社会的集群として、市場経済の影響が増していく体制下でどのような新しい位置を獲得するのかは、社会的な安定性を維持するためにも緊要かつ不可避の検討課題であった。
体制移行にともなう激変を避けるため、中国では、旧体制に位置づけられる人々の社会的身分を基本的に固定したまま、そうした人々を新しい産業や経済制度へと編入していくという漸進的な形が取られた。結果的にそこには、過渡的な性格をもった多様な社会階層が誕生し、このことが社会構造や政治体制にも多大な影響を及ぼしていく。本論文は、こうした過渡的な階層を「新階層」と呼び、なかでも農民身分をもったまま工場労働者化する「農工階層」と、営利活動を行う官僚層としての「官商階層」を取り上げながら、転換期における中国社会の構造変動の特徴を明らかにすることをめざす。本論文の構成は以下の通りである。

序章 問題意識と先行研究の整理
第1節 課題の設定
1-1問題の提起
1-2理論
第2 節 社会の構造転換に関する先行研究
2-1社会転換に関する研究
2-2社会転換期における社会構造についての研究
2-3階級・階層に関する研究
2-4新階層に関する研究
第3節 社会構造変動研究の方法論について
3-1概念整理
3-2論点整理
3-3本論文の採用する理論的枠組み
3-4本論文の課題
3-5本研究の道筋、研究の手順および研究方法
第4節 本論文の構成

第1章 社会の構造変動研究の理論
第1節 社会構造理論
1-1マルクスの社会構造理論
1-2ヴェーバーの社会構造理論
第2節 社会転換の関連理論と類型
2-1社会転換の理論
2-2社会転換の二類型
2-3社会転換理論による「新階層」現象の研究の意義
第3節 政治構造理論
3-1政治体系と諸体系の相互関係
3-2政治体系の運営と変動
 3-3政治体系理論による中国社会構造変動の研究の意義

第2章 社会転換と社会構造変動
第1節 計画経済体制と社会構造
1-1 計画経済体制と所有制構造
1-2計画経済体制と政治制度
1-3計画経済体制と資源配分
1-4計画経済体制と社会構造
第2節 社会転換と体制変動
2-1 市場経済体制への移行
 2-2社会転換期における二重体制
  2-3社会転換期における政治体制の変動
第3節 社会転換と社会構造分化
3-1社会構造分化
3-2社会構造分化に影響する諸要素
3-3社会構造分化の特徴

第3章 社会転換と農工階層
第1節 農工階層
1-1社会転換と新階層
  1-2農民と農民階級
1-3農工階層とは
第2節 社会転換と郷鎮企業工員階層
2-1郷鎮企業工員階層
2-2社会転換期における郷鎮企業の変化
 2-3郷鎮企業工員階層の変動
第3節 社会転換と農民工階層
3-1農民工階層
3-2社会転換による農民工階層の変動
3-3農民工階層変動への考察
3-4農民工階層の特徴

第4章 社会転換と官商階層
第1節 社会転換と官商階層の誕生
1-1官商階層とは
1-2市場化と官商階層
1-3「価格二重制」と官商階層
第2節 社会転換期における官商階層の拡大
2-1非公有制経済の発展と官商階層の拡大
2-2企業の「改制」と官商階層の拡大
2-3官商階層の特徴
第3節 新型官商階層
3-1私営企業主階層による体制内への回帰
3-2新世代の官商階層
3-3「新型官商階層」の特徴

第5章 社会構造変動の原因分析
第1節 社会転換期における資源配分方式の転換
1-1 社会構造の転換に伴う社会資源配分方式の変動
1-2社会資源配分方式の転換による社会構造の変動
1-3「準身分」制度の下での旧来型の資源配分方式の継続
1-4政治構造と社会構造の相互妥協の産物としての新階層
第2節 市場化と制度構造の妥協
2-1市場化改革と従来制度構造への影響
2-2制度構造と市場化の妥協:新階層の格差
2-3市場機能の不完全性の下での資源配分と集積:新階層の回帰
第3節 新階層の存続の諸要因
3-1「二重構造」:新階層の存続の客観的条件
3-2準身分の利益格差:新階層の変動の要因
3-3制度転換:新階層の存続条件の提供
3-4「権力の資本化」:「官商」階層の背後にある根本要因

第6章 新階層の影響と中国社会の構造変動
第1節 新階層による社会転換への影響
1-1 新階層による社会分化への影響
1-2新階層による都市化への影響
1-3新階層による市場化への影響
第2節 新階層による社会構造への影響
2-1農工階層の影響と二重構造
2-2新階層の影響と社会構造の統合
第3節 官商階層による政治体制への影響
3-1「権力の資本化」による影響
  3-2 権力の「尋租」による影響
3-3 市場秩序への影響
3-4 階層間格差の拡大

終章 社会転換期における社会構造の変動
第1節 社会転換と社会構造の変動
1-1経済体制の変動と社会構造の変動
1-2政治構造の変動と社会構造の変動
第2節 本研究の成果と今後の課題
2-1本研究の成果
2-2今後の課題
第3節 新階層の対策に関する展望
3-1農工階層の問題に関する解決策
3-2官商階層の問題に関する解決策
参考文献

二、本論文の概要
 本論文は、1978年の改革開放政策の開始から2013年3月の第18回党大会に至るまでの中国における社会構造の転換過程を、「新階層」の変動過程に焦点を当てながら明らかにすることを目的とする。著者によれば、1978年から2013年までの35年の間に起こった構造変動のなかでもっとも大きな出来事の一つとは、社会関係を構成する原理が「政治的身分」から「市場的契約」へと転換していったことである。だが、その転換の過程はきわめて漸進的なものであったため、旧体制に属する人々の階級からは多様な「新階層」が分化し、さらに変容を遂げていった。本論文は、この「新階層」のなかでもとくに農工階層と官商階層に焦点を当てながら、社会転換期における中国社会の構造変動の特徴を明らかにすることを検討課題とする。
なぜ「新階層」は生まれたのか。「新階層」はどのような影響を社会構造にもたらしたのか。そこにはどのような問題や矛盾が存在しているのか。本論文は、政策的な課題の検討も含め、こうした一連のテーマに正面から取り組む。
本論文は計八つの章によって構成され、それらは大きく三つのパートに分けられる。第1のパートは序章と第1章からなる。ここでは、本論文が社会転換と社会の構造変動の問題になぜ取り組むのか、そしてなぜ「新階層」の問題に焦点にあてるのかを論じ、あわせて本論文の理論的な枠組みを説明する。第2のパートは第2章から第5章までの4つの章で構成される。ここでは、第1のパートで提示された理論的な枠組みに基づき、中国の社会転換期に生じた「新階層」を大きく「官商階層」と「農工階層」とに分け、その形成の背景、展開の過程、特徴と変動の原因などを解明する。第3のパートは第6章と終章からなる。第6章ではおもに「新階層」が中国社会に与えた影響を分析し、終章では本論文の成果と問題点を取り上げる。以下、各章について内容を要約していこう。
序章「問題意識と先行研究の整理」では、本論文の問題意識および論文全体の構想が概説される。著者は出発点としてまず、「新階層」現象の背景には中国の社会転換期にみられる構造的な変化が存在することを指摘する。改革開放路線によって、かつてはピラミッド型といわれた中国の社会構造は大きく変容した。だが、そこには新しい社会問題が生まれている。「新階層」現象とは、改革および社会転換にともなって生じた社会階層と政治権力との間の矛盾と妥協が生み出した資源配分配置の不平等に由来する。こう要約した上で著者は、いったん成立した「新階層」がやがて政策決定に影響を及ぼすようになり、社会構造のさらなる転換にも変化を引き起こすようになったと指摘する。以下の各章では、こうした分析の構想がより詳細な形で展開されることになる。
第1章「社会の構造変動研究の理論」では、本論文が参照する理論的枠組みが検討される。まず、社会構造理論のうち、特に階級・階層論に関して検証が行われる。それらを通じて、マルクスの階級理論は中国社会分析においてなお基本的な有効性をもつこと、ただし経済構造と政治構造の連関によって姿を現す「新階層」の分析においてはヴェーバーの多元的社会階層論が一定の有効性をもつことを、著者は指摘する。続けて、社会転換に関する近年の主要理論に関し、ルイスの二重構造理論、ノースらの制度変動論や経路依存理論、林毅夫の誘致性制度変動説などを取り上げ、著者はその得失を検討する。その上で、改革開放以降における中国社会の転換過程が「急進型」ではなく「漸進型」であったことを、まず指摘する。すなわち、旧来の制度と変動方式が転換過程においても存続し続け、それらが後の経済発展や社会分化にも影響を及ぼしていく。それゆえ、変化の総体は漸進的なものとなり、あわせて「過渡的」社会現象が姿を現すことになる。「新階層」もまたここから生まれることとなる。
以上の整理にも示されるように、中国では、経済や政治、社会といった社会構造の各分野が相対的に自律した動きを示しながら共存し、相互に影響を及ぼしあいながら全体としての転換が進行するという特徴が見られた。そこで、こうしたシステム間の相互依存過程を分析するための枠組みとして、著者はイーストンによる政治体系分析を丹念に再検討する。以上で検討された枠組みが、以下の分析においても生かされていくことになる。
第2章「社会転換と社会構造変動」は、序章と第1章で明らかにした問題意識と理論的枠組みに基づき、中国の社会転換期の歴史を考察した上で、中国の社会階層にどのような変化が現れてきたかを論じる。この章は「新階層」形成の歴史的背景に関する分析と位置づけられる。著者はまず、計画経済体制の下で中国における社会階級・階層は従来、「幹部」「労働者」「農民」というピラミッド型の構造をもっていたことを指摘する。しかし計画経済体制から市場経済体制へ移行する過程において、経済や政治のあり方は大きな変容を遂げていく(たとえば所有の二重標準性、単位制度の改革等)。その結果、独特の転換過程は社会構造の分化のあり方にも影響を及ぼすことになる。こうした変化を著者は、社会関係を構成する原理が「政治的身分から経済的(市場的)契約へ」(メイン)と転換していく過程と整理する。だが、その転換は漸進的なものであり、それゆえ過渡的な現象がそこでは姿を現す。たとえば、本論文が取り上げる「新階層」とは、移行過程にあって「政治的身分」と「経済的(市場的)契約」という異なる二重の特徴を合わせ持つ存在として生まれた。改革開放の進展にもかかわらず、なぜこのような階層が生まれるのか。続く第3章と第4章はこの過程についての実証分析であり、本論文の最も重要な部分をなす。
第3章「社会転換と農工階層」は、「新階層」のうち、特に「農工階層」について分析を進める章である。著者によれば、農工階層は伝統的な農民階級から分化するなかで生まれた。すなわち、改革開放以降、農村の余剰労働力は、新たな職業機会を拡大する工業部門などで見つけ出そうと移動を始める。だが、農民は仮に工業部門に就労したとしても、戸籍制度の制限を受け続ける。したがって農工階層は職業的には工業などの産業労働に従事するものの、身分的には「農民」という地位に押しとどめられる。ただし、この農工階層には2つの類型がある。すなわち、出身の農村にとどまりながら現地で工員化する「郷鎮企業工員階層」、そして故郷を離れ都市へと移動をしてそこで工員化する「農民工階層」である。本章の第2節ではまず郷鎮企業工員階層が対象とされ、郷鎮企業の変化とともにその地位や収入などが大きく変わっていく様子が、資料を用いて詳細に分析される。
これに対して第3節は、農民工階層の分析に当てられる。著者はここでも収入、教育、政治参加などの資料を子細に検討しながら、農民工がひとつの過渡的階層として形成されていく過程を階層分析の視点から明らかにした。なぜ過渡的存在であったはずの農民工階層が長期にわたって存続することになったのか。著者によれば、第1に、都市と農村を隔離する戸籍制度の存在、第2に、「体制外」と「体制内」の二重構造、第3に、計画経済体制と市場経済体制の併存、これらの強い影響があった。農民工階層は1億6,000万人に達し、中国経済に大きな影響をもたらす新しい階層となっている。
続く第4章「社会転換と官商階層」は、同じく「新階層」でも「官商階層」を取り扱う。著者によれば、「官と商の結合」と位置づけられる官商階層は、形式的に国家機構内に職をもっていながら、実際にはさまざまな形で実体経済のなかで企業の経営に参加している存在と定義できる。ただし、私有経済制の導入以降、姿を現した官商階層は、実際にはその後、大きな変化を遂げてきた。著者は、民営経済や幹部組織の動向をていねいに追いかけつつ、官商階層が段階的に変容を遂げる過程を丹念に描き出す。官商階層もまた農工階層と同様に「政治的身分」と「市場的契約」という二重の特徴を持つ過渡的な存在として形成されてきた。ただし、市場経済と計画経済という一見するとまったく相容れない制度の接点に位置する官商階層は、旧来の権威や社会的ネットワークなども駆使しながら、自らの利益追求をめざして巧みに拡大を遂げていった。多くの資料を用いて明らかにされるその実態は、本論文の中でももっともすぐれた分析のひとつと位置づけられる。著者によれば、2000年代以降、私営企業主階層が体制内の幹部層へと回帰し「新型官商階層」となる動きが増しており、そこには富を蓄積した二世の存在があるという。
第5章「社会構造変動の原因分析」は、以上の分析を踏まえ、「新階層」がなぜ生まれたのか、その背景にある社会構造の変化要因を改めて整理・分析する。著者によれば、改革開放以降、社会階級・階層構造の変動は経済的利益の獲得に規定されて進行し、それにともなって社会的資源の配分構造も根本的に変化してきた。そしてこれら一連の変化の背景には、第一に、政治体制の変動、第二に、社会階層間の構造変化という要因が存在した。ここで著者は、「準身分」と呼ぶ過渡的な身分制度が存続することによって、「身分から契約へ」の移行が阻害され、このことがもともと身分制度と強い親和性をもっていた旧来の資源配分構造を残存させ、不平等をもたらす原因となっていることを的確に指摘する。その結果、同じ「新階層」の間でも、旧来の社会階層からの分化の形態によって、教育や職業、社会的地位の配分にはきわめて大きな格差が生じ、またそれに伴って所得格差も拡大した。こうした不平等は、究極的には市場経済体制と計画経済体制との間に見られる制度構造上の矛盾であると著者は指摘する。
第6章「新階層の影響と中国社会の構造変動」は、「新階層」が中国の社会構造にどのような影響を及ぼしたのかを分析する。社会的資源の配置と所有状況の違いにより、農工階層と官商階層が社会転換、構造変動、政治体制に与える影響もそれぞれ異なっている。農工階層は農民階級から分化して、中国社会の工業化、都市化、市場化の進展に大きく寄与する役割を果たした。ただし農工階層の存続は、都市と農村の二重構造を長期的に固定させてしまう危険性がある。他方、官商階層は、政治権力と市場資本の結合により生まれたものであり、政治の腐敗、公共財産の私有財産への転化、階層間の所得格差拡大、社会的統合の阻害などの影響をもたらしている。こうした諸点を、冷静な分析に基づいて著者は体系的に指摘する。
終章「社会転換期における社会構造の変動」は、本論文の成果を要約するともに、残された課題や問題点を指摘する。本論文の最大の成果は、社会構造の転換を階級・階層構造の分化によって生み出された「新階層」に焦点を当てて分析を行った点にある。このように本論文を総括する著者は、「新階層」の出現は中国の改革において一定の必然性を持つものであったと指摘する。しかし、30年以上に及ぶ改革開放の歴史を見ると、「新階層」は社会の安定を図り改革を進める上で大きな役割を果たす一方で、負の側面も併せ持っていた。以上を踏まえた上で、著者は論文の最後で「新階層」の将来を展望し、政策的な含意について体系的に指摘をおこなう。都市と農村の間に存在する二重経済構造が短期間には解消できないとするならば、農工階層は長期にわたり存在し続けることになる。この点を踏まえて、特に農民工の利益をいかに保護するか。そのためには何らかの社会政策が策定されることが望ましい。他方で、官商階層については、抑制や禁止の政策が打ち出されてはいるものの、将来の変化を明確に予測することは難しい。今後も人事幹部制度の改革を継続し、幹部を公務員に変えることなどが望ましいと著者は総括する。

三、本論文の成果と問題点
本論文のおもな成果は次の3点に要約することができる。
 第1に、20世紀末から21世紀にかけ政府による介入が卓越する状況から市場経済の影響が増す状況への転換が世界的に顕著となる中で、本論文は、そうした趨勢のもっとも重要な事例のひとつである中国社会を取り上げ、かつ移行問題にとって中心的なテーマのひとつである旧階層の処遇と対応というテーマに正面から取り組み、それを一貫した視点から分析をおこなった。課題の明確さ、テーマ設定のスケールの大きさによって支えられた著者による果敢なチャレンジは、その鋭く厳しい問題意識にも支えられて、現代中国における社会変動の実相の一端を本論文において的確かつ大胆に描き出すことを可能にした。この基本的な点を論文の成果としてまず高く評価できる。
 第2に、本論文において具体的に示された「新階層」の分析は、そこに属する人々の置かれた状況とこの現象がもたらした社会的帰結を詳細に明らかにした。この点は単に中国社会研究に寄与するだけでなく、新しい課題に直面している階級・階層研究にも大きな貢献をもたらす豊かな可能性をもつ。「新階層」のような過渡的な階層の分析に取り組むという課題を自らに課したがゆえに、著者は多岐にわたる領域からさまざまな分析方法を取り入れつつ階級・階層分析の再構築を目指すこととなった。その道はまだ半ばとは言え、本論文を通じて明らかになった「新階層」の像とは、単に過渡的な階層あるいは変化に取り残された残余的な階層というよりも、政治・経済・社会という相対的に自律性をもった領域間の矛盾と妥協の狭間で、自らの社会経済的地位を確保・確立しようと模索する人々が形成してきた独自の階層というイメージにむしろ近い。過渡的性格を持っていた「新階層」もまた、経済的・社会的・政治的な実践が積み重なるなかで、内部に大きな格差の構造を内蔵させたまま、部分的に制度化の道を歩もうとしているようにもみえる。「経路依存性」という本論文の視座をもう一度ここで応用するならば、どのような方向性がそこから引き出されるのか。こうした多彩な理論的含意をもつ点も本論文の大きな成果と言える。
第3に、こうした成果を引き出し得た背景として、本論文において著者が、中国国内における研究の枠を大きく超え、アメリカやヨーロッパ、日本における社会学、政治学、経済学等の先行研究や理論・方法を広く学ぶことにより、中国社会の経験をより大きな枠組みの中で相対化しつつ一貫して論じ切ったという点を指摘できる。これにより本研究は、グローバル化と新自由主義化の進展した20世紀末から21世紀初頭にかけての同時代研究として、他の国・地域における社会変動を考察する上でも興味深い分析視点を提供することに成功している。現代中国における社会構造の変動過程、とりわけ「新階層」問題を現時点で取り上げその全体像を分析することは、いまだ事態が進行中であること、またその評価のあり方がつねに政治的な動向の影響を受けることなどとも相まって、多くの困難を伴う。著者がこのむずかしいテーマに取り組み十分な評価に値する成果を収めることが可能になった根本に、中国出身の研究者としての著者が中国国内の多くの資料や先行研究を精力的に収集し分析に活用したという点があったことは言うまでもない。しかしそれにも増して、上記のような意欲的な取り組みがあったことを指摘しなければならない。
 
 以上のように本論文は、現代中国の社会構造の変動研究に取り組むオリジナルな作品として高い評価に値する。しかし、残された課題がないわけではない。
 第1に、課題設定のスケールの大きさ、理論的枠組みにおける目配りの広さは評価に値するものの、その反面で、システムレベルに準拠する理論枠組みと本文で言及される膨大な個別具体的事実との間にはなお溝があったことは否定できない。著者は本論文のなかで、市場経済の浸透や体制移行に関わる世界的な動向と対比した際に明らかとなる、中国社会の一般性と特殊性の双方をともに視野に収めることの重要性を指摘している。たとえば中国の場合、旧体制に位置していた農民や官僚層がその身分を基本的に固定されたまま新しい変動へと対応することを求められていった点を、著者は特殊性の一例として位置づけ、そこから引き出される影響を多面的に明らかにした。こうした過程を分析する際、著者が冒頭で言及した経路依存性や制度に関わる理論はもっと有効に活用できた可能性は大きいと思われる。理論と具体的事象をより緻密に対比させるなかで、いわば中範囲の仮説や命題をそこからさらに引き出すことができれば、本研究は、中国社会の実証分析に新たな方法的知見を加えるだけでなく、同様の特殊性を多かれ少なかれ抱えた他の国・地域・時代の事例分析にもより具体的な寄与を行うことが可能になると考える。
 第2に、著者の中心的テーマとして位置づけられる階級・階層研究として本論文をみた場合、当該研究分野においてしばしば言及される分析上の課題や限界が、本論文においても妥当することを指摘しなければならない。たとえば、社会階層の単位をどのように設定するのかという問題がある。本論文では、階級・階層を構成する単位を基本的には個人と理解した上で多くの分析を進めている。社会主義下にあって女性の就業率が相対的に高かったなどの事情はあるものの、移動する農民工の事例など本論文でも家族という単位へ実質的に言及をしているケースは実際には少なくない。階級・階層構造の変容の分析をさらに進めていくためには、家族やジェンダーという要因への一層の配慮が欠かせない。
 第3に、以上2つの点とも関連し、今後の課題として、二つの「新階層」に関する個別事例の分析や体系的な調査を含め、本論文で示された知見や仮説をその後の変化と合わせさらに具体的に検証していくことが望まれる。とりわけ本論文で取り上げられた事例は中国国内の複数の地域にまたがっている。沿岸部と内陸部の間の違いをはじめ、地域的な多様性が増していることを考えれば、本論文の内容がどこまで一般性をもつのかについても、今後さらに慎重な検討が必要となる。ただし、中国社会が直面する多くの課題を鋭く分析している本論文の内容を実際の現場で実証していくことは、調査方法という点はもちろん、調査が許容されるかどうかという点も含め、現実には多くの困難が予想される。したがって、検証作業はそれ自体、必要性や有効性、可能性に基づき序列をつけ実施していく必要がある。
以上のように、本論文は大きなスケールをもつ社会変動論の実証的作品であり、中国社会に関する社会学的研究として新しい領域を切り開くものと言える。しかし他方で、そのきわめて高い目標設定と比較すれば、本論文はまだ理論や資料を完全に生かしきってはいない。また、表現として未成熟な部分が残されていることも事実である。しかし指摘をおこなってきた点は、すでに著者も深く自覚するところであり、今後の研究の進展に期待したい。

 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究の進展に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2015年2月12日

 2015年1月14日、学位論文提出者李暁魁氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「社会転換と中国社会の構造変動―「新階層」の変動過程を中心に―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、李暁魁氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は李暁魁氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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