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博士論文審査要旨
論文題目:現代モンゴル語の長母音発達に関する一考察
著者:フレルバートル (Hurilebateer)
論文審査委員:中島由美、糟谷憲一、久保哲司
1. 論文の構成
第一章 現代モンゴル語の長母音研究
1 モンゴル諸語及び諸方言の概説
2 日本におけるモンゴル諸研究の概要
3 モンゴル語の長母音研究
第二章 古代モンゴル語の*g、*k とその発展について
1 モンゴル文語のVCV構造と現代モンゴル語長母音の対応関係
2 古代モンゴル語の*g について
2-1 モンゴル語の*g に関する従来の研究
2-2 モンゴル語の文献資料におけるg とk
2-3 モンゴル系の諸言語、方言におけるg とk
2-4 古代モンゴル語の*g と*k の相関関係および筆者の仮説
第三章 現代モンゴル語の長母音発生について
1 現代モンゴル語の長母音形成問題
1-1 脱落した子音後の母音と現代モンゴル語の長母音との関係
1-2 脱落した子音前後の母音と現代モンゴル語の長母音との関係
1-3 二つの短母音が一つの長母音に発展したという説の根拠
2 現代モンゴル語の長母音発生過程の諸相
2-1 V1CV2における短母音V1、V2と長母音の関係
2-2 現代モンゴル語の長母音発生上の四つのパターン
2-3 『モンゴル秘史』のデータによる分析
第四章 現代モンゴル語の語尾及び接尾辞における長母音
1 文法的接尾辞、派生語尾における長母音について
1-1 名詞の各語尾、再帰所属語尾における長母音
1-2 動詞語尾における長母音
1-3 派生語尾における*g の脱落と長母音形成
2 長母音発生と使役語尾-lga/-lgeの成立の関係について
2-1 モンゴル語の使役語尾-lga/-lgeの出現
2-2 動詞語幹の音声構造と-lga/-lgeとの関係
2-3 動詞語幹の長母音と使役語尾-lga/-lgeの関係
2-4 現代モンゴル語の使役語尾-uul/-uulと-lga/-lgeの発展図
第五章 モンゴル系の諸言語における長母音の研究
1 モンゴル語族諸言語における長母音の対応関係
2 現代モンゴル語の長母音と他の言語の二重母音の対応
3 長母音の衰退に伴って現れた長母音の短化
4 現代モンゴル語の弱化母音の出現と長母音の短化現象
第六章 日本におけるモンゴル研究の今後の課題
1 モンゴル研究全般における問題
1-1 モンゴル研究の範囲およびその内容
1-2 モンゴル研究におけるモンゴル語及びモンゴル語の資料の重要性
1-3 日本のモンゴル研究と中国におけるモンゴル研究の関係
2 日本におけるモンゴル語研究について
2-1 アルタイ語研究とモンゴル語研究の関係
2-2 モンゴル語学研究における方法について
注、参考文献
付録(1)、(2)
2. 本論文の課題と概要
モンゴル文語と現代モンゴル語との間には次のような対応関係が見られる。
モンゴル文語 現代モンゴル語 意味
na*ya naa 貼る
negege nee 開ける
da*yu duu 声、音
neg*u n*u*u 移住する
si*ya *saa くるぶし
bo*yu boo 包む
上記一覧が示すように、モンゴル文語のVCV(Vは任意の母音、Cは子音を表す)構造に対して、現代モンゴル語ではその多くがVVとなる。この対応関係は現代モンゴル語諸方言全体にみられ、VVが主として同一母音の長母音となっていることから、モンゴル文語の母体である古代モンゴル語(8~10世紀に遡ると考えられる)の母音間の子音が弱化して後に脱落し、長母音が発達したと推定される。脱落した子音は*g が最も多く、稀に*b、*y、*m がある。
この長母音の発達に関する研究はモンゴル語音韻史研究の中心的課題であり、モンゴル語学全体において重要な位置を占めてきた。20世紀初頭から活発になったモンゴル語学研究の担い手たちの多くが、長母音発達のプロセスに関し、さまざまな仮説を提起している。著名なアルタイ語学者N. ホッペに始まり、ロシアのウラディミールツォフやサンジェーエフ、あるいはロブサンワンダンのようなモンゴル人研究者の業績が知られているが、モンゴル研究の盛んなわが国でも、服部四郎、野村正良、小沢重男などが、各々中心的な課題のひとつとしてこの問題に取り組んできた。しかし未だに一定の結論に達しておらず、依然として重要な課題として残されている。
このように、推定が一致を見ていない背景には、古代モンゴル語期の文献がウイグル文字によって表記されているために、一部の音の区別が表記し分けられておらず、音価を確定することが困難なこと、また、こうした文献資料の不足を補うための方言資料の収集が充分に進んでいるとはいえないこと、などの事情がある。
フレルバートル氏はモンゴル語話者の研究者として、諸先行研究に刺激を受けながらも、尚各説に検討すべき余地が多いことに注目し、詳細な資料の検討を重ね、独自の見解を構築するに至った。本論文は独自の仮説提起とその実証を課題としており、氏の長年の研究の集大成ともいうべきものである。
第一章は問題の概要、先行研究の概観、及びそれらの問題点の指摘に充てられている。氏によれば、現代モンゴル語長母音の発達に関する諸説のうち有力なものは、次のふたつに集約される。
1)脱落した子音前後の短母音の融合によると考えるもの
2)脱落した子音前の短母音と子音語の長母音の融合によると考えるもの
初期には1)がより多くの研究者に支持されていたが、服部(「蒙古祖語の母音の長さ」1959年)、及びロブサワンダン(「現代モンゴル語の長母音の起源問題について」1967年)以降、古代モンゴル語に長母音が存在していたとする仮説に基づいた2)が有力になった。特に日本においては服部の影響が根強く現代まで続いていると、本論文では指摘されている。フレルバートル氏は2)については、古代モンゴル語に長母音が存在したとする説は実証が困難であり、可能性は薄いとしてこれを否定し、1)の、脱落した子音前後の母音の融合によって長母音が発達した、との見解を支持している。そしてまず、脱落した子音類について検討し直すことから作業を始めている。第二章はこの、脱落に関係した軟口蓋子音k、g 等の検討に充てられている。
ここで氏はモンゴル文語と、中世期の漢字音訳資料やパスパ文字文献、それに現代モンゴル語の三者間の対応関係、および他のモンゴル系諸語、諸方言との詳細な比較から、軟口蓋子音のうち脱落したものとしなかったものの違いを再検討した。そしてこの脱落/非脱落の差は、古代モンゴル語期における当該子音の調音上の違いに拠るとの結論に達した。氏によれば、現代モンゴル語のgと古代モンゴル語の*gを同じ子音とみなす研究者が多いが、13世紀の漢字音訳が残っている『モンゴル秘史』やパスパ文字による文献など中世期の資料を検討すると、現代モンゴル語のgやkの一部と対応していることがわかる。従って、中世期にkと発音されていた子音の一部が現代モンゴル語でgとなり、その他はxとなったと考えられる。氏はこのことから、アクセント等の関与を推定する諸説を否定し、もともとの調音上の違いが後の子音の脱落に関わったと考え、他のモンゴル系諸語との比較から、その音価を、各々軟口蓋有気破裂音と同無気破裂音とし、前者が脱落せずに無気音のgと摩擦音xに分化し、後者が脱落したと考えた。ちなみに、服部四郎も当初やはり2種類の軟口蓋子音の存在を仮定していたが、後に上述のように後続母音が長母音であったと推定することにより、これが子音の脱落に関与したと考えるようになった。
第二章で検討した母音間の子音の特定作業を基に、第三章、第四章は、その子音が脱落した後、どのように長母音が形成されていったかについて、名詞・動詞等の自立語の語根の場合、名詞格語尾や動詞に付属する使役語尾等の語尾が付属した場合、の純で検討している。いずれも豊富な語例による説得ある検証となっているが、特に第四章で取り上げている接尾語の付属と長母音発生の関係の検討は、これまで充分に行われていなかった部分として、フレルバートル氏独自の成果となっている。
上記の検証を通して氏が整理した長母音発生のパターンは次の四つである。
1)脱落子音前後の母音と同じ長母音が発生した。
2)脱落子音語の母音と同じ長母音が発生した。
3)脱落子音前の母音と同じ長母音が発生した。
4)脱落子音前後の短母音のどちらとも異なる長母音が発生した。
ここで氏は、3)のケースが数の上で2)よりも少ないことから、従来の研究者がこれを重視してこなかった点を批判し、これを補うべく2)と3)に共通する条件を検討した。その結果、共通の条件を円唇母音に求めるべきではないか、との結論に達する。確かに、例えば『モンゴル秘史』では、子音後に円唇母音を持つ語が146であるのに対し、子音前に円唇母音を持つ語は22に過ぎない。しかし、長母音が子音後の母音と同じになっているように見えるのは、数の多さ故の表面的な結果であり、注目すべきは子音後の母音ではなく円唇母音の存在で、それが融合を引き起こしたと考えるに至ったのである。この発想の根拠として、氏は円唇母音においては調音の際に唇の丸めによって生ずる気音のエネルギーが強いこと、また、アルタイ系諸語に特徴的な母音調和のひとつとして、唇音調和がモンゴル語において特に発達している点などを強調している。
第五章では、他のモンゴル系諸語における長母音に注目し、それらと現代モンゴル語との対応関係を検討している。諸方言における長母音の詳細が記述されているほか、長母音融合への過渡的段階と考えられる、各種二重母音の存在についての報告がなされている。こうした、過渡的状況を保持する方言の記述的研究が今後ますます進むならば、氏の仮説が強力な裏付けを得て実証される可能性は充分に考えられる。
最終章である第六章では、日本におけるモンゴル研究の今後の課題について、氏の見解が述べられている。最終章を敢えてこのような形にしたのは、世界の中でもモンゴルの言語文化に対し理解があり、研究の歴史も長く、優れたモンゴル研究の伝統を有する日本に対して、氏の期待が大きいためと思われる。内モンゴルが置かれている厳しい現状の中で中国語の影響が増大し、わが国の若手研究者に対し、方言記述研究の重要性、緊急性を訴えることをもって、本論文の締めくくりとしている。
3. 論文の成果と問題点
フレルバートル氏は1986年に内モンゴル大学モンゴル学部に講師の職を得、後進の指導にあたっていたが、モンゴル語学をより広い視野で深めるために1994年来日し、東京外国語大学研究生を経て本学大学院に入学した。その間本来の専門であった文献研究に加えて、中国語のモンゴル語に対する影響など、社会言語学を視野に入れた業績を重ね、広範な研究活動を行ってきた。しかし、長母音の発生に関する研究は長年の研鑽の集大成として、また、日本における研究生活を締めくくるものとして、やはり氏に最もふさわしいテーマであるとみなすことができる。その期待に充分応え、先行研究の不備を補い、綿密な検証作業を続けた熱意と、独自の仮説を提起し、その実証を試みるまでに至った粘り強さは賞賛に値する。
残る課題は、氏が長母音発生のプロセルの推定において中心的な役割を担ったとみなした円唇母音の同火力の強さを、どの程度説得力をもって論証できるか、という点である。この点に関して、審査員一同はさまざまな角度から二重母音がひとつの長母音に融合するプロセスの可能性を検討した。氏も指摘しているように、モンゴル語における長母音の発達が子音の脱落に始まり、その結果前後の母音の融合が起こったことは間違いない。その際、氏が少ない事例の側にも目を配り、それによって新しい知見を得たことは評価すべきであるが、その変化を音声学的に自然なものであると主張するのであれば、同じような母音変化が起こった他の言語の事例などにも目を配り、あらゆる可能性を検討する必要があると思われる。同種の母音変化は少なからぬ言語に起こっており、多様な事例の検証を経た後、氏の仮説がますます強力な裏づけを得ることは間違いなかろう。同時に、氏も再三述べているように、モンゴル語諸方言の記述的研究を推進し、さらに豊富な資料を蓄積することも重要な課題であるが、この点に関しては、今後の活躍を待たねばならない。
とはいえ、本論文の段階においても、独自に意欲的な仮説を提起し、それなりに充分納得のゆく論証を試みたことに対して、その成果と意欲を正当に評価すべきものであるという意見で、審査員一同意見の一致をみた。
最終試験の結果の要旨
2000年2月29日
2000年2月15日、学位論文提出者フレルバートル氏の論文についての最終試験を行った。試験において、提出論文「現代モンゴル語の長母音の発達に関する一考察」に基づき、審査員が疑問点について逐一説明を求めたのに対し、フレルバートル氏はいずれにも適切な説明を行った。
よって審査委員会は、フレルバートル氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。