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博士論文審査要旨

論文題目:終わりなき「悩み」―エチオピア・東ショア及びアルシ地方にみられる参詣の共同性―
著者:松波 康男 (MATSUNAMI, Yasuo)
論文審査委員:岡崎 彰、大杉 高司、春日 直樹、深澤 英隆

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I 本論文の構成
エチオピアの東ショア及びアルシ地方には様々な規模の聖者廟が多数存在し、それらは参詣地となっているが、同じ聖者廟に、イスラム教徒もキリスト教徒(エチオピア正教)も、また民族的に異なる人々(オロモ人、アムハラ人)も巡礼に行く。なぜ人びとはこれらの参詣において他所から来た見知らぬ参詣者の「悩み」に耳を傾けてその人のために祈るのか、そこにはどのような共同性が生まれているのか、参詣によってどのような悩みをどのように対処しようとしているのか、さらに参詣地で「悩み」への助言がどのように与えられ、それは人びとによってどのように受け入れられているのか。本論文は通算16か月の人類学的フィールドワークに基づきこのような問いについて考察したものである。

本論文の構成は以下の通りである。

序章
0-1東ショア及びアルシ地方にみられる参詣と「悩み持ち」
0-2現地調査の概要
0-3本論の構成
第1章社会組織と精霊
1-1調査地概要
1-2歴史
1-2-1オロモの定住とクラン
1-2-1エチオピア近代史と「民族」
1-3社会組織と精霊
1-3-1ガダ体系
1-3-2精霊アテテ
1-3-3精霊ウカビ
第2章参詣地とその構成
2-1ハドラ集会開催地
2-1-1ボリ
2-1-2ガネテイ
2-2民族的参詣地:カラ・トルバ
2-3ムスリム聖者廟:ディフィカル
2-4精霊ウカビ信仰の拠点:ファラカサ
2-4-1ファラカサの歴史
2-4-2ファラカサ参詣の今日的状況
2-4-3ファラカサの支部:ボララ
2-5参詣地の包括的特徴
第3章ファラカサのとりもち儀礼とボリのハドラ集会
3-1精霊ウカビへの供犠と奉仕
3-1-1精霊ウカビへの供犠
3-1-2精霊ウカビへの奉仕
3-2とりもち儀礼:ファラカサ
3-2-1「邪霊祓いの手続き」
3-2-2「調停手続き」
3-2-3「精霊ウカビ特定の手続き」
3-3ハドラ集会:ボリ
3-3-1「悩み持ち」と精霊ウカビの対話
3-3-2精霊ウカビへの供犠と奉仕の徹底
3-3-3オロモ的慣習の励行
第4章「悩み」の物語の複数性
4-1物語の安定化:ファラカサ
4-1-1非均質的な信仰ネットワーク
4-1-2精霊を分類する知識と実践
4-1-3パースペクティヴの調整
4-1-4安定的な「悩み」の物語の仕組み
4-2物語の身体的受容:ボリ
4-2-1不明瞭な原因
4-2-2精霊ウカビマルカトの秘密
第5章相互祈祷と共同性
5-1後成的な参詣動機
5-2助言されない「悩み」
5-3人類学の巡礼研究
5-3-1ターナーの理論とその問題点
5-3-2ターナーへの批判
5-3-3コムニタス論批判の持つ問題点
結論「悩み持ち」の織りなす共同性
参照文献

II 本論文の概要
序章の冒頭で著者は、参詣路や参詣地で人びとが「悩み」を語り、見知らぬほかの参詣者がそれに祈祷するが、このような光景はエチオピア東ショア及びアルシ地方で頻繁にみられるものであり、そこには参詣特有の共同性が認められると述べ、このような参詣の共同性について考察するのが本論の目的であると明記する。次に、人類学における巡礼研究の最近の動向について簡単に触れ、これまでの巡礼研究が聖地において起こるコムニタス的な同質性を強調してきたのに対し、最近の研究は聖地をむしろ異なる民族や宗教に属する人々が出会う場ととらえる傾向にあることを指摘する。しかし著者はこのように、同質性から異質性へと強調を変えて、相互排他的に捉えるのではなく、それらがどのように並存し、互いにどのような関係にあるかを明らかにすることが新たな巡礼研究の課題であると主張する。次に本稿で主人公となる「悩み持ち」と現地で呼ばれる参詣者たちについて触れている。「悩み持ち」とは病や夫婦の不和、家畜の死、ビジネスの失敗、作物の不作、交通事故などさまざまな「悩み」を抱えた人びとの総称であり、本研究では参詣を「悩み」に対処する一方法と捉え、人びとが自らの「悩み」を解決するためにどのような方法をとるのか、そしてその「悩み」がどのような内容であり、どのような条件が揃えば参詣が敢行されるのかについて追及していくと述べる。そして実施した現地調査の概要や参加した巡礼の記録などが付記されている。
第1章では、まず、著者の主たる調査地となった東ショア地方ボサト県について概要を述べる。現在、当該県に暮らすオロモ人の歴史を16世紀にさかのぼって記述し、エチオピアにおける今日の地政学的配置(北部高地居住のキリスト教徒アムハラ/南部低地居住のムスリム・オロモ)がどのように形成されたか説明する。そして、このような経緯でオロモの人びとが居住するようになったボサト県では、オロモ社会特有の年齢階梯体系として広く知られるガダ体系がいまも機能しており、それは精霊(アテテ)の存在と関連が深いものであったと述べ、精霊(アテテ)はオロモの伝統的なワーカ神と関連付けて説明される一方でオロモ社会における聖母マリア崇拝の受容とも結び付いてきたことを説明している。
第2章では東ショア及びアルシ地方にみられる複数の参詣地について述べ、それらを比較することで各地に備わる特徴を明らかにしている。また、そのような参詣地の特徴はそのときどきの政策や参詣地の地理的条件とも深く関わっていると述べる。次に、ボサト県ボリ集落周辺で世帯調査を実施した結果、参詣経験の有無について聞き取りを行うと住民の8割以上がいずれかの参詣地を訪問した経験があることが判明したと言う。そして、それらの参詣地は異なる宗教、民族帰属の参詣者を同じ空間に集めることを可能としており、同じ帰属のものだけを同じ空間に集めるような排他性がないと指摘する。
第3章では、オロミア州アルシ地方の参詣地ファラカサで開催されるとりもち儀礼と同州東ショア地方ボサト県のボリで開催されるハドラ集会について説明されている。それらはともに「悩み持ち」に「悩み」を語る機会を提供している文化装置であるが、そこにはさまざまな違いがあること言う。開催条件だけではなく、対話にたどり着くまでの過程や儀礼の人的配置、「悩み」の語られ方、対話の枠組み、儀礼をとおしてみられる精霊(ウカビ)と人間の関係性、被相談者による聴取の要点、助言の導かれ方や与えられ方など多くの点で異なっていると指摘する。とくにそれぞれの儀礼で「悩み持ち」がどのように「悩み」を語るか、被相談者はどのように対応するかという相互行為の仕方について詳しく説明している。まず、ファラカサで開催されるとりもち儀礼についてだが、これは当地の代表者ハッジ・スラージによってとり仕切られること、この儀礼には「悩み」の解決を望む「悩み持ち」の参詣者が自主的に参加することができること、そしてファラカサには、人びとに訪れる「悩み」は人間と精霊(ウカビ)の不和を原因とする、といった一義的な「悩み」の説明様式があること、そしてその不和の原因は精霊(ウカビ)への供犠や奉仕の欠如であるとされていることなどが指摘される。またスラージがこの儀礼で被相談者となり、「悩み持ち」とその精霊(ウカビ)双方の意見に耳を傾け、双方にたいして助言することをとおして、それらの仲をとりもち、悪化してしまった関係性を修復しようと試みるというのが特徴であると述べる。そして憑依における精霊と憑座とのあいだののディスコミュニケーションは憑依という現象の本質にかかわるものであり、もし、このディスコミュニケーションがなければ、憑座と憑依霊の区別はなくなり、憑座の人格が変様したとか、新たな自己を獲得したなどと言われかねない点を指摘する。したがって、ファラカサのとりもち儀礼においては、スラージが「悩み持ち」と精霊(ウカビ)のあいだに立ち、双方の言い分に耳を傾け、それぞれに助言を与えることで、このディスコミュニケーションによって隔てられた両者を橋渡しして供犠の約束を締結し、双方の仲をとりもつのであると論じる。また、この儀礼でスラージは「悩み持ち」に質問するが、それへの返答の内容やふるまいに応じてその面談は異なる「手続き」へと進行していくこと、この儀礼は精霊(ウカビ)をめぐる知識、とくにその名前と適切な供犠とを媒介する「データベース」を核とした体系的なものとして構築されていること、また、この儀礼をとおして「悩み持ち」に近づく邪霊が祓われたり、「悩み持ち」が精霊(ウカビ)に憑依されたりする事態が頻繁に生じていることを指摘している。
第3章の後半では、ボリで開催されるハドラ集会についての記述に移る。そこでは霊媒師カラニによるハドラ集会が毎週開催されており、ファラカサとは異なり被相談者である霊媒師が精霊(ウカビ)マルカトに憑依されること、そしてここでは「悩み持ち」の語る「悩み」の具体的な詳細がマルカトの聴取の要点であることが指摘される。またそこでの「悩み持ち」とマルカトの対話の自由度は高く、他の参加者が意見をたずねられたり、電話が使用されたりすることもあると言う。そこで「悩み持ち」に与えられる助言は、精霊(ウカビ)への供犠と奉仕の徹底のみならず、首飾りの着用やイレッチャ儀礼の実行などオロモ的慣習の励行に及んでいる。また、常にひとつの対処法が指示されるのではなく、複数の対処法が並び立てて指示されることも少なくないことが指摘される。このようにボリとファラカサにおける「悩み」への対処法は様々な点で異なることが明らかにされる。
第4章ではファラカサのとりもち儀礼とボリのハドラ集会で与えられる助言が、どのようにして人びとにリアリティのある物語として受け入れられているか考察されている。まず、エチオピアの精霊(ウカビ)信仰をめぐる知識や行為がどのように流通しているか、そしてそれらはどのように互いに関連付けられたり干渉したりしているか、さらには、その結果としてエチオピアの精霊(ウカビ)信仰と呼ばれるものがどのような意味のある空間として形成されているかについて論じられる。当該地方の参詣者のあいだには、精霊(ウカビ)信仰に関する知識や行為のずれがはっきりとみてとれること、そしてエチオピアの精霊(ウカビ)信仰と呼ばれる広大に張り巡らされた信仰のネットワークにおいては、ある地域で実践される精霊(ウカビ)信仰はほかの地域での実践のされ方で異なるかたちに形成された精霊(ウカビ)信仰とつねに交叉した関係にあり、人びとの実践をとおしてその知識や行為は絶えずとり込まれたり、排除し合ったりしながら更新されていることが指摘される。このように精霊(ウカビ)信仰は非均質的なネットワークとなっており、したがって、この信仰をどこか特定の場所(参詣地、ハドラ小屋)や特定の人物(聖者、霊媒師)、特定のモノや語り(経典、神話、言説)に固有のものであるとみなすことはできないと指摘する。そして具体的に、このような助言の受け入れられ方の違いをファラカサとボリで見ていく。
まずファラカサのとりもち儀礼では、「悩み持ち」とスラージのあいだの精霊(ウカビ)信仰をめぐる知識のずれによって精霊(ウカビ)と邪霊が反転したり、参詣者が「精霊(ウカビ)持ち」へ転身したりする事態が生じていること、そして精霊(ウカビ)と邪霊をめぐる判断は、参詣地に蓄積された知識に基づいてなされるが、それと同時にその場のアクターの相互作用そのものからも実践的に判断されていることが指摘される。従ってこの儀礼で与えられる助言(「悩み」の物語)を人びとが受け入れることは当地の権威性のみで説明できるものではないこと、そして精霊(ウカビ)と邪霊の反転や「精霊(ウカビ)持ち」への転身などをとおして、その物語の持つ内部完結的な循環へ「悩み持ち」を誘いこむことと関わっていると指摘する。従って、それはほかの「悩み」の説明様式がこの循環に侵入しないという意味で、安定的な「悩み」の物語をつくりあげるものであると論じている。
一方、ボリのハドラ集会では、人びとの「悩み」にたいして、精霊(ウカビ)への供犠のみならず、オロモ的慣習の励行が助言されている。そこでは、人びとに語られる「悩み」と霊媒師の助言のあいだに定式を見出すことは困難であり、ボリで与えられる「悩み」の物語は、特殊な言語行為を生じる舞台装置において実践的に人びとに受容されるものとなっていると指摘する。したがって、精霊(ウカビ)の秘密を核として編みだされるつかみどころのない「悩み」の物語は、硬直していく既存の「悩み」の物語を揺さぶることを可能としているのであると論じている。
第5章ではまず参詣動機の語りについて考察し、巡礼・参詣研究においては人びとが語る動機がその旅の経験を考察する際の主要な情報となることが多いが、必ずしもそのような動機が、参詣行為に先立つものとしてあらかじめ存在し、その旅を導く原因となっているとは捉えられない点を指摘する。つまり「なぜ」という問いにたいして語られる参詣動機とは、質問者が問うた時点に生じたものであり、それは参詣者が自らの行為をその時点から「再記述」することで得た後成的なものに他ならないのであると、アンスコムの「意図行為」論にも言及しながら論じる。このように人びとが自ら参詣動機について語ることはないが、興味深いのは当該地方のほとんどの参詣地や参詣路で人々の間で相互行為が観察されるという点である。例えば、参詣者同士で相互に祈り合いをしたり、各地からの参詣者が車座になり、互いに「悩み」を語り、聴き、祈祷したりするといったことである。この点を考慮に入れながら、第5章の最後では、人類学の巡礼・参詣研究がこれまで共同性をどのように議論してきたかを、まずターナーの理論の問題点を指摘し、次にターナーの問題に対する批判的意見を検討し、さらにコムニタス論批判の持つ問題点も考察しながらまとめている。
結論では、それらを踏まえたうえで、この相互祈祷の問題について考察している。とくに、当該地方の参詣地で人びとが他者の「悩み」に耳を傾け祈ることと、そこでみられる共同性とがどのような関係にあるかを焦点として議論している。ここで述べる共同性とは、同じ「悩み持ち」である他の参詣者と出会い、その悩みを吐露し、祈り、祈ってもらうという行為の連鎖のなかに見出すことができるものであり、人びとの「悩み」が続くことは、たんに貧困、衛生不良、医療制度の不足などによって説明できるものではないと論じ、「悩み」を語る相互行為の場が当該地方の参詣地に備わっているからこそ、自身に生じる出来事をそこで語りうる「悩み」として捉える視座が形成されていくのであると考察している。従って、参詣においてさまざまなかたちで提供される「悩み」への対峙は、他の参詣者もまたそのような「悩み」に曝された存在であることを知る機会ともなっていると論じている。そして、最後に、エスポジトの提起した脱構築されたコムニタスのとらえ方を引用しながら、「悩み」は排除が不可能なものであり、引き受けざるを得ないという受動的な性質においてこのように関係性の網の目に人びとを組み込んでいくものであり、当地の聖地や参詣路にみられる共同性の根底には宗教、民族的同一性による融合とは異なった、「悩み」を語り、聴き、祈ることで拡張していく他者による関係性が存在すると指摘している。そして、それは区別と融合により成立する共同性とは異なった、参詣における共同性のあり方であると論じている。

III本論文の成果と問題点
まず、第一に評価すべき点は、これまでの人類学や宗教社会学で積み重ねられてきた巡礼研究に対し、詳細な具体的事例の分析を通じて、巡礼とその地での儀礼がもつ複合的な機能や、巡礼者の相互行為として立ち上がる共同性に着目するなど、巡礼・参詣研究にも新生面をひらいたことである。
第二に評価すべき点は民族誌の成果に関することである。ボリとファラカサという異なる参詣地において、会話記録も用いた周到な調査によって、「悩み」の対処が異なる方法で実施されている点を比較分析し、「悩み」の物語の安定性と不確定性という複数性を明らかにし、しかもそれらが必ずしも対立するものではないことを論じ得た点。そして、各種の参詣地での儀礼の観察だけでなく、数日から一週間かかる巡礼を何回も巡礼者たちと共にし、その過程で人々が経験する相互行為を観察することで、これまでの研究のように参詣動機が参詣行為に先立つものとしてあらかじめ存在しているとすることではとらえることができない側面を洞察しえたことである。
第三に評価すべき点は、そのような共同性に関する民族誌的観察を用いて、ターナーの著名なコムニタス論が陥った問題点をある程度裏付けたと同時に、エチオピアの参詣地における諸宗教の共存と包摂のメカニズムを解明し、そこに「脱構築されたコムニタス」とも言うべき状況があることを明らかにした点であろう。
他方、本論文には課題として以下のような点が指摘できる。
第一点は論文の構成上の問題である。論文の最後のほうで巡礼論や共同性やコムニタスに関する理論的議論が展開されているが、論文の初めにこれらの問題がきちんと提起されていない。そのせいで、理論的議論はやや取って付けたような印象が強く、中心の民族誌的記述と必ずしもしっかりかみ合っていない。
第二点は、宗教的にも民族的にも異なる人々が参詣地で示す共同性の記述はあっても、日常においてどうなのか記述が薄いので、排除や包摂という用語が肉付けされた議論になっていない。包摂性について議論する場合は排他性に関する事例も出されると説得力が増すであろう。
とはいえ、これらの問題点は著者自身が十分に自覚するものであるため、今後の研究によって克服されることが期待される。


IV 結論
審査員一同は、上記のような評価と、2015年1月7日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2015年2月12日

2014年12月19日、学位論文提出者松波康男氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「終わりなき『悩み』‐エチオピア・東ショア及びアルシ地方にみられる参詣の共同性‐」に関する様々な疑問点について、審査員が逐一説明を求めたのに対して、松波康男氏はいずれの質問やコメントに対しても的確に応答し、十分な説明を与えた。よって、審査員一同は、松波康男氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。 

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