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博士論文審査要旨

論文題目:第二次朝鮮教育令施行期(1922年~1938年)における中等教育―高等普通学校及び女子高等普通学校を中心に―
著者:崔 誠姫 (CHOI,Seonghee)
論文審査委員:糟谷 憲 一、木村 元、佐藤 仁史、若尾 政希

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1.本論文の構成

 本論文は、第二次朝鮮教育令が施行されていた時期(1922年4月~1938年3月)における朝鮮人向けの中等教育機関であった高等普通学校及び女子高等普通学校の教育の実態について、具体的に考察したものである。本文・主要参考文献目録を併せて、400字詰原稿用紙換算にして約1,000枚に及ぶ力作である。
 その構成は次のとおりである。
序章
第1節 問題意識の設定
  第2節 先行研究(該当分野及び隣接諸分野)の整理
  第3節 研究目的と史資料
  第4節 本論文の構成
 第Ⅰ部 第二次朝鮮教育令と高等普通学校・女子高等普通学校の教育実態
 第1章 第二次朝鮮教育令制定と高等普通学校・女子高等普通学校
 第1節 近代教育のはじまり
  第2節 第一次朝鮮教育令施行期の高等普通学校・女子高等普通学校
  第3節 第二次朝鮮教育令の制定
  第4節 第二次朝鮮教育令施行期における高等普通学校・女子高等普通学校の分布状     況と生徒数
 第2章 高等普通学校・女子高等普通学校の設立をめぐって
  第1節 高等普通学校の設立
  第2節 女子高等普通学校の設立
  第3節 朝鮮各地における高等普通学校期成会の状況―実現に至らなかった高等普通     学校設立―
 第3章 高等普通学校・女子高等普通学校への進学―競争率と入試問題―
  第1節 普通学校就学と卒業
  第2節 高等普通学校・女子高等普通学校の新入生募集と競争率
  第3節 入試問題
第4章 授業内容及び教科書
  第1節 カリキュラム
  第2節 教科書編纂の過程
  第3節 高等普通学校・女子高等普通学校教科書―朝鮮語・「国語」・修身―
  章末付録 第二次朝鮮教育令施行期に発行された高普・女高普用教科書目次
 第5章 卒業後の進路
  第1節 卒業率
  第2節 進路状況
 小結
 第Ⅱ部 第二次朝鮮教育令施行期の学生運動
 第6章 学生と民衆―ハングル普及運動―
  第1節 朝鮮の識字率をめぐって
  第2節 朝鮮日報社、東亜日報社によるハングル普及運動
第7章 同盟休校と抗日運動
  第1節 1920年代の同盟休校
第2節 光州学生事件
  第3節 1930年代の同盟休校
小結
 終章 
参考文献

2.本論文の概要

 序章の第1節では、本論文の問題意識を述べている。著者は、第二次朝鮮教育令の下でも、学校制度などの面で朝鮮人に対して差別的な植民地教育は継続するが、高等普通学校(以下、高普と略す)・女子高等普通学校(以下、女高普と略す)の増設、京城帝国大学及び同予科の設置によって朝鮮内でも高等教育への接続が可能になったことを挙げて、第二次朝鮮教育令施行期は植民地教育の「本格的に」展開する時期であると把握している。以上のような認識に基づいて、第二次朝鮮教育令施行期の中等教育機関のうち、朝鮮人生徒が通学した高普及び女高普に対象を限定して、その教育の実態を明らかにすることが、本稿の目的であるとしている。
 第2節では、まず、植民地期朝鮮教育史研究の状況を概観した上で、朝鮮の「近代化」をめぐる評価の問題を論じている。著者は、植民地支配が「近代化」をもたらしたとする「植民地近代化論」と、発展の契機を国内的なものに求める「内在的発展論」が対立しているとした上で、高普・女高普の生徒については、二分論的な側面だけでは捉えきれない、植民地の「葛藤」を抱えた存在という視点からの考察も必要であると論じている。ついで、植民地期朝鮮の中等教育研究の現状は、事例研究が進んでいるものの、全体的な状況を把握できていないと整理している。韓国の朴煕哲氏の京城第一高等普通学校を中心にした高普に関する研究(2002年)は、学事資料など新しい史料を用いたものであり、植民地期中等教育に関する本格的な研究の出発点になったと評価している。
 第3節では、まず、本稿の課題は、(1)高普・女高普の実態の究明、(2)朝鮮総督府の対高普・女高普政策の究明、(3)朝鮮社会における高普・女高普の生徒のプレゼンスの究明であると述べている。ついで、本稿で使用した史資料は、大きく、(1)教育関係の行政文書類(朝鮮総督府学務局文書など)、(2)学校関係資料(学校要覧、同窓会誌など)、(3)新聞・雑誌資料の3群であることを説明している。
 第4節では、本論文の構成を述べている。Ⅱ部構成とし、第Ⅰ部は第1章~第5章で構成し、総督府の教育政策と高普・女高普の教育の実態について、第Ⅱ部は第6章・第7章で構成し、高普・女高普生徒の学生運動について、それぞれ扱うとしている。
 第1章では、第二次朝鮮教育令の制定過程を扱っている。
 第1節では、朝鮮における近代教育の開始について論じ、甲午改革(1894~1896年)における中央教育行政官庁(学務衙門、ついで学部と改称)の設置と諸学校の発足、「中学校官制」の制定(1899年4月)、1880年代以降におけるミッション・スクールの設立について簡潔に説明している。ついで、統監府の設置(1906年)に伴って、学校制度は改編されて、植民地教育の体系がつくられていったこと、中等教育に関しては、「高等学校令」、「高等女学校令」を制定したこと、国権回復をめざす愛国啓蒙運動の一環として設立された私立学校を統制するために「私立学校令」(1908年)を制定したことについて、説明している。
 第2節では、「韓国併合」後の1911年、朝鮮人の学校教育について定めた勅令「朝鮮教育令」(第一次朝鮮教育令)が制定されたことを述べた上で、第一次朝鮮教育令施行期(1911年4月~1922年3月)の高普(修業年限4年)・女高普(修業年限3年)について、そのカリキュラムの特徴を中心にして説明している。
 第3節では、1919年の3・1運動を契機に、朝鮮総督府は「文化政治」に施政方針を転換し、これに伴って教育令改正が審議されることとなったとした上で、朝鮮総督府・枢密院における改正案審議の経過(1921年1月~1922年1月)を跡づけている。枢密院では台湾教育令改正案とともに審議されたこと、1921年12月の枢密院の第2回会議で出た質問を受けて、「内地人」と「朝鮮人」あるいは「台湾人」の区別が、「国語ヲ常用スル者」「国語ヲ常用セサル者」の表現に改められた経緯にも言及している。最後に、第二次朝鮮教育令の高普・女高普に関する事項について言及し、それぞれの修業年限が中学校・高等女学校と同一になったことを指摘している。
第4節では、第二次朝鮮教育令施行期における高普・女高普の学校数とその分布状況を検討している。それによって、(1)高普・女高普を合計しての学校数は最大の時点(1937年度)でも48校であり、6年制普通学校(初等教育機関)が1937年度に1414校設置されていたことと比較しても、十分とは言えなかった、(2)高普は公立16校、私立11校の計27校で、公立は各道1~2校設置され、私立はソウルに5校が集中し、27校中18校は第一次朝鮮教育令施行期に設立されていた、(3)女高普の場合、公立11校・私立10校の計21校であり、公立が設置されていない道があり、私立はソウルに5校が集中し、21校中14校が第二次朝鮮教育令施行期に設立された、などの特徴を明らかにしている。最後に高普・女高普の生徒数の推移を、『朝鮮総督府統計年報』によって検討し、生徒数が継続して増加していること、高普の場合は1925年度以降、公立が私立を上回るのに対し、女高普の場合はこの期を通じて私立の方が多かったこと、を指摘している。
 第2章では、第二次朝鮮教育令施行期における高普・女高普の増設・新設、中等相当の私立各種学校の中等学校への「昇格」をめざした運動を検討している。なお、著者は、既に高普・女高普が設置されている道で高普・女高普を新たに設立する場合を「増設」、高普・女高普が1校もなかった道に設立する場合を「新設」として、区別している。
 第1節では、高普の設立の事例として、慶尚南道の晋州公立高普の設立、平安北道定州郡の私立五山学校の高普「昇格」を検討している。晋州の場合には、(1)1921年に地元朝鮮人有力者によって一新私立高等普通学校期成会が結成され、道当局・総督府との交渉を経て、1924年10月に学校設立の認可を受けるに至ったこと、(2)学校用地や建築費は地域の朝鮮人有力者の寄付に拠ったこと、(3)1924年12月に慶尚南道庁の晋州から釜山への移転(1925年4月実施)が発表され、その「代償」として公立晋州高普設立が示され、一新高普の敷地・寄付金は道に寄付されることになったこと、また私立一新女高普の設立が許可されたこと、などを学務局文書、『東亜日報』記事などによって、詳細に明らかにしている。
第2節では、女高普の設立の事例として、慶尚北道の大邱女高普の設立、全羅北道の全州女高普の設立、ソウルの同徳女学校の女高普「昇格」を検討し、次のような点を明らかにしている。(1)大邱の場合(1926年4月開校)は、1924年に地元の朝鮮人有力者によって期成会が組織され、学校の敷地・建築費は朝鮮人有力者の寄付に拠ったこと、(2)全州の場合(1926年5月開校)も、地域の朝鮮人有力者によって期成会が結成され、6万円の寄付が集められて、学校の建設費に充てられたが、幹線鉄道である湖南線の要衝に立地する益山郡裡里に女高普を設置すべきであるとの動きもあったこと、(3)天道教系の同徳女学校の女高普「昇格」(1926年4月)は、申請から5ヵ月後にようやく認可されており、慎重な審査が行われたと考えられること、などである。
 第3節では、高普期成会が結成されたが、設立までには至らなかった事例を、『東亜日報』の記事をもとにして検討している。それによれば、第二次朝鮮教育令施行期に、高普期成会が設立された地域は24地域に及ぶが、高普設立が実現できた地域は3地域に止まり、中等相当の実業学校が設立されたのが10地域、実業学校も設立されなかった地域が11地域であった。高普の設立を求める朝鮮人の要求に対して、朝鮮総督府が「一道一校」の原則に則って対応したと、筆者は指摘している。
 第3章では、普通学校から高普・女高普への進学に関わる問題を検討している。
 第1節では、進学の前提条件となる普通学校の卒業率を検討している。まず、普通学校の就学率は朝鮮総督府による推計よりも下回ることを指摘した上で、1937年度でも30%程度であって、普通学校への就学自体が困難であったことを強調している。ついで、就学しても中途退学する児童が多数存在しており、学務局学務課の『学事参考資料』(1937年)掲載の統計に拠れば、1932~36年度平均の6年制普通学校卒業率は、公立60%前後、私立65%程度であったことを指摘している。筆者は、就学率と卒業率を以上のように把握した上で、「普通学校卒業者は圧倒的少数」であったと論じている。最後に、同じく『学事参考資料』に拠って、普通学校卒業者の「上級教育就学」は、全体の2~3割程度であったことを指摘している。
 第2節では、進学準備をする前提となる新入生募集の状況と競争率について述べている。前者に関しては、高普・女高普の入学試験に関する情報(「入学案内」)が、1920から25年頃までは『毎日申報』(朝鮮総督府の機関紙的な朝鮮語新聞)に、1930年以降は『東亜日報』(朝鮮人発行の朝鮮語新聞)に掲載されたことを指摘し、その具体例を示している。後者に関しては、前掲『学事参考資料』掲載の「入学状況累年調」に拠って、1927~37年における高普・女高普の全国平均入学競争率を示している。これに拠れば、高普の場合は3~5倍程度、女高普の場合は2~3倍程度であった。
 第3節では、各学校個別に出題された入試問題について検討している。入試科目は「国語」(日本語)・朝鮮語(高普は漢文も含む)・算術・理科・歴史地理であった。『毎日申報』『東亜日報』は「入学案内」を掲載した年には、朝鮮語(『毎日申報』に初期のみ掲載)・「国語」・算術の問題を掲載した。著者は「国語」・算術の問題の具体例を示し、算術の文章題も含めて、外国語である日本語について、高度の理解力を求められていたと、分析している。
 第4章では、高普・女高普のカリキュラムと教科書について検討している。
 第1節では、高普・女高普のカリキュラムを、「高等普通学校規程」所定の授業時間数と比較して検討している。それに基づいて、(1)高普の場合、「国語及漢文」、外国語(主に英語)、数学を増やし、実業を減らしたり無くしたりする学校があった、(2)女高普の場合、朝鮮語を減らし、外国語(主に英語)を増やした学校、数学を増やした学校、家事を減らした学校があったこと、を明らかにしている。
 第2節では、第二次朝鮮教育令下では、朝鮮人向け中等教育教科書としては、修身・「国語」・漢文・朝鮮語・歴史・地理については朝鮮総督府が教科書を編纂することと定められたこと、この時期には2回の編纂(植民期期全体を通じての第Ⅱ期、第Ⅲ期)が行われたことを指摘した上で、教科書編纂の過程を検討している。まず、第Ⅱ期について、教科書調査委員会(1920年11月設置)の構成と編纂方針、1924年に編纂を完了した教科書の構成と頒布高について述べている。ついで、第Ⅲ期について、臨時教科書委員会(1928年6月設置)の構成、編纂された教科書の一覧、教科書頒布高を示している。
 第3節では、高普・女高普教科書のうち、朝鮮語・「国語」・修身の教科書の特徴を分析している。それによって、(1)朝鮮語科目に実業に関する内容が含まれていたこと、(2)第Ⅲ期の女高普朝鮮語教科書には漢文も含まれるようになったこと、(3)女高普の朝鮮語教科書には家庭や女性に関するものが多いこと、(4)高普の「国語」教科書では著名な日本人作家の文章を理解する高度な「国語」力を求められ、日本の情緒や日本的なものに重きが置かれていたこと、(5)女高普の「国語」教科書でも書きことば重視の傾向が現れ、日本人女性作家の作品、母性や女性性が強調する文が多く引用されていること、(6)修身教科書では、第Ⅱ期には教育勅語(女高普では戊申詔書も)、第Ⅲ期に国民精神作興に関する詔書、戊申詔書、教育勅語を学ぶ構成になっていたこと、などを明らかにしている。本節に続いて、章末付録として、第二次朝鮮教育令施行期に発行された高普・女高普用教科書(朝鮮語・「国語」・修身)の目次を62頁(本論文全体の約21%に当たる)にわたって掲載している。
 第5章では、高普・女高普卒業者の卒業後の進路について検討している。
 第1節では、『朝鮮総督府統計年報』に拠って、高普・女高普の卒業率を算定している。それに従えば、卒業率は、公立高普は37%~75%、私立高普は28%~79%、公立女高普は54~85%、私立女高普は42~79%を推移している。この傾向に基づいて、筆者は、経済的にある程度余裕のある層の出身でありながらも100%近い状況ではなかったことをまず指摘した上で、(1)高普・女高普ともに私立よりも公立の方が高い傾向にあり、授業料の高い私立では経済的な事情から学業を継続できなくなる生徒が多かったと考えられること、(2)高普に比べて女高普の卒業率が高いが、これは自宅通学生の率が高く、経済的にも余裕のある家庭の出身が多いと想定できること、(3)同盟休校による処分が、男女の卒業率の差異を生じた理由の一つと考えられること、を指摘している。
 第2節では、高普・女高普の卒業生の進路について、全体的な状況、学校別の状況に分けて検討している。まず、全体の状況については、前掲『学事参考資料』に掲載された「卒業者状況累年調」に基づいて、公立高普・私立高普・公立女高普・私立女高普に類別して、進路の推移を示している。これに基づいて、著者は、(1)公立高普では1932年から上級教育就学が最も多くなること、次いで其他、官公署就職であること、(2)私立高普では1932年~上級教育就学が増加し、1935・1936年度には家事をほぼ等しくなるが、官公署就職は非常に少ないこと、(3)公立女高普では、家事が圧倒的に多く、次は教員であったが、1932年以降には上級教育就学が教員を上回るようになったこと、(4)私立女高普では、家事が最も多く、次いで上級教育就学、教員の順になっていること、を指摘している。
 学校別の進路状況については、『朝鮮総督府官報』に掲載された統計、及び『東亜日報』に掲載された卒業生の進路希望に基づいて、検討している。この結果、学校別・地域別の差異を明らかにするとともに、その特徴を、高普においては京城帝国大学予科を志望する者が多かったこと、女高普においては家業従事が多く、女子にとっては女高普が最終学歴となる場合が多かったこと、であると整理している。
第6章では、1929~34年に展開されたハングル普及運動の過程と中等教育機関の生徒たちが運動の中心的な担い手としての役割を果たしたことを明らかにしている。
 第1節では、1920年代以降、農民団体の機関誌や『朝鮮日報』『東亜日報』などを舞台にして、識字率向上のための運動を起こす必要性がくり返し唱えられていたことを跡づけている。
 第2節では、1929~31年、34年の夏休みに展開された朝鮮日報社主宰の「文字普及班」の運動、1931~34年の夏休みに展開された東亜日報社主宰の「ヴ・ナロード運動」の展開過程について、『朝鮮日報』『東亜日報』の関係記事の調査を基礎にして、詳細に明らかにしている。そして、これらのハングル普及運動に多くの中等教育機関の生徒たちが多数参加して、主な担い手として活躍したことを、参加校名や学校別人数のレベルまで含めて、具体的に明らかにしている。また、ソウルの私立中等教育機関の校長・教員が運動に積極的に関与していたことも明らかにしている。
 第7章では、1920年代、30年代における同盟休校と、1929年に起きた光州学生運動について検討している。
第1節では、1920年代の同盟休校について、朝鮮総督府警務局の冊子『朝鮮に於ける同盟休校の考察』(1929年)を基礎にして検討を加えている。それによって、同盟休校の原因は、校舎・設備の改善要求、教育改善要求、教員排斥、「民族意識並びに左傾思想の反映」影響など、多様であったが、朝鮮総督府は「左傾的思想」を警戒したと論じている。ついで、1926年6月の全州高普の同盟休校、1927年5~7月のソウル・淑明女高普の同盟休校の事例について検討している。
 第2節では、1929年11月に光州学生事件が起きた経緯・原因と光州高普・光州農業・光州師範など中等教育機関の生徒の運動への大量参加、それが植民地教育反対を掲げた全国的な運動に発展していった経過を検討している。
第3節では、1930年代の同盟休校について、朝鮮総督府警務局保安課『高等警察報』5号に拠って検討している。同盟休校の原因としては、教員に対する不満や排斥が最も多いこと、件数は減少したこと、などを指摘している。
 終章では、まず、序章第3節で示した本稿の課題について、どこまで究明できたかを整理している。その結果、(1)高普・女高普の教育の実態には多角的視点から迫ったが、数が限られた高普・女高普の生徒は、総督府側にとっても朝鮮人社会にとっても「選別された」特別の存在であったと言える、(2)総督府は朝鮮人エリートを一定数養成する必要を感じ、高普・女高普の生徒を同化政策の具現者として捉えていたが、朝鮮人エリートの大量育成を想定しておらず、高普不拡充の政策を維持した、(3)高普・女高普の生徒は、総督府の教育政策における教育を受けながらも、その内容には強く反発するという植民地の矛盾をあらわす存在であるとともに、朝鮮人社会からもさまざまの期待を寄せられる存在、植民地支配への抵抗を具現する存在、エリートと民衆の接点を作る存在、地域の発展性を示す存在でもあった、と論じている。
ついで、今後の課題として、(1)教員についての分析を加えること、(2)前後の時期の高普・女高普との比較、(3)実業学校・師範学校など、他の中等教育機関の実態を明らかにすること、(4)日本及び他の植民地との比較、の4点を提示している。

3.本論の成果と問題点

本論文の第1の成果は、第二次朝鮮教育令施行期における高普・女高普の教育の実態について、学校の分布数、設立運動、入学競争率、カリキュラム、教科書、卒業後の進路、学生運動などの諸側面にわたって史料を博捜・整理し、法令や個別事例の分析にとどまらず、これまでは初等教育の検討が中心であった植民地期朝鮮教育史の研究状況の中で、中等教育について本格的な検討を加えた点である。
 第2の成果は、高普・女高普の設立運動を分析し、朝鮮人の地域有力者の果たした役割の大きさを描き出すとともに、教育史研究と地域政治史・社会史研究とを結びつけて考察することの有効性を示したことである。
 第3の成果は、学校ごとにカリキュラムに差異があることの指摘、総督府編纂教科書の内容上の特徴についての分析など、これまで具体的な考察がほとんど行われてこなかった高普・女高普の授業内容に関する分析を、前進させたことである。教科書の内容分析の徹底が必要であるが、先鞭を付けた意義は大きい。
 第4の成果は、第Ⅱ部の学生運動、とくに実力養成論に立った運動であるハングル普及運動について、新聞の関係記事の博捜に基づいて、本格的に研究し、この運動に果たした中等教育機関の生徒の大きな役割を具体的に解明したことである。これは、教育史研究だけでなく、植民地期朝鮮における文化運動史・社会運動史の研究の前進にも寄与する大きな成果であると言える。
 第5の成果は、朝鮮総督府学務局の文書、学校関係資料など従来使用されてこなかった史料を利用・分析したことに加えて、新聞・雑誌資料を丹念に収集・分析して、史実を着実に解明することによって、実証の水準を高めたことである。
本論文の問題点は、第1に、中等教育が、それ自体として「完成教育」であると同時に、高等教育への通過点とも位置づけられるという矛盾を抱えているものであることの把握が弱く、そのことが朝鮮人社会における高普・女高普の位置づけをやや不明瞭なものにしていることである。
 第2に、学校設立運動の検討において地域社会史・政治史と結びつけて考察することが試みられてはいるものの、学生運動や修身教育の推移の分析に当たっては、社会史・政治史研究との結合を強化する必要のあることである。
 しかし、以上の点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2015年2月12日

 2015年1月15日、学位論文提出者崔誠姫氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「第二次朝鮮教育令施行期(1922年~1938年)における中等教育―高等普通学校及び女子高等普通学校を中心に―」に基づき、審査委員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、崔誠姫氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は崔誠姫氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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