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博士論文審査要旨

論文題目:反証事例が潜在的ステレオタイプ・偏見に及ぼす影響
著者:埴田 健司 (HANITA, Kenji)
論文審査委員:村田 光二、稲葉 哲郎、安川 一、柘植 道子

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1. 本論文の構成
 本論文は、潜在的ステレオタイプ・偏見が反証事例によって変化する理由を「カテゴリー知識の部分的活性化」という概念を用いて理論的に説明し、多数の心理学実験を用いてその証拠を示したものである。著者によれば、社会的カテゴリーに関する知識は多面的・階層的で、ステレオタイプに一致する情報だけではなく、その中には不一致情報も含まれる。反証事例によって後者の不一致情報が活性化するほど、潜在的ステレオタイプが低減すると著者は予測した。人種的ステレオタイプ・偏見やジェンダーのステレオタイプ・偏見を題材にして、反証事例を呈示、想起、解釈する条件と統制条件を設定して実験を行い、潜在連合テストによってステレオタイプ・偏見が低減したかどうかを測定した。実験結果は題材や具体的な手続の差異に応じて異なることがあったが、おおむね予測に沿ったものであった。これらの結果をもとに考察を加え、提唱した理論的モデルの妥当性を議論し、研究の問題点と今後の検討課題を論じてまとめたものが本論文である。
本論文の各章の構成は以下の通りである。


第1部 問題
第1章 本論文の背景と目的
1-1.はじめに   1-2.本論文の視点  1-3.本論文の構成
第2章 潜在的ステレオタイプ・偏見の定義・測定方法と形成・変容過程
2-1.非意識的な情報処理過程への着目
2-2.潜在的ステレオタイプ・偏見の定義と測定方法
2-3.潜在的ステレオタイプ・偏見の形成と変容
第3章 カテゴリー知識の部分的活性化による潜在的ステレオタイプ・偏見の低減
3-1.カテゴリー表象の多面的・階層的モデル
3-2.表象の部分的活性化に関する実証研究
3-3.反証事例による潜在的ステレオタイプ・偏見の低減
第4章 実証研究の目的と概要
4-1.本論文の基本的な仮説
4-2.実証研究の概要
4-3.研究で用いる測定方法
第2部 実証的検討
第5章 研究1-1: 新奇の反偏見事例が潜在的偏見に及ぼす影響
-肥満者に対する偏見を用いた検討-
5-1.問題と目的  5-2.方法  5-3.結果  5-4.考察
第6章 研究1-2: 反偏見事例による潜在的偏見の低減に評価の顕現性が及ぼす影響
-黒人に対する偏見を用いた検討- 61
6-1.問題と目的  6-2.方法  6-3.結果  6-4.考察
第7章 研究2-1: 伝統的・非伝統的女性の事例想起が潜在的性役割観に及ぼす影響(1)
-女子大学生を対象とした検討-
7-1.問題と目的  7-2.方法  7-3.結果  7-4.考察
第8章 研究2-2: 伝統的・非伝統的女性の事例想起が潜在的性役割観に及ぼす影響(2)
-男女大学生を対象とした検討-
8-1.問題と目的  8-2.方法  8-3.結果  8-4.考察
第9章 研究3-1: 反ステレオタイプ事例の解釈が潜在的ステレオタイプに及ぼす影響(1)
9-1.問題と目的  9-2.方法  9-3.結果  9-4.考察
第10章 研究3-2: 反ステレオタイプ事例の解釈が潜在的ステレオタイプに及ぼす影響(2)
10-1.問題と目的  10-2.方法  10-3.結果  10-4.考察
第3部 総合考察
第11章 研究知見のまとめと解釈
11-1.本論文の目的と研究視点の振り返り
11-2.研究知見のまとめ
11-3.研究知見の全体考察
第12章 本論文の意義と今後の展望
12-1.本論文の意義と示唆
12-2.本論文の限界と今後の展望
12-3.結論


2. 本論文の概要
 第1部第1章「本論文の背景と目的」では、本論文の研究課題の背景となる問題意識が述べられる。近年の社会心理学研究では、広く知られている顕在的な社会的ステレオタイプだけでなく、潜在的なステレオタイプ・偏見も盛んに研究されるようになった。特に反証事例と接触することによってステレオタイプ・偏見が低減するかどうかを調べると、顕在的ステレオタイプ・偏見では必ずしも認められなかった現象だが、潜在的ステレオタイプ・偏見が低減する効果が繰り返し示された。しかし、なぜ低減するのかについては、必ずしも十分解明されていないことが指摘される。そのうえで、潜在的ステレオタイプ・偏見がどのように記憶内で表象されているのかその知識構造をモデル化し、その構造のある側面が部分的に活性化する場合に、ステレオタイプ・偏見の低減という現象が生じるのではないか、という基本的考えが提起される。
第2章「潜在的ステレオタイプ・偏見の定義・測定方法と形成・変容過程」では、まず、近年の社会心理学研究では非意識的(自動的)過程が重要視されてきたことが述べられる。ステレオタイプ利用においても、手がかりに基づいてそれが自動的に活性化したうえで、具体的なカテゴリー成員に適用される(ステレオタイプ化される)ことが説明される。次に、潜在的ステレオタイプは「社会的カテゴリーと認知的属性(特性)との連合である」と定義される。他方で、潜在的偏見は「社会的カテゴリーと(ポジティブ-ネガティブで示される)感情価との連合である」とされる。いずれも「潜在的」とは、本人が意識できず、それゆえ正確に自己報告できないことを意味する。ステレオタイプと偏見とではカテゴリーと連合する要素に違いはあるが、両者はその変容を連合の強さの変化として捉えることができ、同様のメカニズムを想定可能なので、この論文の中では両者を区別せずに扱うことが宣言される。さらに、潜在的なステレオタイプ・偏見の測定のためにいくつかの方法が開発されているが、もっともよく使われる潜在連合テスト(Implicit Association Test)を本論文では一貫して用いることも宣言される。そのうえで記憶研究で用いられてきた連合ネットワークモデルを紹介し、潜在的ステレオタイプ・偏見の形成と変容も、ネットワークのどの部分(側面)が活性化するのかによって説明可能であることが論じられる。
次の第3章「カテゴリー知識の部分的活性化による潜在的ステレオタイプ・偏見の低減」では、先の連合ネットワークモデルをさらに精緻にした、「カテゴリー表象の多面的・階層的モデル」が説明される。例えば「女性」というカテゴリーにも、抽象度の高い全体カテゴリーから、特定タイプの女性に区分される水準、そして具体的な事例(個々の人物)までの階層があるという。そして、各水準の各側面には異なる属性が結びつくことがあり、女性カテゴリーの中に例えば「あたたかい」という特性も、「冷たい」というそれと一見矛盾する特性も含まれることがあるという。この特徴を「多面的」と呼んでいる。連合ネットワークモデルの立場からは、ステレオタイプが自動的に活性化する場合でも、ネットワーク全体が活性化するというよりも、その一部分(特定の側面)が活性化すると考えられる。これまでの実験研究で、反証事例を呈示したときに潜在的ステレオタイプ・偏見が低減した理由は、通常のステレオタイプ的属性を含む側面ではなく、それに反する属性を含む側面が活性化するからだ、ということになる。そして、反証事例がステレオタイプ低減の効果を持つのは、外部から呈示された場合だけではなく、本人が記憶内から想起した場合でも同じだと著者は予測する。また、低減の効果が生じるかどうかは、呈示された事例をどう解釈するかにも依存すると論じる。以上の考察から、2つの基本仮説、「ステレオタイプや偏見に一致しない情報がカテゴリーに関する知識として表象されているほど、反証事例によって潜在的ステレオタイプ・偏見は低減しやすいだろう」、「カテゴリーに関する知識として表象されている反ステレオタイプ・反偏見的側面が反証事例によって活性化するほど、潜在的ステレオタイプ・偏見は低減するだろう」を導出した。
第4章「実証研究の目的と概要」では、基本仮説が繰り返され、第2部で詳述される4つの実証研究の概要が手短に説明される。そして、潜在連合テストの具体的手続きが説明される。潜在連合テストでは、2つのカテゴリー(A,B)と、一方のカテゴリーに概して一致する(X)あるいは一致しない(Y)特性とを用いて、カテゴリーと特性とのペア(一致のペア「AとX」「BとY」:不一致のペア「AとY」「BとX」)のいずれかを指定して、4つの要素を分類することを行わせる。このとき、一致のペアに分類するのにかかる時間よりも、不一致のペアにかかる時間の方が長くなる傾向を用いて、カテゴリーとステレオタイプ(あるいは偏見)との連合の強さを測定する検査課題である。一般にはコンピュータを用いて反応時間を測定するが、質問紙を用いて一定時間内にどのくらい分類課題を遂行できたかを測定することもある(これを「紙筆版潜在連合テスト」と呼ぶ)。
第2部「実証的検討」の第5章「研究1-1: 新奇の反偏見事例が潜在的偏見に及ぼす影響
-肥満者に対する偏見を用いた検討-」では、「肥満者は無能である」という偏見を題材にして、反証事例が潜在的偏見に及ぼす影響を実験した結果が報告される。写真と体重情報によって肥満者事例を複数呈示し、条件に応じて「有能プロフィール」「無能プロフィール」「中立的プロフィール」のいずれかを併せて実験参加者に示した。その後、「太った人-やせた人」「有能な-無能な」を要素として潜在連合テストを実施した。その結果、不一致ペア試行の反応時間から一致ペア試行の反応時間を引いた指標(D得点)に、条件間の差は認められなかった。これは従来の実験結果と異なるが、呈示した肥満者事例はいずれも無名の人であり、参加者の記憶内に存在していない可能性が高い。このため、反ステレオタイプ・反偏見の側面が活性化せず、従来の結果は再現されなかった。しかし、これは本研究の基本仮説から解釈可能な結果であると論じられた。
第6章「研究1-2: 反偏見事例による潜在的偏見の低減に評価の顕現性が及ぼす影響
-黒人に対する偏見を用いた検討-」では、日本人においてもネガティブに捉えられやすい黒人に対する偏見を題材に、著名人物を反証事例に呈示した実験が行われた。実験参加者は、黒人の著名人物(例;ウサイン・ボルト)とその人物の受賞歴などの肯定的評価情報を付加した評価顕現条件、黒人の著名人物とプロフィール情報だけを示された評価非顕現条件、各地の世界遺産(文化遺産、自然遺産)を示された統制条件のいずれかで、各事例を呈示されて知っているかどうかの回答を求められる知識テストを行った。そして、白人種と比較したときの黒人種に対する偏見を紙筆版潜在連合テストで測定した。潜在連合テストでは、一致ペア試行ブロックと不一致ペア試行ブロックの両者を調べてその差を指標とするが、どちらのブロックを先に測定するかによって結果が異なることがあり、参加者を2つの順序条件にもランダムに割り振った。その結果、不一致ブロックを先に実施した場合のみ、評価顕現条件で他の2つの条件と比べて黒人に対する偏見が低減していたことが認められた。このように、偏見の反証となる著名人物が高評価を含む情報と伴に繰り返し呈示されたときには、黒人に対する偏見も低減する場合があることが示された。
研究2では、研究1の実験のように反証事例が外部から呈示されるのではなく、記憶内から想起する場合の潜在的ステレオタイプ・偏見の低減にかかわる実験が行われた。ここでは、従来の性役割観に一致する「伝統的女性」(いわゆる「家庭の主婦」)とそれに一致しない「非伝統的女性」(いわゆる「キャリア女性」)が題材として扱われた。
まず、第7章「研究2-1: 伝統的・非伝統的女性の事例想起が潜在的性役割観に及ぼす影響(1)-女子大学生を対象とした検討-」では、女子大学生を実験参加者として、「『良き妻』、『良き母』というイメージがある女性有名人」あるいは「『キャリアウーマン』、『バリバリ働いている』というイメー人がある女性有名人」のいずれかを記憶の中から想起させた。その後、潜在的な性役割観(「男女」と「仕事・家庭にかかわる特徴」の潜在的連合の強さ)を紙筆版潜在連合テストで測定した。その結果、伝統的女性を想起した場合に比べて、非伝統的女性を想起した場合には、潜在的性役割観が平等主義的になった(従来の性役割観が低減した)ことが示された。これは基本仮説を支持する結果であると考えられる。
続く第8章「研究2-2: 伝統的・非伝統的女性の事例想起が潜在的性役割観に及ぼす影響(2)-男女大学生を対象とした検討-」では、参加者に男子学生も加えて同様の実験を再度行った。男性の方が女性よりも女性カテゴリーの知識構造の中に、女性の非伝統的側面が結びついている程度が少ないと考えられるので、研究2-1で得られた結果は女性ほどには認められないと予測された。実験の結果、研究2-1で得られた潜在的性役割観の低減効果はキャリア志向の低い女性に限って認められ、キャリア志向の高い女性や男性には認められなかった。この実験でキャリア志向の高い女性において潜在的性役割観の低減効果が認められなかったことについて、彼女たちは非伝統的な女性の情報についてのアクセシビリティが慢性的に高い(反証事例をいつも思い出しやすい状態にある)ので、一時的な事例想起の効果がむしろ弱かったのではないかと考察されている。
研究3では、女性に関する題材が引き続き扱われ、外部から呈示された反証事例を解釈する方法の効果が検討された。反証事例の解釈には、例えば「あの女性は家庭的でない」といったように、ステレオタイプを否定する方法があるが、これはステレオタイプと関連づけて解釈している方法だと述べる。この場合にはステレオタイプを参照してしまい、ステレオタイプに一致する側面の活性化を促してしまうと論じる。他方で、「あの女性は仕事ができる」と解釈する方法もあり、こちらはステレオタイプと直接には関連づけられておらず、不一致の側面だけが活性化しやすいという。そのため、後者のようにステレオタイプに関連づけないで反証事例を解釈した方が、潜在的ステレオタイプ・偏見の低減効果が大きいだろうと予測できる。
そこで第9章「研究3-1: 反ステレオタイプ事例の解釈が潜在的ステレオタイプに及ぼす影響(1)」では、「男・女」の写真を「強さ・弱さ」を示す特性語とペアにして呈示して、「男性-弱い」および「女性-強い」というステレオタイプに反する事例を探してもらう課題を実施した。その際に、関連づけ条件では「『男は強い』および『女は弱い』というステレオタイプに当てはまらない人物」を探すように求め、関連づけなし条件では「『弱い男性』および『強い女性』に当てはまる人物」を探すように求めた。加えて、「イヌ」か「ネコ」の写真を「強さ・弱さ」特性語とペアにして示す統制条件も設定した。その後、「男・女」と「強さ・弱さ」に関する紙筆版潜在連合テストを実施したが、残念ながら条件間には差がみられず、仮説は支持されなかった。
そこで、手続き上の問題を改善するために、コンピュータによる潜在連合テストを用いた同じデザインの実験を実施して、第10章「研究3-2: 反ステレオタイプ事例の解釈が潜在的ステレオタイプに及ぼす影響(2)」で報告している。この実験では、反ステレオタイプ事例を既存のステレオタイプに関連づけて解釈した条件では、統制条件との間に潜在的ステレオタイプの程度に差がみられなかったが、関連づけなし条件では他の2条件と比べてステレオタイプが低減したという仮説とおりの結果が得られた。
 以上の実験研究の成果を受けて、第3部で総合考察を行っている。11章「研究知見のまとめと解釈」では、まず、反証事例によって潜在的ステレオタイプ・偏見が弱まるという現象が、ステレオタイプに不一致な事例や側面が活性化することによって生じるという本論文の基本的視点が再度述べられる。ステレオタイプ・偏見は社会的カテゴリーに関する多面的で階層的な知識構造で、そのどの部分が活性化するかに応じて、それが維持されるのか低減されるのかが決まることも再び論じられる。不一致な事例や側面がそもそも知識構造内に無ければ、反証事例を呈示してもステレオタイプは低減しないし、ステレオタイプに一致する側面も併せて活性化してしまう場合にもステレオタイプ・偏見は低減しないだろう。そして、この議論のもと実施した一連の実験結果が一覧され、そこで得られた研究知見が手短に要約される。これら結果は必ずしも仮説を支持しなかった場合があるが、おおむね基本仮説に沿ったもので、ステレオタイプ・偏見に不一致な側面が部分的に活性化したことを示していると論じられる。著者の議論によれば、反証事例が呈示、想起、解釈されたときに、既存のカテゴリー知識内に反証的側面があって、その側面だけが活性化する場合に、潜在的ステレオタイプ・偏見が低減するのだという。
 第12章「本論文の意義と今後の展望」では、本論文で得られた知見を現実場面でのステレオタイプ・偏見の低減に生かすことを考えると、人々によく知られている反ステレオタイプ的事例を、その事例の評価も含めて呈示することが有効だと提案する。また、研究2で示した記憶からの想起や、研究3で示した認知的解釈のような意識的な認知的処理過程が、非意識的である潜在的ステレオタイプ・偏見に影響を及ぼす条件を示したことが独自の貢献として挙げられるという。他方で、本論文の限界と問題点として、社会的カテゴリーの多面的、階層的モデルを提案しているが、それがどのように形成され、維持されるのか議論されていないし、実証的な証拠も乏しいことを指摘する。また、部分的活性化によるステレオタイプ・偏見の低減を示しているが、これは知識構造そのものの変化ではないので、長期的な効果が望めるのかどうか不明確である点も問題として挙げている。本論文で示した変化は状況依存的な表面的な変化であり、より深層部分の知識構造の変化に通じるかどうかを検討することが、今後の重要な研究課題であることを指摘して本論文を結んでいる。


3.本論文の成果と問題点
 本論文はこれまで明確な説明がなかった、反証事例と接触することによって潜在的ステレオタイプ・偏見が低減する現象に対して、社会的カテゴリー知識の部分的活性化という基本的考えのもと、仮説を立てて実験を実施し、支持する証拠を得てまとめたものである。本論文の成果として少なくとも次の3点を指摘できる。
まず、反証事例が潜在的ステレオタイプ・偏見を低減する効果について、著者独自の新しい説明を与えたことが最大の貢献である。この説明の妥当性、信頼性については、今後まだ検討が必要であるが、オリジナルな説明のもと複数の実験的証拠を提示できたことを成果として指摘できるだろう。
次に、反証事例の呈示によって潜在的ステレオタイプ・偏見が低減する効果を、日本においても実証できた点も成果として挙げられるだろう。欧米の研究で結果が再現されてきた知見でも、社会心理現象が日本で追試できるとは必ずしも限らない。社会的ステレオタイプは単に個人が抱える知識というだけでなく、特定の社会で共有された知識という側面があるので、他の社会・文化で認められた実験結果が日本社会でも認められるわけではなかった。これに対して、著者は材料や手続きを周到に準備することによって、おそらく人類に共通したステレオタイプ・偏見の低減効果の証拠を示すことができたと考えられる。この点はこの領域の後続する社会心理学研究者たちにとって価値ある研究成果だっただろう。
3点目として、潜在的連合テストの紙筆版の使用可能領域を開拓したことを指摘できる。紙筆版のテストにはいくつかの問題点があって、本論文でも9章の実験でこの方法の問題点を発見して、10章ではコンピュータを用いた通常の潜在連合テストを実施して仮説通りの結果を得ている。この点では問題をはらんだ測定方法だと言える。しかし、パソコン設備の無いところでも多人数を同時に測定できるので、コスト・パフォーマンスに優れた点がある。この方法がある範囲まで適用できることを、限界となる問題点と共に提示したことも成果として指摘できるだろう。
最後に、「カテゴリー表層の多面的・階層的モデル」という独自の理論モデルを作り上げて、理論的考察を行ったうえで、実証研究を実施している点を成果として指摘できる。これは、科学的研究では当たり前のこととも言えるが、多くの若手研究者が主として外国の著名な理論モデルに依拠して研究仮説を提出するのに対して、自分のモデルを提示したうえで実証研究を推進している点を評価できるだろう。
以上のような成果を得ているものの、本論文にもいくつかの問題点や限界があるだろう。まず、著者自身も指摘しているとおり、本研究で得られたステレオタイプ・偏見の低減が、長期的な効果かどうかには疑問がある。活性化パターンが社会的状況によって変化しているだけで、社会的カテゴリーについての知識構造そのものには変化がないとも考えられる。これに関連して、活性化パターンの一時的変化が累積することを通じて、知識構造の長期的変化がありうるとしたら、それはどんなメカニズムによるのか探求することが、今後の研究課題になるだろう。また、本研究では意識的な認知処理が非意識的な過程に影響を及ぼしたことを示していると論じているが、意識的過程と非意識的過程との間にどういった影響関係があるのか、説明がほとんどない。潜在的(非意識的)ステレオタイプ・偏見の変化が意識的なステレオタイプ・偏見の変化にどう影響するのか、という逆方向の関係についても考察が乏しい。現実場面でのステレオタイプ・偏見の低減を求めるのであれば、意識的な過程との関連についても研究する必要があるだろう。さらに、実験で題材として用いたステレオタイプ・偏見の選択が恣意的に感じられ、なぜそれを題材とするのが適切なのか、必ずしも説得的には伝わってこない。さらに指摘すると、「ステレオタイプに不一致な側面の部分的活性化」は、従来の研究では「サブタイプ化」と呼ばれてきた概念と近い。この両者の異同について探求することも、今後の課題であるだろう。
とはいえ、これらの問題点は著者自身もよく自覚し、今後の研究の積み重ねによって解決されることが期待されるものである。ここで指摘したような検討課題が残ったとしても、本論文の学術的価値はいささかも揺るがないと考えられる。


4.結論
審査員一同は、上記のような評価に基づき、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと判定する。

最終試験の結果の要旨

2015年2月12日

2015年1月9日、学位請求論文提出者 埴田健司 氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、提出論文「反証事例が潜在的ステレオタイプ・偏見に及ぼす影響」についての審査委員の質疑に対し、埴田健司 氏はいずれも充分な説明をもって答えた。
 よって審査委員一同は、埴田健司氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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