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博士論文審査要旨

論文題目:朝鮮における婚姻の「慣習」と植民地支配―1908年から1923年までを中心に―
著者:野木 香里 (NOGI, kaori)
論文審査委員:糟谷 憲一、石居 人也、佐藤 仁史、吉田 裕

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1.本論文の構成

 「韓国併合」後、朝鮮総督府は「朝鮮民事令」を制定し(1912年4月施行)、朝鮮に日本の民法・商法など23の民事法を適用した(第1条)が、その能力、親族及び相続に関する規定は朝鮮人には適用せず、「慣習」によるとした(第11条)。1921年と1923年には民事令を一部改正し、民法適用の範囲を拡大した。植民地権力が、朝鮮の「慣習」をどのように把握し、法的効力を与えたのか、また、どういう理由で「慣習」に依る範囲を縮小したのか、について検討することは、植民地支配の形態とそのイデオロギーを考察する上において重要な研究課題である。本論文は、1908年に韓国政府の下に設置された法典調査局以来の「慣習」調査の実施過程、韓国政府の民法起案の方針から朝鮮総督府下での朝鮮民事令制定、及び同令第11条改正の過程について詳細に検討した上で、婚姻に関する「慣習」に関して、その多様な様態に着目し、植民地主義、地域、階層、ジェンダーなどの複合的な視点に立って、植民地権力の政策とその意図、日本人官僚の認識、朝鮮人の反応・行動などのさまざまな思惑と動きを、具体的に考察したものである。本文・参考文献目録を併せて、400字詰原稿用紙換算にして約1200枚に及ぶ大作である。
 その構成は次のとおりである。
序章
第1節 研究史の整理
  第2節 課題の設定と研究の方法
  第3節 論文の構成
 第Ⅰ部 「慣習」調査の実施過程と朝鮮民事令第11条の規定
 第1章 法典調査局における実地調査の実施過程と民法起案の方針
はじめに
  第1節 法典調査局の設置と改編
  第2節 各地における実地調査の実施過程―一般調査を中心に―
  第3節 梅謙次郎が認識した「善良なる慣習」
  おわりに
 第2章 「慣習」調査の継続と朝鮮民事令第11条の制定・改正過程
  はじめに
  第1節 取調局の設置と活動
  第2節 朝鮮民事令の制定過程
  第3節 参事官室と中枢院における「慣習」調査の実施過程
  第4節 朝鮮民事令第11条の改正過程―1921年と1923年の改正について―
  おわりに
 第Ⅱ部 婚姻の「慣習」と植民地主義、地域、階層、ジェンダー
 第3章 婚姻年齢に関する「慣習」
  はじめに
  第1節 「早婚打破」に関する議論と詔勅の発布
  第2節 日本人官僚が記録した婚姻年齢に関する「慣習」
  第3節 婚姻に関する「風説」と警察による婚姻年齢の統制
  第4節 朝鮮総督府による婚姻年齢の把握
  第5節 日本民法の「模倣」
  おわりに
 第4章 婚姻の「成立時点」と「決定者」に関する「慣習」
  はじめに
  第1節 朝鮮における婚姻の「成立」
  第2節 「慣習」とされた婚姻の「成立」と植民地主義
  第3節 「新調査報告書」から見た婚姻の「成立」
  第4節 法的効力が付与された婚姻の「成立」に関する「慣習」
  おわりに
 第5章 「妻の能力」と「夫の権利」に関する「慣習」
  はじめに
  第1節 調査報告書から見た「妻の能力」と「夫の権利」
  第2節 日本人事務官の「妻の能力」と「夫の権利」に関する認識
  第3節 「妻の能力」に関する法院の判断と日本民法の適用
  おわりに
 第6章 「離婚」に関する「慣習」
  はじめに
  第1節 調査報告書における「離婚」
  第2節 「離婚」と植民地権力の把握
  第3節 朝鮮人女性の「離婚」と植民地主義
  第4節 朝鮮民事令第11条の改正―「濫雑ナル離婚ノ請求ヲ絶止スル」―
  おわりに
 終章 
参考文献

2.本論文の概要

 序章の第1節では、植民地期朝鮮の「慣習」に関する先行研究の整理を、次のようにおこなっている。1960年代以降、韓国の法史学界を中心に研究が進められてきたが、朝鮮の「慣習」が1898年施行の日本民法と同じ規定に「歪曲」され、さらに日本民法が移植されることによって「同化」されていったという側面が着目されてきた。1990年代以降の研究では、(1)朝鮮総督府は朝鮮の「慣習」の「自生的な変化」を「法認した」とする見解、(2)植民地権力が朝鮮の「慣習」を「誘導」し、「植民地慣習法を形成」したとする見解、(3)日本人官僚・学者は「歪曲」よりも深刻な「慣習の再創出」・「生産」をしたとする見解が提示された。これらの研究によって、植民地慣習法の定立過程がより具体的に把握されるようになったが、法典調査局による「慣習」調査の実施過程、朝鮮民事令第11条の制定・改正過程、政策主体の多様性などについて、より具体的に明らかにし、「慣習」の多様な面に着目する必要がある、などの問題点がある。
 第2節では、本論文の課題が、「慣習」調査の実施過程、朝鮮民事令第11条の制定・改正過程の詳細な検討と「婚姻」(細かくは婚姻年齢、婚姻の「成立」、「妻の能力」、「離婚」)に関する「慣習」について複合的な視点からの分析であることを、述べている。また、本論文において使用する史料について説明し、とくに「慣習」調査の実施過程において作成された史料を丹念に検討したことを述べている。
 第3節では、本論文の構成について、「慣習」調査の実施過程と朝鮮民事令第11条の制定・改正過程を扱った第Ⅰ部(第1、第2章)、婚姻に関する「慣習」を扱った第Ⅱ部(第3~6章)及び序章・終章で構成されることを、説明している。
 第1章では、1908年から1910年までの「慣習」調査の実施過程と、民法起案の方針を検討している(以下、各章に「はじめに」「おわりに」が付いているが、基本的には各章で検討する論点の提示と「まとめ」であるので、ここでは紹介を略する)。
 第1節では、まず、1906年3月に初代統監として着任した伊藤博文の下で、日本人専門家を招聘しての法典編纂の方針が韓国政府に押しつけられ、1906年7月に不動産法調査会が設置されたことを経て、第3次日韓協約調印後の1908年1月に、民法・刑法などの起案を目的として、韓国政府に法典調査局が設置された経緯を跡づけ、ついで法典調査局の職員の構成、とくに事務官・事務官補(日本人)、翻訳官・翻訳官補(朝鮮人)の経歴について詳しく検討している。
 第2節では、1908年5月から、法典調査局の「慣習」調査の最重要な柱として開始された各地における実地調査の実施過程を、詳細に明らかにしている。まず、法典調査局の顧問となった民法学者の梅謙次郎が、調査項目を決定し、『慣習調査問題』と題する小冊子を作成したこと、その調査項目206問は日本の民法・商法の条項に対応したものであったことが指摘される。とくに、本論文の対象とする「親族」に対する質問事項については、日本民法の親族編にほぼ一致していたことが両者の比較対照表で明瞭に示されている。この調査項目についての検討を通して、法典調査局は日本民法の条項に沿って朝鮮の「慣習」を把握しようとしていたと考えられるとするとともに、日本の民法よりも戸主が強い権力を有しているという前提に立っていたと指摘している。
 次に、実地調査のうち、「一般調査」(206の質問項目全てに関する調査)の対象地域48ヵ所の特徴について、府郡面の戸数・人口・職業別戸数を調査した内部警務局の『民籍統計表』を参照して検討し、対象地となったのは朝鮮王朝時代以来の地方行政中心地(道庁に当たる観察府の所在地など)、人口の多い地域、開港場・開市場、「官公吏」「両班」「儒生」の戸数の比較的多い地域などが多かったことを、指摘している。
 第三に、一般調査の対象地域のうち、調査報告書の現存が確認できる6つの地域について、その報告書に基づいて、一般調査の具体的な様相を明らかにしている。それによって、(1)調査は、応答者を官庁に呼び出し、日本人事務官補が朝鮮人翻訳官補の通訳を介して、『慣習調査問題』に則って面接調査を実施し、報告を作成したこと、(2)各調査地における調査期間は約1ヵ月間であったが、事務官補は調査の日程が不十分だと自認していたこと、(3)応答者は地域行政関係者、官職経験者、郷所や郷約の役員などの地域有力者が多く選定されていたこと、(4)提出された報告書を整理し、梅謙次郎の下に進達するのは事務官小田幹治郎の役割であったこと、などを明らかにしている。
第3節では、1909年に韓国の司法事務が日本に委託されて以降も、梅謙次郎は日本法を模範として民法の編纂を進める方針を変更しなかったが、「或少数の富有の地方」の「慣習」の中に、法典に採用できないわけではない「善良なる慣習」があると認識していたことを、述べている。
 第2章では、「韓国併合」後にも朝鮮総督府の機関による「慣習」調査が継続されるとともに、それと並行して、朝鮮民事令の制定、改正の作業がおこなわれたことを考察している。
第1節では、第3代統監寺内正毅が法典調査局の活動を中止させたが、1910年10月には朝鮮総督府取調局を設置し、「旧慣及制度調査」をおこなったこと、小田幹治郎を中心にして法典調査局の「慣習」調査報告書を整理・編纂した『慣習調査報告書』(1910年12月)が刊行されたこと、などを明らかにしている。
 第2節では、朝鮮総督府設置後における朝鮮民事令の制定過程を跡づけている。また、民事令第10条において朝鮮人相互間の法律行為については「公ノ秩序」に関する規定に反しない限り「慣習」によるとされたのに対して、第11条では朝鮮人の「能力、親族及相続」に関しては、すべて「朝鮮ノ慣習ニ依ル」とされたが、重要な点は「公ノ秩序」に反すると判断するのも、「慣習」を定めるのも植民地権力であったことであると、筆者は論じている。
 第3節では、1912~1920年における「慣習」調査の実施過程を、次のように跡づけている。(1)1912年4月に取調局が廃止され、参事官室に旧慣及び制度の調査に関する事務が移され、1912~14年度には参事官室が「慣習」調査をおこなった。(2)1915年4月に参事官室は廃止され、「旧慣及制度」の調査に関する事務は朝鮮総督府中枢院に移され、1915~19年度には中枢院が「慣習」調査をおこなった。(3)参事官室・中枢院の「慣習」調査で作成された史料が多数存在しており、これらの膨大な史料を総括的に分析する作業が今後の大きな課題である。
 第4節では、1921年と23年の朝鮮民事令の改正過程を、次のように跡づけている。(1)朝鮮総督府はすでに1915年11月に、能力に関しては日本民法を適用し、朝鮮人のみを対象とする親族法・相続法・戸籍法を制定する構想を立てていた。(2)1918年前後から親族法などの立案作業が本格化したが、1920年中にはその一部を改正する方針へと変更された。(3)1921年1月に総督府は「朝鮮人の慣習上婚姻の成立要件を成文法化した」成案をまとめたが、日本政府の法制局との交渉の結果、成文化の範囲を縮小し、慣習法を残存させる形で実施することになった。法制局で「慣習」を成文化して固定することに対して反対意見があったためである。(4)この方針変更に沿って、朝鮮人の能力について日本民法を適用する改正を実施することとなり、1921年5月に中枢院会議に付議した上で、朝鮮民事令第11条の第一次改正が1921年11月に公布され、12月に施行された。(5)総督府は「能力」以外の部分的改正について1921年8月以降、審議し、婚姻年齢と裁判上の離婚、認知については日本民法を適用し、分家、絶家再興、婚姻、協議上の離婚に関しては届出主義をとることとする、民事令第11条の第二次改正が1922年12月に公布され、1923年7月に施行された。
 第3章では、婚姻年齢の「慣習」について考察している。
 第1節では、19世紀末の甲午改革期から1900年代後半の愛国啓蒙運動期における、「早婚」を打破しようとした動きを跡づけ、甲午改革で1894年に許婚年齢が男20歳以上、女16歳以上と定められたこと、愛国啓蒙運動においては国勢回復のために「早婚打破」の必要が唱えられたことに言及している。他方、統監の伊藤博文の主張に従って、1907年8月の純宗皇帝の発した詔勅で、許婚年齢を男17歳以上、女15歳以上としたが、それは日本民法の規定と同一のものであったことを指摘している。
第2節では、梅謙次郎が朝鮮における「早婚ノ弊」が甚だしいと強調したにもかかわらず、法典調査局の「慣習」調査において作成された各地の報告書では、婚姻年齢が一定していなかったこと、やや早く婚姻を行うのが「財産アル家」においてであること、地域によって多様であったこと、定型化された男女の年齢差があったわけではないことを、指摘している。その上で、1910年12月刊行の『慣習調査報告書』では、早婚が古来の弊習であり、女子12~13歳、男子10歳前後で婚姻する事例が稀でなく、女は男より2~3歳ないし4~5歳年長であるのが常であるとまとめていることを挙げ、これは調査記録された「慣習」の中から「早婚」に関してのみ抜き取ったものであると指摘している。
 第3節では、まず、1910年8月の「韓国併合」直後に、朝鮮人女子は日本人の妻として強制的に婚姻させられるという「風説」が流れて「早婚」が促されたことを指摘している。ついで、1910年代に民籍簿(戸籍)の管理をしていた警察が、1907年8月の詔勅で定めた年齢以下の者の婚姻申告は受理しないとして、統制を図っていたことを指摘している。
 第4節では、『朝鮮総督府統計年報』や朝鮮総督府中枢院編『婚姻年齢調査表』などの統計資料に基づいて、1910年代~1923年における年齢別婚姻数の推移を検討し、「早婚」はごく一部でおこなわれたことであり、男子17歳未満、女子15歳未満の婚姻も1910年代には地域によって大きな差異が見られること、30歳以上の婚姻が一貫して存在すること、などを挙げて、「早婚」の弊が甚だしいとする日本人官僚の認識は妥当ではないことを論じている。
 第5節では、「早婚一掃」のための統制が常に行われていたことを考えれば、婚姻年齢に関しては早くから日本民法の規定が事実上適用されていたことを指摘するとともに、1923年の民事令第11条改正の後も、規定年齢未満の婚姻が存在し続けたことを、『朝鮮総督府統計年報』に基づいて示している。
 第4章では、婚姻の「成立時点」と「決定者」(双方を合わせて「成立」と表記している)に関する「慣習」を考察している。
第1節では、朝鮮王朝時代における婚姻の「成立」について検討している。まず、近年の研究に基づいて、朝鮮王朝時代には『朱子家礼』に基づく婚礼が理想型とされて奨励されたが、その核心とされた「親迎」(新婦が新郎の家に入り、暮らすようになること)は完全には普及せず、婚姻儀礼は多様であったことを指摘している。ついで、法典調査局の実施した各地の調査報告において、婚姻の「成立時点」と「決定者」についてどのように記されているかを検討している。それによって、(1)「成立時点」については、「届出」の有無は関係なく、多様な「慣習」がおこなわれていたこと、(2)「決定者」に関しては「父母ノ同意」が必要という回答がほとんどであったが、当事者の「合意」を求めたり、本人の意思に基づく婚姻があった事例もしばしば記されていたことを、指摘している。・
 第2節では、1910年12月の『慣習調査報告書』は、「成立時点」については新郎新婦が杯を交わす儀式の終わった時点であり、「決定者」に関しては父、祖父などの順に記された「主婚者」であって、本人の意思は成立要件ではないと記して、各地の多様な「慣習」を無視したことを、明らかにしている。
 第3節では、1910年代に取調局・参事官室・中枢院が実施した「慣習」調査の報告書(「新調査報告書」と称された)の抜粋が朝鮮総督府中枢院『婚姻ニ関スル事項』(1917年)に記されていることに着目して、抜粋を検討し、「成立時点」については多様な形態が記されていたことを、明らかにしている。
 第4節では、1922年11月公布の朝鮮民事令第11条改正において、届出主義が採られた反面、婚姻の「成立」自体については民法の規定が適用されなかった意味を検討して、次のように論じている。(1)届出主義の採用は、戸籍を明確にするために「申告」の徹底を図ったものであるが、朝鮮人の実生活においては1930年代においても届出によって婚姻が成立するということにはならなかった。(2)日本民法第772条では、男は満30歳、女は満25歳になれば、婚姻に父母の同意を必要としなくなると規定していたが、朝鮮人にはこの規定が適用されず、年齢に関係なく「父母の同意」が必要となったことを意味した。
 第5章では、「妻の能力」とその対とされた「夫の権利」に関する「慣習」を考察している。
第1節では、法典調査局が各地で実施した「慣習」調査の報告書に、「妻の能力」「夫の権利」がどのように記されているかを検討して、次の点を明らかにしている。(1)妻は何事をなすにも夫の許可が必要であると記録されていた地域が多いが、夫の許可が必要ではない場合、夫の許可無く行為をなす場合も記録されていた。(2)夫はほとんど絶対的な権利を有すると記載されていた。
 第2節では、1910年12月の『慣習調査報告書』には、妻は夫に対して絶対的に服従すべきものであり、妻に対する夫の権力は頗る強大であり、妻の行為能力は極端に制限されているとまとめられていることを、明らかにしている。これは、各地の調査において、上流社会の男性が答えた理想型(夫に対して絶対的に服従する妻、権力の頗る強大な夫)をステレオタイプ化して捉えたものであると、筆者は指摘している。
 第3節では、朝鮮高等法院の判決には妻の能力を認めたものが見られることを指摘するとともに、1921年11月の朝鮮民事令第11条改正によって「妻の能力」に日本民法の規定が適用されることについて、総督府官僚が朝鮮人「女子の人格の向上」を認めることになると説明したことは、畢竟、朝鮮人社会における「夫に絶対的に服従する妻」というステレオタイプ化した「慣習」認識を前提にしたものであった旨を、論じている。
 第6章では、離婚に関する「慣習」を考察している。
第1節では、法典調査局が実施した実地調査において、離婚に関する「慣習」がどのように記録されたのか、また、1910年12月の『慣習調査報告書』ではどのようにまとめられたのか、を検討して、次の点を明らかにしている。(1)実地調査における各地からの報告書には、「慣習」の地域的多様性、階層性が見出され、妻の同意を必要とする協議離婚も記録されていた。(2)『慣習調査報告書』では、夫は父母または戸主の同意によって離婚を強制することができ、夫に非行があっても妻は離婚を求めることはできないとして、各地からの報告書にあった多様な事例を切り捨てた。(3)1910年代の「新調査報告書」の抜粋(第5章第3節にて言及)には、多様な「慣習」が記録されていた。
 第2節では、1910年代に植民地権力は離婚訴訟をどのように把握していたのかを、日本人官僚の発言、朝鮮総督府による離婚訴訟関係統計、高等法院判決録によって検討して、次のように指摘している。(1)植民地権力は、「併合」後、権利思想が発達し、古来より離婚を請求できなかった妻も、人格を認められて訴訟を提起できるようになったとして植民地支配を正当化する反面、妻からの離婚訴訟の増加を「乱訴」とみなして憂慮した。(2)1908~1916年の9年間に成立した離婚件数のうち、99%は『慣習調査報告書』が存在を否認した「協議離婚」であったが、「協議離婚」の申告の際には、父の父母の同意が必要とされ、それがない場合には出訴が必要とされたため、離婚訴訟を起こさざるを得ない仕組みが作られていた。(3)上記の9年間における離婚訴訟の受理件数においては、妻からの提起が夫からの提起よりも9倍多く、訴訟を提起する朝鮮人女性の行動は、妻からの離婚を認められないとしていた植民地権力の認識、判断を揺るがすものであった。
 第3節では、植民地権力が朝鮮人女性をめぐる言説に離婚の「慣習」をどのように利用したのか、また朝鮮人女性にとって「離婚」とはどのようなものであったかを検討し、次のように論じている。(1)植民地権力は、「離婚」の慣習を妻からは絶対にできないものであり、朝鮮人女性は夫権の下に抑圧された存在であると定型化していたが、さらにそれを「姦通の結果夫を殺す」という「犯罪」と結びつけていた。(2)離婚訴訟という選択は、圧倒的多数の女性にとってはたやすいものではなく、自殺、「逃走」など別の方法によりながら離婚の意思を示していたのであり、植民地支配は、何重もの抑圧を内側に、自らに向けざるを得ない状況に、朝鮮人女性を追いやるものであった。
 第4節では、1923年7月施行の朝鮮民事令第11条の改正において、裁判上の離婚については日本民法を適用し、協議上の離婚については届出主義をとったことの意味について考察し、次のように論じている。(1)協議上の離婚については、「慣習」として是認した上で、届出主義のみをとったのは、年齢に制限無く父母の同意を必要とさせるためであった。(2)裁判上の離婚に関しては、「婦人の地位の向上」が見られたとして日本民法の適用を認めたが、それは「夫殺しなどの犯罪」を減少させ、乱訴を防止する効果をもたらすためであった。
 終章では、第1~6章で得られた成果をまとめるとともに、今後の課題として、(1)「慣習」の多様性を徹底して掘り下げること、(2)「慣習」調査の過程で作成された膨大な報告書をはじめ、より多様な史料を収集し、分析すること、(3)本論文では対象時期を限定したが、より巨視的長期的視野で検討すること、を挙げている。

3.本論文の成果と問題点

本論文の第1の成果は、20世紀前半における朝鮮の婚姻に関する「慣習」調査の実施過程を克明に分析して、各地における「慣習」の多様性が記録されていたにもかかわらず、植民地権力によって多様な現実が切り捨てられ、ステレオタイプ化された認識が固められた経緯を浮彫りにすることに成功していることである。
 第2の成果は、1921年と1923年の朝鮮民事令第11条の改正過程を具体的に検討し、植民地権力があるときには「慣習」の尊重を表明しつつ、あるときには「人文の発達」「社会事情の変遷」を理由として日本民法の適用範囲を拡大するという対応をとり、「慣習」を定め、操作して、植民地支配の維持と正当化を図ったありさまを、明らかにしていることである。
 第3の成果は、第Ⅱ部の4つの章において、婚姻に関する「慣習」を、婚姻年齢、婚姻の「成立時点」と「決定者」、「妻の能力」と「夫の権利」、離婚の4点に区分して、詳細に検討し、「早婚」の実態、妻の行為能力と地位、離婚の実態などにわたって、新しい知見を示していることである。
 第4の成果は、第6章において離婚の動向を扱ったところに典型的に示されるように、植民地期の朝鮮人女性の能動性とそれが植民地支配を部分的にせよ揺るがす姿を描き出すのに成功していることである。
 第5の成果は、「慣習」調査に関する多様な史料を中心に広く史料を収集し、新聞雑誌、統計資料などを含めて現状で利用可能な史料を丹念に検討し、実証の水準を高めていることである。
本論文の問題点は、第1に、法典調査局の「慣習」調査の時期に先立つ朝鮮王朝末期の時点において、朝鮮の婚姻や家族の実態がどうであったかを、朝鮮人自身が作成した史料に基づいて、より具体的に明らかにする課題が残されていることである。
 第2に、朝鮮民事令改正過程において、朝鮮総督府の司法官僚の内部対立、総督府と日本政府の法制局との対立が、具体的にどのように展開したのかという問題を、その背景を含めてさらに究明する必要性があることである。
 しかし、以上の点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2015年2月12日

 2015年1月13日、学位論文提出者野木香里氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「朝鮮における婚姻の「慣習」と植民地支配―1908年から1923年までを中心に―」に基づき、審査委員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、野木香里氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は野木香里氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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