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博士論文審査要旨
論文題目:日本のジェンダー平等政策と国際労働基準―間接差別禁止をめざす女性NGO活動を事例として―
著者:上田 裕子 (UEDA, Hiroko)
論文審査委員:林 大樹、佐藤 文香、関 啓子、福田 泰雄
1. 本論文の構成
本論文は、日本経済のグローバル化が進行するなかで、雇用におけるジェンダー平等の実現をめざし、わが国における国際労働基準の確立をもとめて実践活動をしている女性NGOの実践活動を取り上げ、その活動が国内法整備と女性政策の形成過程に与えたインパクトを明らかにするとともに、女性NGO活動の限界をも考察したものである。
本論文は3つの研究目標を立てて具体的な検証と考察を行っている。すなわち、第1に、男女差別が不可視化されている日本の実態を顕在化させること。第2に、国際機関からの間接差別是正にかかわる勧告に対する日本政府の対応を分析し、政策形成過程を検討すること。第3に、女性NGOの国内活動としての裁判、海外活動としての国際機関へのアプローチを通して女性NGOの実践活動の戦略と成果を検証することである。
本論文の各章の構成は以下の通りである。
序章 問題の所在と本研究の課題
1 はじめに
2 本研究の課題と分析視角
3 先行研究
4 分析対象と資料
5 本研究の構成
第1章 グローバル経済下での日本の女性労働と賃金格差
第1節 女性労働者の低賃金の要因
第2節 総合商社における女性労働
第3節 小括
第2章 国際労働基準と女性NGOの視点――間接差別概念とその適用
第1節 間接差別概念の誕生から間接差別法理の確立まで
第2節 間接差別禁止をめぐる政策形成過程
第3節 小括
第3章 商社女性労働者による男女賃金差別裁判
――間接差別法理と同一価値労働同一賃金原則――
第1節 兼松賃金差別裁判の概要
第2節 東京高等裁判所判決
第3節 東京高裁・判決文の判定要素による分析・検討
第4節 兼松賃金差別裁判・東京高裁判決の意味するもの
第5節 小括
第4章 間接差別の可視化と同一価値労働同一賃金原則
第1節 国際労働基準としての同一価値労働同一賃金原則
第2節 日本における同一価値労働同一賃金原則をめぐる論争
第3節 同一価値労働同一賃金原則をめぐる国内の動向
第4節 職務分析・職務評価の課題
第5節 同一価値労働同一賃金原則の実践上の課題
第6節 小括
第5章 女性NGOのアドボカシー活動における国際労働基準
――その意義と戦略――
第1節 国際機関とアドボカシー活動
第2節 女性NGO活動の海外戦略とブーメラン効果
第3節 小括
終章 まとめにかえて――研究と運動の課題――
巻末資料
参考文献
2. 本論文の概要
序章では、本研究の目的が、わが国の女性労働者の賃金差別の実態に内在する差別の構造を「間接差別」概念によって顕在化させ、日本におけるジェンダー平等政策の実現を前進させることであることが述べられる。なお、間接差別とは、本来は性差別だけではなく、障害者差別や人種差別などの差別も含むが、本研究では間接性差別に対象を絞り「間接差別」とし、2004年の厚生労働省男女雇用機会均等政策研究会「報告」における間接差別についての定義、すなわち、「一般的に、間接差別とは外見上は性中立的な規定、基準、慣行等が、他の性の構成員と比較して、一方の性の構成員に相当程度の不利益を与え、しかもその基準等が職務と関連性がない等、合理性・正当性が認められないものを指す」という定義を採用することが述べられる。
本研究の課題は大きく二つに分けられる。第1の課題は、労働分野におけるジェンダー平等政策の基礎として、ILO第100号条約において規定されている「間接差別の禁止」と「同一価値労働同一賃金原則の実施」の2本の柱を確立するための方途を探ることであり、第2の課題は間接差別法理や同一価値労働同一賃金原則の土台となるILO第100号条約に基づく国際基準が国内に導入、適用される際に、女性NGOが果たした役割とそのインパクトを明確にすることによって、労働分野におけるジェンダー平等政策推進の糸口を探ることである。
第1章は女性労働に関する日本の実態の顕在化を課題としている。第1節では、経済のグローバル化にともなって「柔軟な労働力」がもとめられた結果、女性労働者の雇用が男性以上に不安定化し、低賃金層に追い込まれたことを統計資料等を使用して把握し、第2節では、それらの統計資料の背後にある労働現場の実態を検討している。現実の労働者の実態把握のために商社労働者を取り上げているが、商社労働者をとりあげた理由は、①総合商社が地球規模でビジネスを展開し、業容の面からも人材活用の観点からも国際基準がつねに求められ、国際労働基準に敏感に対応しなければならない企業であること。②総合商社は間接差別の温床といわれているコース(職掌)別雇用管理制度を全国に先駆けて導入していること。③総合商社で働く女性労働者が、コース別制度は実質的な男女差別賃金制度であることを証明するために、ペイ・エクイティ原則をつかって職務分析を行ない1997年に『商社における職務の分析とペイ・エクイティ』として社会に問うていることなどである。こうした日本の女性労働者の実態把握を通じて、第1章では、日本の女性労働者の実態は、国際機関から指摘されているように、間接差別が放置されている状態にあると述べている。
第2章では、国際労働基準として確立している間接差別概念が、なにゆえに日本では定着していないのかを問うている。第1節では、ILO、CEDAWの3つの国際機関を取り上げ、要請・勧告内容の間接差別に関わる部分を抽出して検討を加えている。検討の結果、女性NGOなどからの国際機関へのアプローチは集積されたが、女性差別撤廃条約を日本が批准(1985年、署名は1980年)してから相当の時日が経過しているにもかかわらず、わが国における間接差別の禁止にかかわる立法化・政策化の進捗状況は微々たるものであることを指摘している。
第2節では、男女雇用機会均等法の第1次改定(1997年)および第2次改定(2006年)においても間接差別禁止を明文化することはできず、辛うじて第2次改定において省令で間接差別にあたる3事例を限定列挙するにとどまった経過を踏まえ、なぜ明文化できなかったのか考察している。明文化できなかった主因は2つあるとし、一つは組織率の低下がとまらない労働運動の力の弱体化であり、二つ目は人件費の総枠管理を図るためには経営側にとって間接差別を導入することは一歩も譲れないという強硬な姿勢であると指摘している。すなわち、非正規労働者をバッファー機能として利用し、経営の「合理化」を図っている経営にとって、間接差別法理を受け入れることはできず、一方、それを打破する力が労働側にも女性NGOにも欠如している。そうした力関係を反映して、労働側や女性NGOが行政内部に存在する国際労働基準導入に積極的なアクターと連携する契機を見いだせずにいたのではないかと分析している。しかし、地方自治体に目を転じれば、男女共同参画社会基本法の制定により、これに準拠して各地 で男女共同参画社会条例がつくられており、地方自治体においては行政と女性NGOの連携により、地域によっては議員も加わって制定されている。これはポジティブな側面として、また今後の展望として明記されるべきと述べている。
第3章は、前章で検討した1L0第100号条約の実質的適用を求める実践のケース・スタディとして兼松裁判を取り上げている。本裁判は総合商社兼松の人事制度が労働基準法4条に違反するか否かを問うものであり、争点は男女の業務の同質性である。この証明に同一価値労働同一賃金原則を活用した職務鑑定書が提出されている。
本章では、兼松裁判に対する東京高裁の判決文を判定要素によって読み解く中で、原告たちが主張した兼松におけるコース(職掌)別雇用管理制度が「間接差別」であることを証明している。また、諸資料の分析から、雇用管理区分が異なっていても「職務の同質性」を認めた判決の根拠を示し、裁判における同一価値労働同一賃金原則の有効性を明らかにしている。兼松裁判の原告たちは男性労働者とは異なったコース(職掌)に属して働いていたが、男性労働者と同質の業務を担当しており、原告らが受け取っていた賃金は労働基準法第4条違反であると高裁は判定した。換言すれば、外形上は性による差別には見えないが、実質的には男女差別、すなわち間接差別であることが明確になったのである。
第4章は、ILO100号条約のもう1つの中核的概念である同一価値労働同一賃金原則を取り上げ、その有効性と限界を検証することを課題としている。はじめに、本原則にかかわる研究者間の論争の論点整理を試みている。この論争は現時点では運動の停滞の原因のひとつと考えられ、とくに研究者間での見解の不一致が運動側へ大きな影響をあたえている実態があり、今後の論争の発展と収斂の方向をさぐることが、ジェンダー平等を求める労働運動および女性NGOの発展にとって不可欠であると考える。
つぎに検討対象を分野別に検討している。すなわち「本原則に依拠して運動を展開する女性NGO」、「時々の政策立案時に導入しようとするが力不足の行政」、「国際条約には拘束されないとする姿勢は残存するものの僅かながらも変化を見せている司法」、および「同一価値労働を同一(付加)価値労働に置き換えて利用しようとする財界」という4分野を検討した上で、いまだに内部に意見の相違がある労働運動の動向を検討している。考察の結果、同一価値労働同一賃金原則に関する評価を労働運動および研究者間で統一することは短期的には困難であるが、そこへ向かう方途として「間接差別法理の成立」を共通課題として運動をすすめるなかで、収斂させていくべきだという著者独自の結論を提示している。
また、同原則を実行するにあたり必要とされている職務分析・職務評価の手法についても検討している。中立的で納得性の高い職務評価手法の確立が求められているが、職務評価に内包する差別性を担保できるかという課題を提起しつつ、本原則を活用して勝訴した事例から本研究で析出した成果を活かすことの重要性を指摘している。
第5章は、小さなリソースしか保有していない女性NGOおよび単位労働組合の取り組んだ海外発信によるアドボカシー活動を考察し、女性NGOの要求が国際機関から日本政府への提言・勧告としてフィードバックされるという事実は、女性NGOが海外へ向かう戦略の有効性と可能性を示すと考えられる。また、昭和シェル石油裁判においては勝利判決という形で、野村證券においては人事制度改革の実行という形でブーメラン効果が発揮された事例などリソースに比して大きな成果を上げた女性NGOあるいは単位労働組合も存在する。しかし、アドボカシー活動を検証する過程で女性NGOと行政との協働についての可能性は若干見えたものの、女性NGOのみの活動には限界があることも明らかになった。最終的にはナショナル・センターが統一的に運動を展開できる状況が生まれたときに、アドボカシー活動の大きな成果がもたらされると期待され、その結節点に女性NGOは立つと考えられる。
終章では、国際労働基準の実質適用、具体的にはILO100号条約が規定している間接差別法理の成立と同一価値労働同一賃金原則の導入を目指した女性NGOの実践活動を検証するなかで見出した課題を、研究上の課題と運動上の課題に分けてそれぞれ2つずつの課題を提起している。研究上の課題の第1は、ジェンダー中立の職務評価の確立とそれに随伴する課題をどう解決するかであり、第2は労働組合組織論の再構築である。運動上の課題の第1は、人権条約の批准で、なかでも急がれるものとしてILO第111号と女性差別撤廃条約選択議定書の批准が挙げられる。第2は、間接差別法理の確立を中心に据えての実践活動である。そこでは1980年代の均等法制定時の教訓から学ぶこととともに、たとえば隣国の韓国、台湾で活発に活動している女性NGOのパイオニアたちなど海外の女性NGOとの連携を進め、女性NGOの真のグローバル化を進めるという課題がある。
3. 本論文の成果と問題点
本論文の成果としては、次の点を指摘できる。第1に、本論文は理論的研究と実践的な政策・運動の統合を深いレベルで実現していることである。本論文の中心テーマはILO第100号条約の完全適用であるが、ILO第100号条約の完全適用の内容は間接差別法理の成立と同一価値労働同一賃金原則の導入が2本柱である。本論文では、それぞれを検証した結果、研究者間で評価が分かれている同一価値労働同一賃金原則の問題を運動のなかでは一時的に棚上げすべきだと判断するに至っている。理由は、研究者間での評価の不一致に影響を受けて女性NGOおよび労働運動の一部に混乱が生じていることと同一価値労働同一賃金原則に随伴する職務評価の手法が確立していないので、職務評価手法が未確立のままで同原則の導入を急ぐことのリスクが明らかになったからである。したがって、同一価値労働同一賃金原則の評価の統一については長期的な課題として、当面は裁判闘争や自主的に取り組む力量のある労働組合での実験など限定的な活用にとどめ、その成果の蓄積を行なう必要があり、理論と実践をむすびつけるなかで課題の解決を図るべきであるという結論を導いている。こうした深くかつ柔軟な考察は、これまで同一価値労働同一賃金原則論議に関わったどの研究者も行うことができなかったし、本テーマに限らず、理論的研究と実践的な政策・運動が接触する他の様々なテーマ、分野でも容易ではないと思われる。本論文はそうした困難な作業である理論と実践の統合の好例と言うことが可能であり、研究者と運動家の架橋に成功した貴重な論文として高く評価することができると考える。
本論文の成果の第2は、総合商社・兼松株式会社の男女賃金差別裁判(兼松裁判)において原告の女性労働者たちが勝利判決を獲得するプロセスを克明に分析し、兼松裁判からの教訓を導出し、その普遍化を試みた点である。兼松裁判では、原告の要請にもとづき職務評価に関する鑑定が行われた。鑑定にあたり兼松男女賃金差別事件職務評価委員会が組成されたが、筆者は商社労働の経験者として同委員会に鑑定委員の一人として参画し、鑑定作業を行い、鑑定意見書を東京高裁に提出している。兼松裁判は研究者と女性NGO、商社で働く女性労働者と原告が連携し、間接差別ならびに同一価値労働同一賃金原則に基づく証拠資料、裁判資料の作成にあたった稀有な事例である。本論文は商社で働く女性労働者として原告と共通する視角をもつ筆者でなければ残せない貴重な記録となっただけでなく、そうした特殊な作業から得られる教訓の普遍化を研究者の視角から試みた学術論文であり、また、後進のジェンダー平等に取り組む人々にその教訓を伝える希少な媒体となっている。
本論文の成果の第3は、いままで研究対象として取り上げられてこなかった女性NGO活動のブーメラン戦略を研究し、女性政策の形成過程で一定の効果を発揮したことを明らかにしたことである。間接差別法理の成立を進めるうえでは、労働運動側は女性NGOの実践活動の成果を正確に評価し、労働行政と労働運動の接合点に女性NGOを位置づけることが重要である。このような女性NGO活動の意義に関する客観的な評価は行われることが少なかったが、本論文はその研究上の空白を一定程度埋めたと思われる。
以上のように成果を上げているものの、本論文にも若干の問題点が指摘できる。本論文のテーマである雇用におけるジェンダー平等の実現や国際労働基準の確立は本論文が主たる研究対象とした女性NGOやいわゆる少数派の労働組合だけでなく、多数派の労働組合にとっても主要な取り組み課題である。しかし、本論文では多数派の労働組合におけるジェンダー平等の取り組みについて触れることは少なく、触れていたとしても、多数派労働組合のジェンダー平等の取り組みの消極性を指摘する場合が多く、たしかに消極性が認められるにしても、その背景や原因の深い分析は不足していると思われる。しかしながら、以上のような問題点は筆者自身が自覚しているところであり、今後の研究のさらなる発展に期待したい。
最終試験の結果の要旨
2015年3月11日
2015年2月5日、学位論文提出者上田裕子氏の論文について最終試験を行った。
試験においては、審査委員が提出論文『日本のジェンダー平等政策と国際労働基準―間接差別禁止をめざす女性NGO活動を事例として―』に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対して、上田裕子氏はいずれも充分な説明を与えた。
よって審査委員一同は、上田裕子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績及び学力を有することを認定した。