博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:高度人材の国際移動に関する社会学的研究-クラスター化とリージョナル化-
著者:松下 奈美子 (MATSUSHITA, Namiko)
論文審査委員:倉田 良樹、西野 史子、太田 美幸、堂免 隆浩

→論文要旨へ

Ⅰ.本論文の構成

 本論文は、グローバル経済化の随伴現象として1990年代以降拡大傾向を強めているとされる、大卒以上の学歴を持つ専門職・技術職(=高度人材)の国際的な労働移動という事象に着目し、既存文献のサーベイと実態調査による研究を行っている。本論文では高度人材の国際移動の実態が、クラスター化とリージョナル化という性質を有していることを明らかにするとともに、「地位集団間の立場競争」という概念を中心にその移動メカニズムを解明するための理論的な考察を行っている。本論文での考察を通じて筆者が目指したのは、高度人材の国際的な移動に関する「人的資本理論」に基づく通説を批判し、労働社会学的な概念枠組みを用いてこの事象をより正確に捉え直すことであった。本論文の構成は以下の通りである。

1章 本論文の課題
1.1 問題の所在
1.2 人的資本理論を中心とする「高度人材の国際移動」に関する通説の研究
1.3 本論文の研究課題
1.4 分析に用いる主要な概念と枠組み
1.5 本論文の学術的な意義
1.6 本論文の構成 
2章 国境を越える高度人材の現実
  2.1 高度人材の国際移動のパターン
2.2 ヨーロッパ地域圏内での高度人材移動の動向
2.3 立場競争理論に基づく考察
3章 アメリカのグローバルマーケットとインド人技術者
3.1 アメリカの情報通信産業とH-1-Bビザ
3.2 アメリカに向かうインド人IT技術者
3.3 グローバルデリバリーモデルとインド人IT技術者
3.4 立場競争理論に基づく考察:アメリカのIT産業におけるインド人技術者集団の
                 地位獲得競争
4章 アジアから日本へと移動する高度人材
4.1 日本へ国際移動する高度人材の概要
4.2 日本の入国管理政策と高度人材の定義
4.3 技術ビザで来日する外国人IT技術者
4.4 立場競争理論に基づく考察:アジア地域出身者による機会独占の背景
5章 韓国人IT技術者の国際移動のメカニズム
5.1 韓国の情報通信政策:1980年代からIMF危機まで
5.2 1980年代から1990年代の日韓ソフトウェア産業の交流
5.3 韓国のIMF通貨危機とIT産業の動向
5.4 韓国の大卒若手失業問題と政府の就労支援政策
5.5 韓国人IT技術者の日本への移動メカニズム
5.6 立場競争理論に基づく考察:日本のIT産業における外国人技術者集団の地位獲得競争
6章 高度人材の移動はなぜクラスター化し、リージョナル化するのか
6.1 クラスター化に関する考察1:頭脳獲得競争の現実
6.2 クラスター化に関する考察2:知識経済のパラドクス
6.3 リージョナル化に関する考察:グローバリゼーションの逆説的帰結
終わりに

2.本論文の概要

 第1章「本論文の課題」では本論文の問題関心と研究課題の提示を行うとともに、分析に用いる主要な概念と枠組みについて説明している。まず1.1節と1.2節では、高度人材の国際的な移動に関する通説として流通し、各国の政策に対しても一定の現実的な影響力を持つにまで至っている「人的資本理論」の見解に対する根本的な懐疑が提示されている。そして本論文の目的が、人的資本理論の誤謬を実証的、理論的に克服することのできる社会学的な研究を推進することにあると述べられている。筆者による人的資本理論への批判点は「国際移動における行為主体の個人化」と「国際移動の方向性に関する自由化」という二つの命題への懐疑として集約されており、これに対抗して筆者が打ち出そうとしているのが、国際移動における行為主体の「クラスター化」、国際移動の方向性に関する「リージョナル化」という二つの命題である。
 1.3節では、前節までの議論を受けて「なぜ高度人材の国際的な労働市場はクラスター化するのか」、「高度人材の国際的な労働市場において、なぜ移動の方向性はリージョナル化するのか」という本論文が取り組む二つのリサーチクエスチョンが提示されるとともに、本論文で設定する主要な研究対象がIT技術者であることが述べられている。主要な研究対象としてIT技術者を取り上げる理由は、国際移動する高度人材を職種別に分類した場合に量的に最大規模のグループであることと、各国の「頭脳獲得競争」においてターゲット職種として政策の焦点とされてきたことである。
 1.4節では、先のリサーチクエスチョンに取り組む上で用いられる主要な概念と枠組みについて説明を行っている。本論文において筆者が人的資本理論に対抗するために活用しているのは「立場競争理論」positional competition theoryと呼ばれる社会学理論である。立場競争理論によれば、社会における人々の空間的な移動は異なる地位集団status groupの間で展開される排除exclusionと簒奪usurpationをめぐる紛争として分析することができる。この理論を高度人材の国際的な移動を説明に適用することによって、①なぜ国際移動において行為主体は特定の地位集団としてクラスター化していくのか、②なぜ移動方向に関して特定地域に偏ったリージョナル化が生じるのか、という二つの問いに有効にアプローチできることが主張されている。
 続く第2章から第4章まででは、IT技術者を中心とした高度人材の国際的な移動に関するいくつかの重要なトピックを取り上げ、既存文献のサーベイによって上記リサーチクエスチョンにアプローチする予備的考察を行っている。第2章「国境を越える高度人材の移動」では、高度熟練人Highly Skilled(HS)、科学技術人材Human Resource in Science and Technology(HRST)、理工系人材Science Technology, Engineering and Mathematics(STEM)など、多様な呼称によって多様にカテゴライズされている高度人材の国際移動の全般的な動向に関する文献研究を行うとともに、立場競争理論の諸概念による現状の解釈を試みている。2.1節ではOECD諸国の統計データに基づく大卒高度熟練人材Highly Skilledの国際移動の動向に関する既存研究を主要な題材として立場競争理論の視点に立った考察を行っている。OECD諸国における高度人材の国際的な移動の様相が、人的資本理論が想定するような、個人が保有する知識やスキルをベースにした個人間の自由競争として全方向的に拡張しているというような事実を見出すことはできず、むしろ個人が帰属する地位集団としての優位性という要因が移動の成否に対して大きな規定力を発揮し、立場をめぐる競争が異なる地位集団の間で展開されていることが主張されている。2.2節ではヨーロッパ地域内、とくに受け入れ国としてのイギリスとドイツに注目して、高度人材の国際的な移動動向に関する文献研究を行っている。ここでも高度人材が移動先において帰属する地位集団ごとの優位性によってクラスター化された階層構造を形成していること、そして、そうした階層構造は受け入れ国と送り出し国との間で制度化されたリージョナルな関係性と対応するものであることが主張されている。
 第3章「 アメリカのグローバルマーケットとインド人技術者」では、インド人IT技術者の国際移動に関する文献研究を行っている。筆者はいくつかの先行研究を立場競争理論の諸概念を用いて読解することを試みている。地位集団としてのインド人IT技術者がアメリカのIT産業においてインサイダーであるアメリカ人技術者による排除圧力に抗しつつ、一定の立場を簒奪することに成功した歴史的経路について考察し、①公用語として英語の能力と②オフショア開発に関して米印間に形成されたリージョナルな関係性の存在という二つの点において、エスニック集団としてのインド人技術者には、他国からの参入者を排除しうる立場競争上の比較優位を確保することができたことを明らかにしている。他方では、H-1-Bビザによる時限つき滞在を基本として就業するインド人IT技術者の実態が、人的資本理論が想定するようなグローバルエリートの自由な移動とは全く異質なものである、という点についても指摘している。
 第4章「アジアから日本へと移動する高度人材」では、日本の高度人材政策と外国人IT技術者の現状について統計データと政策文書を用いて検討するとともに、中国と韓国を中心に東アジア地域からの受け入れに傾斜している現状について、立場競争理論の視点から解明することを試みている。
 第5章「韓国人IT技術者の国際移動のメカニズム」では筆者自身が実施した事例研究に基づいて、クラスター化とリージョナル化に関する研究課題にさらに本格的に取り組んでいる。入管統計によれば、技術ビザにより日本に入国した外国人の数は、フローベースでみてもストックベースでみても2000年台前半において顕著な増大を示している。だがその国籍別の構成は中国と韓国に集中した顕著な偏りを示していた。さらにこの間の外国人技術者の増大は職種的にも偏ったものであり、その中心となったのは情報サービス産業で働くIT技術者だった。地域的にも職種的にも偏った国際移動が発生した背景を探るために、筆者は韓国人IT技術者の日本への送り出し・受け入れのメカニズムの解明を目指して、日本と韓国で実態調査を行った。その結果明らかになったのは、以下のような事実だった。1997年のアジア通貨危機により韓国では多くの若年失業者が発生した。韓国政府は公的資金を投入して国内の大卒人材をIT技術者として育成し、海外の労働市場で就労機会を求めることを奨励した。こうした政府の政策によって韓国内で技術者の海外への送り出し圧力が高まっていた時期に、日本政府もまた外国人高度人材の受け入れを標榜して入国管理規制の緩和を行った。日本政府が重視したのはアジア諸国からの受け入れであり、韓国はその主要なターゲット国の一つだった。他方、韓国から送り出された若年大卒IT技術者の集団を日本側で一括して大量に受け入れる受け皿として重要な役割を果たしたのが、すでに日本で起業していた韓国系IT企業だった。これら受け入れ企業は重層的な下請け構造を形成する日本の情報サービス産業において、すでに一定の地位を確保していた。以上のような送り出し、受け入れ双方の事情から、韓国人IT技術者は個人としてというよりは一定の地位集団として日本の労働市場に参入を果たしたのだった。
 第6章「 高度人材の移動はなぜクラスター化し、リージョナル化するのか」は本論文の結論部分である。本論文では高度人材の国際移動に関する通説となっている人的資本理論を批判し、これに対抗する立場競争理論の視点から理論的、実証的な分析を行った。高度人材の国際的な労働市場に関して人的資本理論では、第一には、合理的な個人を主体とする知識や技能をめぐる実力主義的な競争が進行すること、第二には、その移動の方向については地理的・空間的に拘束されない自由化が進行すること、という二つの主要命題が立てられているが、その妥当性については充分な学術的検討が行われていないことを筆者は批判する。
 これに対して、第2章から第3章までに行った立場競争理論に基づく予備的考察によれば、高度人材の労働市場では、第一には、知識、スキル、経験に基づいて評価される自由で公平な個人間の競争が展開されるわけではなく、むしろ国籍、言語、学歴、民族といったメンバーシップと社会的地位を基盤とするクラスター(=位置取り競争の主体となる地位集団)が形成され、個人よりも集団としての評価が重視される閉鎖的で不平等な競争が展開される。第二には、クラスター化の結果として、高度人材の移動の方向は、個人の自由な選択に委ねられるようなものでは決してなく、特定地域に限定されたリージョナル化の傾向を辿ることになる。
 本論文第5章におけるIT技術者に関する研究の結果からも、以下の二つのことが明らかになった。第一には、IT技術者の国際的な労働市場は個人化してはおらず、むしろ日本のIT産業には中国と韓国を中心にアジア地域出身者が、アメリカのIT産業にはインド出身者が集中しているように、特定の国のある産業に特定地域出身者が集中的に参入するクラスター化の現象が起こっている。IT技術者の労働市場においても、競争は個人間で行われるのではなく、言語、国籍、学歴などによる社会的地位集団同士の立場獲得競争として展開されている。IT技術者の国際的な移動は、個人の知識や技術に由来するのではなく、個人が帰属する社会的地位集団が移動先社会の既存集団に対して持つ相対的な優位性に由来する。その結果、IT技術者の国際移動も産業サービス産業の特定セグメントにおいて特定の外国人集団が地位集団ごとにふさわしいポジションを獲得している。第二には、IT技術者の国際移動の方向性に関しては、2000年代前半に韓国から日本に向かった技術者の事例に典型的に現れているように、逆に地理的、空間的に特定の方向に集中するリージョナル化が起こっている。IT技術者という技術内容の国際標準化が比較的進んでいる職種においても、移動方向はリージョナル化しているのである。全ての高度人材が全方位的にかつ自由に移動できる競争的な労働市場という存在は人的資本理論によって作り上げられた虚像であり、高度人材の移動方向は現実には地理的空間的に偏ったものとなっている。

3.本論文の成果と課題

 本論文の成果として以下のような点を指摘することができる。
 第一には、高度人材の移動を社会学的に研究する上で、主流派経済学的に源流を持つ「人的資本理論」の研究と対峙していくことは避けることのできない重要な課題であるが、本論文はこの重要な課題に果敢に挑み、人的資本理論への批判としての論考を貫徹させている。さらに筆者は「立場競争理論」に基づいて、人的資本理論に代替する社会学的な解釈図式を採用し、当該研究テーマに関して根本的な認識の転換を図ることに成功している。また筆者が本論文で提出した人的資本理論に対する対抗命題は、今回の論文のテーマをこえて、労働市場における様々な空間移動や競争の現象を分析するうえで有効な、多くの貴重な着想を含むものである。
 第二には、第5章において展開された韓国人IT技術者の日本の労働市場への参入プロセスの研究は、詳細で多岐にわたる聞き取り調査に基づくオリジナリティの高い研究成果である。日韓の政府関係機関、大学、専門教育機関、送り出し機関、受け入れ企業など、このプロセスに関わったあらゆる種類の当事者から丁寧な聞き取りを行って作り上げた「送り出しメカニズム」の概念図は、国際労働力移動の仕組みを説明する俯瞰図として極めて効果的な役割を果たしている。また、受け入れ側である日本の情報サービス産業に関する記述の部分でも、経営者、管理者、労働者を対象とする聞き取り調査の成果が活かされており、記述内容の信頼性を高めている。
 第三には、本論文では高度人材の国際的な移動に関する人的資本理論の見解に対して多岐にわたる批判を展開してるが、これらの批判のなかには、今日の労働市場や高等教育に関する政策課題を検討する上で重要な意味を持つ多くの知見が含まれている。例えば本研究では、国際的に高い雇用可能性employabilityを持つ「グローバルエリート」の育成を目指すような方向で高等教育を改革したとしても、人的資本理論が想定するようなポジティブサム的な国民経済的な成果が得られる保証はどこにもないことを論じているが、こうした議論はまさに今日の日本の高等教育政策の妥当性を論ずる上でも大きな寄与をなしうるものであろう。
 しかしながら本研究には以下のような課題も残されている。
 第一には、人的資本理論への学説的な批判としてはまだ不徹底な部分を残していることである。筆者による人的資本理論批判は、ライシュらの経済政策論的な議論を中心的なターゲットとして展開されており、主流派経済学の前提そのものにまで踏み込んだ「経済学批判」的な考察が行われているわけではない。筆者の今後の課題であろう。
 第二には、筆者が5章で取り上げた韓国人IT技術者の事例研究はオリジナリティも高く、内容的にも優れたものではあるが、2章から4章までで行われている予備的考察はいずれも文献研究のみに止まり、事例を用いた実証分析という点に関しては作業不足である。筆者の今後の作業に期待したい。
 第三には、人的資本理論批判という研究の視座を貫く上でやむを得ない面もあるが、実態を二項対立図式で切り分けすぎるあまり、多様な現実を柔軟に観察していく姿勢に欠ける面が見られたことも残念な点である。筆者が強調する「地位集団を単位とする立場競争」のなかに個人間競争の要素がどのように残されているのか、といった視点で現実を観察することで、高度人材の移動の多様な姿にさらに正確に迫ることができたのではないだろうか。この点に関連して付言すれば、移民研究の先行研究に関するレビューという点でも若干作業不足であったかも知れない。個人としての行為者の分析を中心とする人的資本理論の知見と地位集団の制度的な成り立ちの分析を重視する立場競争理論の知見を架橋する可能性を持つネットワーク理論や構造化理論による移民研究にも目配りすることが必要だったのではないだろうか。この点も筆者の今後の課題であろう。
 とはいえ、こうした問題点については、筆者も充分に自覚しており、今後の研究によって克服されていくことが期待されるものであり、本研究の成果を大きく損なうものとは言えない。

4.結論

 審査委員一同は、上記のような評価に基づき、本論文が当該分野の研究に寄与するところ大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2014年7月9日

 2014年6月5日、学位論文提出者、松下奈美子氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文『高度人材の国際移動に関する社会学的研究:クラスター化とリージョナル化』に関する疑問点について、審査委員から逐一説明を求めたのに対して、松下奈美子氏はいずれも充分な説明を与えた。よって審査委員一同は、一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定した。

以上

このページの一番上へ