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博士論文審査要旨

論文題目:中国文法学の形成期についての研究:『馬氏文通』に至るまでの西洋人キリスト教宣教師の著作を中心に
著者:何 群雄 (HE, Qun Xiong)
論文審査委員:折敷瀬興、吉川良和、中野知律、糟谷啓介

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1 論文の構成
本論文の構成は以下の通りである。

0.はじめに 問題の提起
0.1 通説
0.2 反論
0.3 通説が生まれる歴史的な背景
0.4 先行研究
第一部 19世紀以前のカトリック宣教師の中国語文法研究
1.中国文法学事始
 1.1 中国語文法書が必要になるころ
1.2 「七芸」を持つ人間
1.3 マカオのサン・パウロ学院
1.4 マニラのスペイン系托鉢派僧侶
1.5 初期中国人留学生と文法学研究とのかかわり
1.6 ナポリの「文華書院」
1.7 19世紀以前の中国語文法書について
2. F.ウアロ及びその『官話文典』
2.1 著者と編者について
 2.2 全書の構成
 2.3 著者の中国語に対する総合的な認識
  2.3.1 文法のないことば
  2.3.2 文体と待遇表現
  2.3.3 発音とローマ字表記について
2.4 品詞論
  2.4.1 格について
  2.4.2 名詞、形容詞
  2.4.3 代名詞
  2.4.4 動詞
  2.4.5 その他の品詞
 2.5 構文について
 2.6 継承関係
3. J.H.M.deプレマール及びその『漢語札記』
3.1 天と儒との間(小伝)
3.2 『漢語札記』原稿の流れ
3.3 『漢語札記』の内容について
  3.3.1 序文
  3.3.2 口語文の部
  3.3.3 文語文の部
 3.4 ラテン化か、中国化か
第二部 19世紀プロテスタント宣教師の中国語文法研究
4. 19世紀プロテスタント宣教師の中国語文法研究
 4.1 布教事業の再開
 4.2 継承と差異
 4.3 主な文法書のリスト
5. R.モリソンとその『通用漢言之法』
 5.1 プロテスタント中国伝道のパイオニア(小伝)
 5.2 中国語研究に関する多くの業績
 5.3 「実用文法」について
 5.4 grammarの範囲
 5.5 品詞論と統語論
 5.6 性数格、時制、述法などについて
6. J.マーシュマンとその『中国言法』
 6.1 インド在住の中国語『聖書』の翻訳者(小伝)
 6.2 著者の中国語学習歴及び『中国言法』の執筆経緯
 6.3 「漢文文法」
 6.4 マーシュマンの漢字論
 6.5 東洋と漢字
7. J.エディキンズの中国語研究
 7.1 最後の大師(小伝)
7.2 口語に対する認識
7.3 artからscienceへ
7.4 ユーラシア大陸民族・言語同源説
第三部 宣教師とかかわりがある晩清中国人の文法学研究
8.晩清学者畢華珍について
8.1 畢華珍の生い立ちについて
 8.2 文法学についての畢華珍の見解
 8.3 古代中国人の「虚・実・死・活」についての論述
 8.4 宣教師の「虚・実・死・活」に対する研究
9.『馬氏文通』とイエズス会
9.1 徐匯公学
 9.2『拉丁詞芸』、『拉丁文通』『馬氏文通』
 9.3 品詞の8分法とparticipium
 9.4「文同理同」について
結論 中国語学近代化の道程
注釈(一括して167項の注釈を付す)
参考文献 (中国文52点、和文29点、欧文46点)

2 本論文の要旨

はじめに 問題の提起

 筆者は冒頭に、1898年刊中国人の馬建忠著『馬氏文通』が中国語文法学の嚆矢であるという従来の説を紹介し、そうした通説が生まれる歴史的政治的背景を指摘して、通説に対する反論を述べる。筆者は当該書出版以前に数多くの西欧人による中国語文法書が書かれていた事実に注目し、それらに中国語学史上、正当な位置を占めさせるべきだと主張する。通説が通用している背景を3点挙げている。第1にこの西欧人とは宣教師であり、社会主義の中国にあっては迷信と否定さるべき宗教をもたらした彼らの功績を称えることは憚る。第2に宣教師の文法学が単にラテン語文法の敷き写しに過ぎず言語学のレベルに達していないという偏見。第3に1949年以降、大陸の中国語学者は学問的鎖国状態を脱した昨今でも海外の資料を入手するのが極めて困難であり、鎖国状態は欧文古書解読の能力を具えさせなかったなどの理由で、通説は通用しているとする。また先行研究を挙げて紹介している。以下本論文は、「19世紀以前のカトリック宣教師の中国語文法研究」、「19世紀プロテスタント宣教師の中国語文法研究」、「宣教師とかかわりがある晩清中国人の文法学研究」の3部を段階的に論述を進める。

第一部「19世紀以前のカトリック宣教師の中国語文法研究」

1.中国文法学事始

 文法学が出現する必要条件を児童の母語学習と外国人の語学習得の2点とし、中国では前者は漢字の読み書きに終始し漢字の意味と用字法、それに文章の句読をつけることであって、印欧言語のような屈折語ではなく、孤立語で表意文字の漢字で組み立てられた中国語は、grammarを生み出す土壌がなかった。そこで、中国語文法学が出現するのは、成年の外国人が中国語を学習する場合となる。その淵源を、筆者は13世紀、元朝期に来朝した西欧人の旅行記などから、フランシスコ会士たちが中国文法学の萌芽を生み出したと推察する。しかし、目下の明確な記録は、16世紀後半の明末清初に来華したイエズス会の宣教師たちのもので、17世紀に入ると奥地に学校を設立して中国人の学生を教育する一方、宣教師たちも中国語の習得に努力した。とりわけ1594年創設されたマカオのサン・パウロ学院は、多数の中国語習得宣教師を輩出した。筆者は、次にマニラ在住のスペイン人J.ラダとJ.コボの業績に注目する。ラダは『中国語の文法と語彙』を著し、コボは『明心宝鑑』のスペイン語訳とキリスト教教義の漢訳を行った。他方、遣欧使節の中国人青少年が西欧東洋学者の中国語習得に手助けをしたことも重要な事柄として挙げ、とりわけA.オアンジェ(1679~1716)が24歳でパリに入り王室文庫に勤めながら当時著名な東洋学者のフルモンやフレレーに中国語を教えたことを、筆者は特記している。パリ国立図書館に「オアンジェ文書」と題され、「中国語の文法及び中国語、中国文字に関する諸種の覚書。中国語会話・・・」を含んでいると紹介している。ここでは、宣教師でなく学者が研究したことに意義があると着目する。1693年出された教皇の中国典礼厳禁の教書は、中国人宣教師の育成を迫った。ナポリで1732年開校された「文華書院」も1例で、後に中国語学習本『華学進境』を出版した郭棟臣もそこの卒業生であった。このように、西欧人と中国人との中国文法探究の蓄積が見られるが、筆者はこの章の最後に18世紀以前の現存資料が少ないことを指摘しながら6点を挙げ、そのうち『中国語文法』(1682年刊)がラテン語で中国語文法を論じた最初の書であるという方豪氏の説を紹介するとともに、著者マルティーニについての略歴を付けている。

2.F.ウアロ及びその『官話文典』

 筆者はこの章で、現存最古の中国語文法書はF.ウアロの『官話文典』であるとするH.コルディエの説に従い、まずその成立事情と著者ウアロの略伝を述べる。ウアロは1649年布教に来華した。この西欧人による中国語文法書の序文と16章にわたる内容を逐一述べる。序文では著者ウアロが中国語には文法はないといった安易な結論を戒めて、この中国語実用書を著したと表明している。第1章では5点の注意事項を挙げる。1. 官話の音節が少ないが声調があり文字は無限で文学的言語である。2. 官話の口語には高雅、平易、野卑の3種のスタイルがあって、説教では使い分けるべきだ。3. 官話を話すための3つの要件として、正確な言葉遣いと正しい声調(スペイン語の発音に基づいたローマ字表記)、正しい語順を挙げ、きれいな官話を話している地域に行くよう。4. 書面語と口語には開きがあって通じない。5. 方言の差異を認識し、布教の時は方言を理解するよう。次に、品詞論に入る。特徴的なのは、名詞には主格、属格、与格、対格、呼格、奪格の6格があり、格の区別は虚詞で表されるとし、虚詞の使用法や注意点を述べる。動詞については中国語は形態変化せず時間副詞や虚詞を付加させて時制の変化を表現すること。そして、第11章に「文構成の方法」と題してはいるが、文構造の注意の多くは名詞や動詞などの品詞論の中でむしろ詳述されている。そこで、筆者は結びに、1. このウアロの著作は、格についての論述が名詞、代名詞の項にあり、受動態については動詞の項の方が詳述され語順についての注意書きが諸処に散見してまとまっていないことから、品詞論を中心に構成された文法書であること。2. A.deネブリハ著『カスティーリア語文法(1492年)』のラテン語文法書の影響を受けて、中国文法に独自の工夫をして成立させたこと。3. こうした宣教師の中国語文法書は、それ以前の神父仲間で転写する中で改良と加筆がなされて成立したという3点を指摘している。

3.J.H.M.deプレマールおよびその『漢語札記』

 筆者は、この章で中国語の性質と構造を正確に西欧世界に伝えた最初の専門書と称賛されたプレマールの『漢語札記』を取り上げ、彼の略伝を述べる。フランス人で1698年に中国に渡り布教活動をした。典礼問題で中国の典礼を否定していた教皇および一般の宣教師たちと違って、漢籍の中にキリスト教信仰の理論的根拠をさがす目的で、彼は中国の古典を研究し関連する内容の著書を著した。彼の『漢語札記』の構成は、序文、第1部の口語と日常常用文体、第2部の文語により成り立っている。序文では、中国書についての紹介をし、その読書法を指示した。次に代表的辞書をあげ、漢字に関する基礎知識を説明している。また、漢字の発音を示す半切法を紹介し、続いて声調の説明をしてから詳しい音韻表を載せた。第1部の口語文では、高雅な言葉を勧め、戯曲や小説から模範文を取った。その「中国語の文法と句法」では、名詞、代名詞、動詞及びその他の品詞の4部分に分けて説明していく。名詞は形態変化がないので虚詞によって判断する。動詞も形態変化がないから、主動、受動などの実例で解説する。その他の品詞、副詞、前置詞などは説明をつけず、例文を列挙している。その他の品詞はウアロの『官話文典』よりさらに簡略化されている。「中国語の特質」では、正確な言葉を目指してとりわけ虚詞に力を入れて詳述している。それゆえ、文法書というよりも虚字字典に似ている評され、筆者はさらに、ウアロの『官話文典』と比較し、原典からの好例文が多数あり、言葉のニュアンスにも触れており、『官話文典』は口語の書き言葉のに重点がおかれていたことを論証している。第2部の文語文の方は、「文語の文法と句法」で1. 動詞は如何に表現されているか、格はどこから認識されるか。2. 動詞の主格はどこにあるか。3. 動詞の目的語はどこにあるか。4. 名詞と名詞、形容詞は互いにどのような関係で結ばれているか。この4点が重要であると述べている。そしていくつかの言葉の使用法、中国語の複雑な人称、同一文字が複数の品詞となることなどの実例を挙げて説明する。次に、古典文体とその規則を説いて、7種の修辞法を紹介し、最後に、決まり文句や熟語のリストを挙げている。本論文の第1部「19世紀以前のカトリック宣教師の中国語文法研究」の末尾にあたって、筆者は以下のように総括している。ラテン文法の体系に基づいているウアロの『官話文典』は文章語を論ぜず、漢字を用いないローマ字表記で、口語とその品詞論を中心に中国語文法を構成した。一方のプレマール著『漢語札記』は文章語もふくめて、品詞や構文についての叙述はわずかで虚字を中心に詳細に述べたため、初心者には難しく内容が多すぎると評価された。中国語文法の学問的研究には、当初から、このような相反する2つの道があったと述べている。

第二部 19世紀プロテスタント宣教師の中国語文法学研究

4.19世紀プロテスタント宣教師の中国語文法学研究

 第4章からは第2部の19世紀プロテスタント宣教師の中国語文法学の研究について論述される。筆者はまず18世紀末から19世紀初頭が中国におけるキリスト教布教史の大転換点であり、ロマンス言語を話すラテン系のカトリック諸派から英米を中心としたプロテスタント各教派が布教の主力になったと述べる。筆者はこの時期の研究の特徴を1. ラテン文法に代わって英文法の影響が次第に強くなった。2. カトリック宣教師と違い、皇帝や知識人から庶民にという上から下に布教するのではなく専ら民衆の間で布教したから、イエズス会士の中国語が漢文調の典雅な文であるのに対して、プロテスタントは口語の研究に力を入れた。3. 学問的色彩が濃くなりヨーロッパ最新の学説や方法を導入し、自らもヨーロッパの学会に積極的に発言するものが出てきたの3点をあげ、論述している。

5.R.モリソンとその『通用漢言之法』

 筆者はまず、イギリス人伝道者であるR.モリソンの中国語文法書について述べる。モリソンの序文が1811年であることから、英文で書かれた最初のものと、筆者は見なす。本書は彼が設立したマラッカ英華書院(the Anglo-Chinese College)で使用した英文法教科書に中国語の訳文を付けただけのものであった事実から実用書であると論定してから、それゆえ西欧のgrammarを基礎に成立したと筆者は見なす。だが、この「grammar」の函義に「品詞論」や「統語論」のほか、「音韻論」や「文字論」が入っていたのは、19世紀以前の西欧宣教師の中国語文法書とほぼ同様で、それは彼らが根拠とした中世ラテン語文法が現在の文法学よりずっと広く、音韻学や文字学も包括していたから、モリソンの著作でもそれにならっていると、筆者は論述する。モリソンの時代にはローマ字は便宜的記号に過ぎず、漢字がより重要だという認識に変化したことも筆者は指摘している。品詞論と統語論に入って、筆者はまず呂叔相が中国人の著作『馬氏文通』を論賛したことに反論している。すなわち、筆者の本論文における中心課題が、『馬氏文通』以前の宣教師たちの中国語文法学の意義であり、それを無視している呂氏の評価は妥当性を欠くと論難している。呂氏が評価した馬氏の品詞分類法などは、モリソンに先行論考があり、しかも馬氏のよりもむしろ現在通用している体系に近いと論断する。筆者は結びに、『通用漢言之法』を宣教師たちが身につけていたgrammarの方法を最大限活用して、ラテン文法といささか異なる英文法に中国語を対応させて理解させる実用文法書であるとする。

6.J.マーシュマンとその『中国言法』

 筆者は次に、モリソンと好対照をなすイギリス人マーシュマンの『中国言法』を取りあげる。まず、マーシュマンが1度も中国に行ったことがなく、インドで2人の中国人と中国に20年間住んでいたカトリックの宣教師から中国語を学んだ。よって、彼の文法論もその宣教師の影響を深く受けたと、筆者は述べる。『中国言法』の構成は、序論(文字論と音韻論)、本文(文法構造)、付録(『大学』の英訳)の3部で成り立っている。マーシュマンは、文語の漢文こそが中国語の最もスタンダードな文体であり、文法書の例文は文語体から取るべきで、口語の会話は話者の話癖が混入していて、規範的な言語でないと主張したことや、彼の仕事が『論語』英訳から始まったことも漢文重視の表示だと筆者は推断している。次に筆者はその独特の漢字論に焦点を当てて論述する。例えば「人」という漢字は各地で漢字音が違うのであるから、ギリシャ語やラテン語の「人」の意味を表す音で、読み替えてもよい。あたかも、数字の「1,2,3,4」を諸言語の字音で読めると同様に発音を当てられるから、漢字が万国共通の文字になる可能をもっているとまで言っている。彼はまた漢字を分解して部首を最小単位にし、それにいくつ別の要素が加わるごとに「何次構成」の漢字として分析した。「合」は「人」に「一」と「口」が加わるから、「2次構成」の漢字という具合である。この方法はギリシャ語の「語根」に付加して派生語を生み出す「語構成法」と同じ原理だという。こうした彼の漢字認識は、漢字を「letter」としてではなく「word」として扱う。現代中国語では漢字を形態素と見なす場合が多いが、彼の文法は漢文文法であったため、漢字は単語であり、部首が形態素であるという論説を展開した。この理論は我々の「物差し」とは異なるが、我々の想定外の漢字理論を提供した点に、筆者は評価を与えている。マーシュマンの漢字論に関連して、筆者はモリソンが中国語上達には漢字の習得が有益なことと、当時の広大な東アジア「漢字文化圏」では、話し言葉は分からなくても書き言葉なら自分を理解させることができるだろうといった漢字の意義を重視する。かつ、モリソンの主張にはラテン語的普遍性を追求して、「普遍言語」を唱えていたJ.ウイルキンズやG.W.vonライプニッツなどの17~18世紀における学問的背景が存在していたと、筆者は指摘している。

7.J.エディキンズの中国語研究

 筆者は最後の宣教師中国語文法学の代表例として、1848年ロンドンより上海に派遣された英国人エディキンズの著『官話文法』を取り上げる。エディキンズは57年間を中国で生活し、しかも西欧諸言語ばかりかアジアの諸言語、中国の方言まで通じた語学の天才であった。しかも、19世紀半ばのアヘン戦争以後、宣教師の活動はかなり自由になり、彼らの中国語調査が広範であり、かつ精確であって資料的価値も高く、彼の『官話文法』もその好例であると、筆者は論賛する。他方、文献資料としては、彼とほぼ同時代の『聖諭広訓直解』から取った用例が好いと筆者は特記している。次に、彼がモリソンと相違する点に論及する。モリソンが実用文法art技術に終始したのに対して、彼は同時にscienceでなければいけないとの主張をもった。それには、同時代のH.スウイート著『英文法の論理と歴史』などの影響があって、著書に述べられている方法論として「歴史文法」「一般文法」「比較文法」の内、後の二つの角度から試みたと筆者は指摘し、それらを具体的に『官話文法』の内容で述べる。まず、一般文法においては、「中国語自体からその規則を探り出すこと」を原則にする。その際、音韻屈折がない中国語では「語順」と「虚字(助詞)」が重要で、それを文法形式として認識するように唱え、当時の言語学に欠如した部分を彼が指摘したと論賛している。彼の「比較文法」について、筆者は中国語と他言語との同源関係を探る考えがマテオ・リッチを初めとして早くからあったと指摘した上で、彼が唱えた「ユーラシア大陸言語同源説」は古代中国と西アジアの類似性を「創世記」「ヨブ記」『書経』『詩経』などから例証して、本来「同血族」の文化だと結論づけた。しかも「言語進化論」を想定して起源は一つだが、そこから枝分かれして、それぞれが異なった進化の道を辿りシステムを完成させたというのが、彼の認識であったけれども、実証的な裏付けが不十分で学界から受け入れられなかったと、述べている。最後に、筆者はエディキンズを評して、19世紀中国語文法学者で、積極的に西欧最新の学説を受け入れて中国語に応用した人であり、既成の方法にとらわれず、中国の実情に即して規則を探し出す研究姿勢を高く評価している。

第三部 宣教師とかかわりのある晩清中国人の中国語文法研究

8.晩清学者畢華珍について

 冒頭で、筆者は16世紀から始まった宣教師による中国語文法書が、19世紀後半に至って、中国人による中国人のための文法書が出現して来たことを新しい動きとしながらも、鄭瑪諾ら17世紀より西欧に行った遣欧使節の中国青年や明末の江南文人で西欧の学問に関係した人々の存在があって、初めて馬相伯、建忠兄弟の著『馬氏文通』の出現を生んだのであり、この書が偶然、突発的に出てきたのではないと強調する。その上で、馬氏兄弟の前にエディキンズが言及していた中国人文法学者畢華珍の略伝と業績について述べ、中国文法学説史で重要な地位を占めるべきであると、筆者は主張する。19世紀前半に活躍していた畢華珍の著作『衍緒草堂筆記』は所在未詳であるが、エディキンズ著『上海方言文法』に言及された内容から畢華珍の1. 品詞の分類2. 一部の品詞の定義に対する見解から探り出し記述する。エディキンズによれば、1. は通常「実」と「虚」、「死」と「活」の2組しか分けないのに、畢華珍は品詞を実字1項目、虚字4項目の5類に分けた。虚字の分類は「呆虚字(形容詞)」「活虚字(動詞)」「口気語助虚字(疑問詞、文末語気詞)(代名詞、所有格の記号)(副詞と助動詞)」「空活虚字(接続詞)(否定、疑問副詞)」の4類で、エディキンズは後の2類はまだ分類できるとしており、「品詞論」までは至っていないが、単なる「虚字説」から「品詞論」に移行する過程のものであると、筆者は見る。2. は畢華珍が「実名詞(nounあるいはsubstantive)」を指でさし示すことができるものと定義し、「呆虚字(adjective)」をものの属性と外観を描き出すもので名詞と併置して定義し、「活虚字(verb)」の中から「繋詞(copula)」を分けて2種にした。この発想に筆者は論賛し、かつエディキンズも称賛した2. 品詞の定義づけを、中国人は西洋哲学を導入するまで学術用語の定義づけという習慣がなかったから、畢華珍がわずか3種の品詞ではあったが定義を与えたことを画期的な意味をもつと、筆者は評価するとともに、西欧grammarを骨格とした『馬氏文通』に至る過渡的理論として重要だと強調する。次に、呂叔相が「“実字”と“虚字”の2つの用語を最初に文法研究に使用したのは馬建忠だ」と述べたのは誤りで、19世紀以前の宣教師の虚字研究の歴史から「宣教師文法」に存在すること。それは中国の古い「詩話」などの用語ではかえって曖昧なものであったが、新しい定義を与えた文法用語であったことを筆者は例証して、呂叔相の論述とは違い、『馬氏文通』は宣教師文法の業績を踏まえながら精緻化したものだと論断した。

9.『馬氏文通』とイエズス会

 末章に、筆者はこれまた学界で光をあてられていない、『馬氏文通』成立にイエズス会がいかなる関与をしていたかを闡明する。筆者は、まず馬氏兄弟がイエズス会の徐匯公学で1848年上海に来たイタリア人神父のA.ゾットリ校長から必須科目のラテン語を学習した事実を述べる。さらに神父の著作にはラテン語の教科書『拉丁詞芸』3巻があり、上海復旦大学所蔵『拉丁文通』から、この書が震旦学院より1903年発行されたもので、ゾットリ著『拉丁詞芸』を下敷きに加筆したことと、その品詞分類は順序から用語まで援用していることを明らかにしている。続いて、筆者はゾットリ神父の『拉丁詞芸』と『馬氏文通』を照合し、両書がともに品詞を「虚と実」に分けた後、8分類にしている点に注目して後者が前者の影響を強く受けており、かつ8分類法は4~6世紀頃のローマの文法学者によって確立された概念である事実を論証する。そこで、『馬氏文通』品詞論の独自性は形容詞と分詞の扱いにあろうと筆者はいう。ラテン語では形容詞の形態変化が常に名詞と一致しているため『拉丁詞芸』も名詞と分離させないが、『馬氏文通』は名詞よりも動詞に近い形容詞を独立させ、かつ動詞と区別して「静字」と命名した。もう1点の分詞は伝統的ラテン文法で独立した1類を占めるが、『馬氏文通』は分詞に属するものを動詞の中に組み込んだ。だが、この『馬氏文通』の分類法も馬氏兄弟の創意ではなく、じつは19世紀以降のとりわけ英文法の影響を受けて書き直したものだ、と筆者は見なす。続いて筆者は、東西の言語が文字や音韻は違っても「文」や「理」は同じだという馬氏の「文同理同」論について言及し、さらに、口から話し出すと地方や国によって異なるが、意思が心にある時は皆同じだという「心同意同」の観念によって言語の共通性を求め、ラテン文法を参考にする正当性を説いた。「心同意同」論については、高名凱の『漢語的詞類問題』ではフランスの「ポール・ロワイヤル文法」の影響を指摘しているが、筆者は宣教師との関係など、馬氏兄弟に伝わった経緯こそが重要だという。また、『馬氏文通』が生まれた時代背景を、日清戦争の直後で、中国が進化の「適者生存」から排除される恐れを言語についてもいだき、「言語進化論」によって文法のない原始的な言語と断じられないように、中国語は西欧と同根の文法を有する言語であることを論証しようとした表れだと、筆者は論述する。

結論 中国語学近代化の道程

 ここで、筆者は本論の論証の内容、すなわち16世紀末のウアロ文法から19世紀末の『馬氏文通』、さらに加えて近代言語学を学んだ中国の学者までの概括を述べる。中国語文法書は中国本土のキリスト教宣教師の語学学習実用書から始まって、宣教師の間で先人の業績を継承しながら発展させ、その成果をまとめて精密化したのが『馬氏文通』で、他方、イエズス会士を初め、多数の宣教師が西欧に提供した資料によって西欧の中国研究が盛んになり文法学の業績も多くなった。その継承者の代表としては、マスペロとカールグレンなどが挙げられる。そして、趙元任、高名凱、王力など、近代言語学の教育を受けた学者が双方の業績を受け継いだ。本論文は、中国文法学が何時、如何なる人たちによって、如何に形成されたかという歴史を闡明することを目的として論述したと、筆者は結ぶ。

3 本論文の成果と問題点

  本論文の評価すべき点は、以下の通りである。まず第1に、中国語文法学史の中で、長い間欠落部分であった『馬氏文通』が上梓される以前のキリスト教宣教師による中国語文法研究に光をあてたことである。本論文が、現存する最古のウアロから初めて、カトリック宣教師の中国語文法研究、プロテスタント宣教師の中国語文法研究、宣教師とかかわりがある晩清中国人の文法研究と筆者が大きく三分して論じたのは、時代的にも、内容的にも妥当だと思われる。そして、各宣教師たちの文法研究を詳細に記録していることは、後学のものにとって甚だ有益なことである。第2に、『馬氏文通』が初めて打ち立てられたとされる中国語文法の枠組みが、これら宣教師たちの手によってすでにつくられていたこと、とくに実詞/虚詞(『馬氏文通』では実字/虚字)という中国語の品詞分類の基礎をなす二分法が、『馬氏文通』以前に宣教師たちによって試みられていた事実を、一次資料にもとづく綿密な検討によって明らかにしたことは、本論文の最も優れた点であろう。他方、宣教師文法は、それぞれの著作の背景、目的、方法、対象によって、かなり多様な方向性をもっていたことを示したことも、本論文の長所であるといえよう。加えて、マーシュマンの漢字論やエディキンズの中国語系統論のように、現在の目から見れば科学的根拠に乏しい学説のなかにさえ、当時のヨーロッパ人による中国語理解の一側面を考察しようとする筆者の試みは、文法学史研究の立場から評価されてよい。第3に、中国人馬建忠の著作『馬氏文通』以前に中国語文法を著した中国人として、エディキンズが名をあげるだけで、その著作が散逸してしまった畢華珍の著作の内容、構成を復元しようという試みも、本論文の貴重な業績といえよう。本論文は当該分野の研究に必須の文献を、本人の最大限の努力によって、ほぼ網羅的に掌握し、あつかっている資料は、英仏、スペインなどから入手した手稿本も少なからずあって、現在きわめて入手困難なものもふくまれている。本論文は、この分野の草分けとして、恣意的な論述を極力避け、きわめて慎重な実証的研究によって、事実を丹念に追跡し、各宣教師の経歴と学説の特徴を鮮やかに明示している。しかし、本論文にも不満なところがないわけではない。第1にキリスト教宣教師が、『馬氏文通』に大きな影響をあたえた事実を明らかにした点は十分評価できるにしても、中国語文法学史のなかで、それらの宣教師の著作をどのように位置づけるか、そして、『馬氏文通』の意義はいかなるところにあるかという問題についての論究が、必ずしも深められていない点である。とくに、著者が本論文で得られた知見にもとづいて、新たな視点から、もう一度『馬氏文通』を検討していたならば、本論文の主張にいっそうの説得力が付与されたであろう。そうした考察が深められれば、『馬氏文通』以前に存在した宣教師文法の意味づけも、さらに明確におこえたのではないかと思われる。また、日本語の表現にやや問題がある箇所が散見するのも、本論文の趣意を十分に伝えられなかった理由と見える。とはいえ、本論文は筆者が長い年月を費やして、貴重な資料を収集し、適切な方法で整理して叙述したことは、高く評価すべきことであって、今後この分野で研究するものにとって、きわめて信頼性の高い基礎的、先駆的な研究であり、かつ多くの示唆を与える論文であろうと確信する。近年、中国語文法学史は日本と中国の両国でようやく注目され少しずつ議論が行われるようになってきた。これまで中国語学界でほとんど空白となっていた部分を埋めた本論文は、必ず言及すべき無視できないものだといえよう。

  以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2000年2月29日

 2000年 2月10日、学位文提出者何群雄氏の論文について最終試験を行った。
 試験において、提出論文『中国語文法学の形成期についての研究』に基づき、審査員が疑問点について逐一説明を求めたのに対し、何群雄氏はいずれも適切な説明を行った。
 したがって本審査委員会は、何群雄氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。
   

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