研究・教育・社会活動
博士論文一覧
博士論文審査要旨
論文題目:在日朝鮮人の「帰還」に関する研究(1945-1946年)
著者:鈴木 久美 (SUZUKI, Kumi)
論文審査委員:糟谷 憲一、佐藤 仁史、石居 人也、吉田 裕
1.本論文の構成
本論文は、1945年8月の日本敗戦から1946年12月末までに、日本から南朝鮮へ帰還した朝鮮人に対する、日本政府およびGHQ/SCAPによる帰還政策の立案と実施の過程を分析したものである。本文・主要参考文献目録を併せて、400字詰原稿用紙換算にして約750枚に及ぶ力作である。
その構成は次のとおりである。
序論
第1部 敗戦直後における日本政府とGHQ/SCAPによる朝鮮人帰還政策
第1章 日本政府による帰還政策
第1節 帰還予定者数
第2節 朝鮮人帰還者数
第3節 敗戦直後における日本政府の対応
第2章 日本政府とGHQ/SCAPによる朝鮮人帰還政策の開始
第1節 朝鮮人炭鉱労働者の帰還
第2節 中央興生会の解散と地方興生会の改編
第3節 厚生省地方引揚援護局の設置と帰還援護事業の展開
第3章 GHQ/SCAPの指令による帰還希望登録と「計画輸送」
第1節 帰還希望登録前の各省庁による朝鮮人に関する調査
第2節 帰還希望登録調査の開始
第3節 帰還希望登録による「計画輸送」の開始と打切り
第2部 日本における帰還実施「現場」の状況と南朝鮮における朝鮮米軍政庁の活動
第4章 敗戦直後の送出港の状況―山口県の事例から―
はじめに
第1節 敗戦直後の下関・仙崎港周辺の状況と山口県の対応
第2節 山口県内在住朝鮮人の状況と県による在住者および帰還者対策
第3節 厚生省社会局福利課作成の史料より見た下関の状況
第4節 下関地方引揚援護局と下関地方引揚援護局仙崎出張所の設置と展開
第5章 敗戦直後の送出港の状況―福岡県の事例から―
第1節 「概要報告の件」文書より見た朝鮮人帰還者の状況と福岡県の対応
第2節 1946年4月以降の朝鮮人帰還者と『世紀新聞』より見る朝鮮半島の状
況
第6章 「解放」直後の南朝鮮における朝鮮米軍政庁による朝鮮人帰還者受入政策
はじめに
第1節 朝鮮米軍政庁進駐以前の朝鮮人帰還者に対する支援・援護の状況
第2節 朝鮮米軍政庁による帰還者受入体制の成立過程
第3節 外事局による朝鮮人帰還者への援護活動の開始
第7章 敗戦直後の日本における再渡航者対策
第1節 再渡航者数と再渡航の理由
第2節 「海上」における日本政府とGHQ/SCAPによる朝鮮人再渡航者対策
第3節 内務省による再渡航者監視体制の強化
第4節 朝連報告書から見る再渡航者の状況
第5節 敗戦直後における再渡航の問題と課題
第8章 敗戦直後の大阪府による朝鮮人帰還政策
はじめに
第1節 先行研究について
第2節 敗戦前後の大阪府の状況
第3節 大阪府における帰還希望登録調査による「計画輸送」の開始
第4節 大阪府による再渡航者対策
おわりに
結論
主要史料・参考文献目録
2.本論文の概要
序論では、まず、本論文の課題が敗戦直後の在日朝鮮人の南朝鮮への帰還(以下、「帰還」と略する)に関する、日本政府および連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の政策の立案と実施過程を分析することにあることを述べている。
ついで、この課題に関する研究論文や専著がないことを指摘した上で、本論文では(1)日本側の行政関係史料の活用と南朝鮮の米軍政庁による援護政策の解明を通じて、「帰還」の全体像を描く、(2)「帰還」の現場における状況を実証する、(3)再渡航者の実態を明らかにする、(4)送出港に送り出した地域において行政側が取り組んだ「帰還」の実施過程を明らかにする、の4点に重点を置いたことを述べている。
さらに、本論文の史料としては主に日本側の行政文書を使用したことを述べ、その主要なものについて簡潔に説明し、あわせて南朝鮮における帰還者受入政策などに関して米軍政庁文書(英文史料)を活用したことに触れている。
最後に、各部各章の構成が示されている。
第1部では、第1~3章から成り、日本敗戦直後の時期における日本政府およびGHQ/SCAPによる朝鮮人帰還政策の形成・実施の過程を検討している。
第1章では、敗戦間もない時期に日本政府が想定していた朝鮮人帰還計画とその実施過程を明らかにしている。
第1節では、1945年12月末頃に日本政府が作成した文書「帰還朝鮮人輸送計画概要」では、帰還見込み者1,043,700人、日本残留者998,000人と想定していたことを指摘した上で、(1)この文書は9月25日付厚生省社会局の文書「内地在住朝鮮人帰鮮希望見込数」を踏まえていること、(2)山口県・福岡県の文書からは、日本政府が8月半ば過ぎに知事宛に朝鮮人の状況について調査報告するよう指示していたと推測される、と述べている。
第2節では、1945年8月15日から1946年12月末の期間終了までにおける朝鮮人帰還者数は、先行研究によれば約140~150万人と見られており、上述の日本政府が当初に想定した帰還見込み者数の約1,043,700人と大幅に違っていることを指摘し、この相違を理解するためにも、日本政府とGHQ/SCAPによる帰還政策の立案・実行の過程を詳しく検討する必要があると述べている。
第3節では、1945年8月下旬から10月末までにおける日本政府による朝鮮人帰還の実施過程を跡づけている。まず、日本政府が朝鮮人帰還を進める方針を決定したのは、8月21日の次官会議の決定「強制移入朝鮮人等の徴用解除方針」であり、それを具体化したのは9月1日付の厚生省勤労局長・同健民局長・内務省管理局長・同警保局長発の地方長官宛通牒「朝鮮人集団移入労務者等の緊急措置の件」であることを示している。9月1日付通牒は、「朝鮮人集団移入労務者」については土建労働者を優先し、石炭労働者を最後として優先順位をつけた計画輸送をなし、「一般既住朝鮮人」については現住地での待機を指導することを骨格とするものであったが、筆者は同方針の思惑と実施の実態について、次のように分析している。(1)炭鉱等では「集団移入」の朝鮮人労働者を引き続き就労させようとしていた。(2)一方では「集団移入」労働者が手当の支給無く解雇されて、困難な旅行の末に下関・博多に集まっていることに対して、朝鮮総督府が内務省宛に抗議していた。(3)帰還の実施に当たっては、興生会(第2章第2節で詳述)や自主的な朝鮮人団体を利用していた。(4)10月22日に、日本政府は「一般朝鮮人」の帰還についても、「内地既住一般朝鮮人帰鮮に関する件」を出し、班に編成して帰還させる計画を示した。(5)実際には送出港へ殺到する帰還者が増大し、10月にはGHQ/SCAPから帰還者殺到の抑制を求める覚書が重ねて出され、日本政府は9月1日付通牒の方針を変更しなければならなくなった。
第2章では、 GHQ/SCAPが積極的に関与するようになって以降の時期における日本政府とGHQ/SCAPによる帰還政策の推移を検討している。
第1節では、日本政府の当初の方針(9月1日付通牒)では一部就労させるとしていた炭鉱労働者についても、炭鉱労働者の早期帰国実現と待遇改善を求める行動に押されて、早期に帰還させる方針に転換した過程を考察している。この転換は、GHQ/SCAPや米国第8軍の要員の炭鉱視察の結果により、11月1日付でGHQ/SCAPの覚書「非日本人の日本よりの帰還に関する件」(SCAPIN295)が北部本州及び北海道の中国人・朝鮮人労働者の帰還を優先させることを打ち出したことによるものであり、これによって日本政府の当初の帰還方針は破綻したと論じている。
第2節では、日本政府が朝鮮人帰還政策を進める上で当初利用した「興生会」について考察している。(1)興生会は、在日朝鮮人を統制するために組織されていた「協和会」が1944年12月22日の日本政府閣議決定「朝鮮人及台湾人同胞に対する処遇改善の件」に基づいて改組されたものであり、朝鮮人の「皇民化」促進を目的としていたこと、(2)日本敗戦後、9月28日付の厚生省健民局長・内務省警保局長発地方長官宛通牒「終戦に伴う内地在住朝鮮人及台湾人の処遇に関する応急措置の件」によって興生会は存置され、軍事動員・労働動員・日本語教育などに関する事業は停止したものの、職業指導、生活相談の事業は継続するとされたこと、(3)10月4日に興生会の事業を指導監督してきた特別高等警察が廃止されたことに伴い、11月15日に中央興生会は解散されたこと、などが説明されている。
第3節では、1945年10月18日にGHQ/SCAPにより厚生省が引揚に関する中央責任官庁とされ、11月に地方引揚援護局が設置されてから1946年1月までの帰還援護事業の展開について検討している。
第3章では、1946年3月18日に実施された朝鮮人の帰還希望登録調査とこれに基づいて実施された「計画輸送」について検討している。
第1節では、1946年1月に入ると朝鮮人の帰還者は減少したこと、日本政府は帰還促進のために帰還希望登録調査を行なう方針を固めたこと、GHQ/SCAPからも3月18日までに朝鮮人および台湾人の登録を行なうことを求められたこと、などを述べている。
第2節では、3月18日に実施された帰還希望登録調査について、3月5日付の厚生省「朝鮮人・中国人・琉球人及台湾人の登録実施要綱」を詳しく説明した上で、兵庫県神津村(現在の伊丹市の一部)の役場文書を利用して神津村では予定どおりに調査が実施されたことを確認している。筆者は大規模な帰還希望登録調査が短期間のうちに実施できたのは、在日朝鮮人連盟(以下、朝連と略す)の協力があったからであると論じている。
第3節では、1946年4月9日のGHQ/SCAP覚書「中国、台湾人、中国人の送還」(SCAPIN872)を受けて、4月25日に開始された帰還希望朝鮮人の「計画輸送」について検討している。帰還希望登録希望調査では帰還希望者が514,060人であったにもかかわらず、帰還者は減少を続け、当初は9月末終了とされた「計画輸送」は、日本政府のGHQ/SCAPへの要望により、11月15日まで、12月15日まで、12月28日までと再三延長されたことを指摘している。また、朝鮮人が帰還を希望しながら帰還をしなかった理由について、高知県が1946年8月に行なったアンケート調査「朝鮮人帰国理由調査表」を紹介して、帰国しても生活困難であること、日本の方が朝鮮よりも生活条件が恵まれていること、家財道具や現金の携帯に制限があることが、主要な理由であったことを確認しているのは重要である。
第2部では、帰還実施の「現場」であった送出港のうち、仙崎港・博多港とそれらの港を抱えた山口県・福岡県の状況、受け入れ側であった南朝鮮における米軍政庁の対応、送出港へ帰還者を送り出した側である大阪府の対応について、具体的に検討している。
第4章では、関釜連絡船の発着港である下関港と機雷投下によって使用できなくなった同港の代用港とされた仙崎港からの「帰還」に対して、山口県などがどのように対応したのかを検討している。
まず、第1節では、1945年8月30日付で山口県知事から内務省警保局長などに送られた文書「下関市に於ける帰鮮朝鮮人の滞留状況に関する件」に基づいて、敗戦直後から下関港・仙崎港に朝鮮人が集まり、滞留しはじめたこと、山口県は宿泊施設の提供、米の特別配給、衛生対策を講ずる一方、警備を強化したこと、などを明らかにしている。
第2節では、敗戦直後における山口県の県内在住朝鮮人および帰還者対策について検討している。県が(1)「便船のある迄」、「集団移入労務者」の徴用解除をおこなわないよう指導する、軍関係工事の停止などによって失業した者を土木工事に当たらせることを検討するなどの手段によって、朝鮮人労働者の活用を図っていたこと、(2)県職員や県興生会職員を下関・仙崎に派遣して帰還者への対応をしたこと、を明らかにしている。
第3節では、1945年10月18日付で厚生省社会局福利課が作成した文書「下関滞留朝鮮人に関する情報」に基づいて、同時点での下関・仙崎の状況を分析している。これによって、厚生省は下関・仙崎に約1万8千人の朝鮮人滞留者があったこと、朝鮮との間に「闇連絡機帆船」10隻近くがあったこと、滞留者の宿泊先・医療・食糧・燃料などに多くの問題があることなどを把握していたことを明らかにしている。また、朝鮮人団体による支援活動にも触れ、その中には釜山から派遣されてきたものがあったこと、その活動は日本政府とGHQ/SCAPによってしだいに制限され、解散された団体もあったことを明らかにしている。
第4節では、1945年11月24日に設置された下関地方引揚援護局(1946年10月1日廃止)と同局仙崎出張所(1946年10月1日仙崎地方引揚援護局に昇格、同年12月16日に廃止)の業務内容と朝鮮人に対する援護活動について述べている。
第5章では、博釜連絡船の発着港であった博多港からの「帰還」に対して、福岡県がどのように対応したのかを検討している。
第1節では、主として1945年9月11日付で福岡県が内務省に提出した文書「半島人の動向概要報告の件」に基づいて、敗戦直後に博多港付近に滞留する朝鮮人と県内在住朝鮮人の状況を分析し、次のような点を指摘している。(1)8月下旬には東部軍・中部軍から召集解除された軍人約4,000人が博多港に滞留する事態になったが、県は西部軍と協議し、西部軍が当該軍人を国民学校3校に収容する措置を取った。(2)「一般朝鮮人」は一括収容し、25人を一班に編成し、逐次帰還させたが、「闇船」を利用して帰還する者も多くいた。(3)「集団移入労務者」については、県は九州地方総監府・門司鉄道管理局と協議した鉄道輸送計画を立て、これに基づいて博多港に運び帰還させた。(4)県は約20万人の県内在住朝鮮人の動向を分析していたが、「既住者」(長年にわたる居住者)のうちの「有識層」は日本に留まる方がよいと考えているとみていた。(5)帰還者の宿泊施設に充てられた施設は日本馬事会の倉庫を改造したものであり、「帰還」を援護する県の職員も少数であったと思われ、日本人引揚者に対する援護の体制に比べて弱体であった。
第2節では、朝連福岡県本部が発行していた『世紀新聞』の記事に基づいて、1946年4月以降、帰還者が減少していること、南朝鮮へ帰還した人の生活が困難であることが報道されていたことを述べている。
第6章では、日本敗戦後の南朝鮮における日本からの帰還者の受入の体制と政策について検討している。
第1節では、1945年9月8日に南朝鮮の占領を開始した米第24軍団到着の前に、朝鮮総督府が実施した朝鮮人帰還者への支援・援護の状況について述べ、朝鮮人による援護団体の結成とその活動についても分かる限りのことに触れている。
第2節では、米国が南朝鮮占領に当たって設置した朝鮮米軍政庁による朝鮮人帰還者の受入体制の成立過程を検討している。それによって、1945年9月23日に、日本人の引揚と朝鮮人の帰還は軍政庁の外事局の所管となり、引揚の各段階に応じた作業手続は11月1日までに定められたことを明らかにしている。
第3節では、外事局による朝鮮人帰還者への援護活動を、大きく4つの部分に分けて検討している。まず、外事局による朝鮮人帰還援護事業を補佐するための組織として、1945年9月30日に朝鮮人救済連合会が結成されたこと、各救済団体による活動の内容を明らかにしている。ついで、釜山港・群山港における外事局および救済団体による支援や援護活動の内容を明らかにしている。釜山港における活動は9月末から、群山港における活動は11月からであると推測している。第3に、1945年11~12月に外事局が行なった釜山・群山・木浦・仁川からの帰還者の鉄道輸送ルートの調査の報告を扱い、外事局が不必要な輸送が多いとして、「目的別輸送計画」を立てて実施するに至り、これは日本の送出港にも採用されて、目的別の乗船・乗車計画が、1946年2月9日付の覚書「朝鮮人の送還」(SCAPIN726)によって開始されることになったことを明らかにしている。ただし、1946年2月には帰還はほとんど終わっていたので、後手に回った計画であると筆者は評している。最後に、1946年2月19日付の米軍政庁法令第49号「朝鮮に入国または出国者の移動の管理および記録に関する件」によって、「不法な船舶」による入国や日本への再渡航の取締を強めたことを明らかにしている。
第7章は、1946年夏以降に南朝鮮からの再渡航者が増大したことに対して、日本政府とGHQ/SCAPが講じた対策について検討している。
第1節では、検挙された再渡航者数の統計から、1946年夏以降に再渡航者が増大していると推測し、再渡航者が生まれた要因としては、携帯できる手荷物や現金の制限などにみられるように、帰還政策が帰還者の意向に沿っていなかったことがあると論じている。 第2節では、南朝鮮でのコレラの発生を受けて、GHQ/SCAPは1946年6月12日に「日本への不法入国抑制に関する件」(SCAPIN1015)を出し、日本政府に「不法入港せんとする船舶」の監視・逮捕を命じたこと、これに対して日本政府は朝鮮人再渡航者に対する強制送還権の付与を求めたこと、GHQ/SCAPは強制送還権は認めず、代わって6月20日に「不法入国船舶監視本部及び不法入国船舶監視部」(海上保安庁の前身)の設置を認めたこと、などを述べている。
第3節では、内務省警保局が1946年8月頃に作成した文書「出航朝鮮人取締に要する経費」に基づいて、内務省が再渡航者を取り締まるために監視哨の増強、「密航者収容所」の新設・改造を図ったことを明らかにしている。
第4節では、1946年12月1日付で朝連が作成した「密航同胞調査書」に基づいて、再渡航者が日本の海岸に到着したときの状況、「密航者収容所」の状況を明らかにしている。
第5節では、「かつて日本に生活基盤があった者」が再び日本へやってくることを考えると、彼らをただちに「密航者」として取り締り、収容所に収容し、送還すべきなのかと、問題を提起している。
第8章では、1946年の「計画輸送」の開始から終了の時期までにおける大阪府の朝鮮人帰還者への対応を分析している。
第1節において主な先行研究を紹介した後、第2節では、敗戦直後から1945年11月までに大阪府では20万人近くの朝鮮人が帰還したことを明らかにしている。
第3節では、「計画輸送」のための帰還希望登録調査に当たって、大阪府は「要登録人員」を約5万人多く見積もって予算を国に追加申請しているが、どのように使われたのかは不透明であると論じている。
第4節では、1946年9月から12月までの時期における大阪府による再渡航者取締体制の強化過程、とりわけ10月の「密入朝鮮人収容所」の設置、12月1日の「大阪府朝鮮人登録条例」について詳しく明らかにしている。
結論では、各章の要約を示した上で、敗戦直後の在日朝鮮人の帰還政策の形成過程に見られる特徴を論じ、今後の課題を提示している。
前者は、(1)日本政府は朝鮮人帰還者にできるだけ合った政策を策定し、実行することはできなかった、(2)帰還を実施する現場では常に警察が関わっていた、の2点である。 今後の課題としては、(1)朝鮮人の帰還に関する占領軍関係(英連邦軍を含む)の英文史料調査・分析、(2)日本以外からの朝鮮人の帰還の分析、(3)本論文では取り上げられなかった送出港における現場の状況の分析、の3点を提示している。
3.本論文の成果と問題点
本論文の第1の成果は、地方行政文書や聴き取りを含む史料の丹念な調査・収集によって、敗戦直後の在日朝鮮人の帰還政策の立案・実施過程について、多くの空白部分を埋めることができたことであり、高く評価できる。
第2の成果は、帰還の実施過程に関して、現場である送出港の状況と送出港を抱える県の対応について、県の文書や地方新聞記事などの収集・検討によって、具体的なありさまを明らかにし、現地の果たした独自の役割を示すことができたことであり、これも高く評価できる。
第3の成果は、朝鮮米軍政庁文書を利用して、軍政庁による帰還者受け入れ体制の実態を明らかにし、帰還の過程をより広い視野で見ることができる足がかりを築いたことである。
第4の成果は、再渡航と日本側の取締体制の構築の過程について、詳しく考察できたことである。
第5の成果は、朝鮮人の帰還に当たって朝連などの朝鮮人団体が果たした役割を、可能な限り明らかにできたことである。
本論文の問題点は、第1に、東アジア全域における引揚の全体的構造や国際政治の大きな枠組みの中に、在日朝鮮人の帰還を位置づけることが弱いことである。
第2に、深刻な船舶不足や機雷で封鎖された航路の啓開の問題などを考えるならば、日本人の復員・引揚との関連をもっと重視すべきことである。
第3に、送り出した地域の行政当局の対応は扱っているが、さらに進んで地域社会(住民レベル)と帰還との関係について把握する必要があることである。
しかし、以上の点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。
最終試験の結果の要旨
2014年6月11日
2014年5月15日、学位論文提出者鈴木久美氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「在日朝鮮人の「帰還」に関する研究(1945~1946年)」に基づき、審査委員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、鈴木久美氏はいずれも適切な説明を与えた。
以上により、審査委員一同は鈴木久美氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。